読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

「放射脳」を笑ってどーすんの?

冗語
このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr
 

f:id:Rootport:20131116114023j:plain

 現代日本において「冷静であること」は至上の価値と見なされ、成熟した人間の最低条件だとされがちだ。パニックに陥ることは忌むべき幼稚な行為だと断罪される。とくに3.11の震災以降は、その傾向が強くなったと感じる。短絡的な恐怖に取り憑かれるあまりパニックに陥り、放射能汚染のリスクを過大評価する人は、「放射脳」と呼ばれて蔑みと嘲笑になる。それが今の日本だ。

 冷静であるほどいいし、みんなが「安全だ」と言っているものに対しては、心をひとつにして安全だと信じるのが成熟した判断だ──。今の日本では、このような価値観がマジョリティの支持を得ている。

 ところが、である。

 震災当時、釜石市では小中学生の生存率が奇跡的に高かった。その理由は、津波のときは「てんでんこ」に逃げろという教えがあったからだそうだ。「てんでんこ」とは、「てんでばらばらに」とか、「各自の判断で」といった意味だという。周囲の反応をうかがって冷静な判断を心がけるよりも、とにかく逃げろ。津波てんでんこは、そのように説いているわけだ。「心を1つに」とか「一致団結」とは、対極にある教えだ。

生存率99・8%「釜石の奇跡」 「津波てんでんこ」の教えの正しさ

 平成23年3月11日。午後2時46分に東日本大震災が発生すると、釜石東中の副校長は教室から校庭に出始めた生徒たちに、「(避難所へ)走れ!」「点呼など取らなくていいから」と大声で叫んだ。
 そして若い教職員に、率先避難者となって生徒たちと避難所へ走るよう指示。避難所は約700メートル南西の福祉施設で、所在地は訓練で全生徒に周知していた。

 避難した小中学生約600人は、標高約10メートルの福祉施設に到着したが、裏手の崖が崩れそうになっていたため、中学生らがもっと高台への移動を提案。さらに約400メートル離れた標高30メートルの介護施設へ、小学生の手を引きながら避難した。

 ここに貫かれているのは、徹底した自己判断と、半径数メートル範囲の人々が助け合う姿だ。1000年に一度の災害を前にして、行政の冷静な判断をあおぐ余裕はないし、大人たちの見識があてになるとは限らない。たとえ(社会的に未成熟な)中学生の発案であっても、その場にいる人々が「理あり」と感じたら従う。真に危機的な事態を直面したとき、人はそうするしかない。

 もしも冷静に整列させて、冷静に点呼を取っていたら、釜石市の子供たちの犠牲はもっと深刻なものになっていただろう。危機的な状況下においては、合理的な判断は役に立つかもしれないが、冷静な判断は無力だ。

 

   ◆

 

 ところで、野生動物を何世代にも渡って人に馴らしていくと、やがて脳が萎縮して攻撃性や警戒心が薄くなる。1960年代に遺伝学者ドミトリ・ベリャーエフは、野生のキツネを人に馴らす実験を行った。飼育しているキツネのうち、より人懐こい個体同士を交配させて、さらに人懐こいキツネを生み出そうとしたのだ。

 その結果、25世代ほど交配を繰り返したところで、非常に人に懐きやすいキツネが得られた。それこそ犬やネコのように、自分から人にすり寄ってくるようになったのだ。この新種のキツネは人を怖れないのみならず、耳は垂れ下がり、鼻面は短くなり、脳が小さくなる等、幼いキツネの子供の特徴が成体になっても維持されるようになった。

 幼い哺乳類は恐怖心が希薄で、そのため攻撃性も低い。世代交代によって動物が人懐こく従順になる過程では、脳の成長が未熟なまま止まっている可能性が高い。脳が萎縮し、恐怖心や攻撃性といった情緒反応の抑制が解かれにくくなるのだ。端的にいえば、たとえばオオカミの脳が無警戒な幼児のまま成体になったものが、犬である。

 驚くべきことに、ヒトも過去1万5000年の間に脳が急激に小さくなったらしい。化石の記録によれば、数百万年前のアフリカで人類の祖先が誕生して以来、脳の容積は着実に増大し続けていた。ところが、約5万年前の中石器時代にヒトの脳容量が平均1,468cc(女性)と1,567cc(男性)だったのに対して、現在ではそれぞれ1,210ccと1,248ccにまで減少している。

 約1万5000年前といえば、ちょうどホモ・サピエンスが定住生活を始めたころと重なる。人類学者リチャード・ランガムは、地縁的な村落を作るようになった人類は、もはや反社会的な行動を容認できなくなったのではないかと指摘しているという。社会性が高まった結果、強すぎる攻撃性や警戒心(猜疑心と言い換えてもいい)を持つ個体を追放したり、監禁したり、処刑するようになった。言い換えれば、より攻撃的で衝動的な──より脳が大きく成熟した──人間を、殺していたはずだと言うのだ。

 サイエンスライターのマット・リドレーは、これをヒトの「自己馴化」と呼んだ。馴化とは、動物を飼い馴らすという意味だ。ヒトは社会性を獲得する過程で自らを家畜化し、オオカミが子犬になったように、無邪気で無警戒な存在になったのかもしれない。

 心理学には、正常性バイアスという言葉がある。日常から著しく逸脱した状況を前にすると、ヒトは思考を停止して、自分に危険は及ばないと判断してしまう。たとえば迫り来る津波をのんきにビデオ撮影したり、火災報知器を「きっと誤作動だろう」と判断するとき、その人は正常性バイアスに陥っている。

 こうしたバイアスを持っていること自体が、ヒトが野生のころに持っていた警戒心や危機意識を捨てて「自己馴化」した証拠だと、私には思えるのだ。

「みんなが安全と言ってるからきっと安全なのだろう」

「みんなが勝てると言ってるから、この戦争はきっと勝てるのだろう」

 ──おそらくこうした判断はすべて、ヒトの脳が萎縮して、野生動物としての成熟を果たせなくなった結果である。

 災害の直前にネズミが慌ただしく走り回ることを、私たちは経験的に知っている。「山火事の数日前に鳥獣が逃げ出した」というタイプの話は枚挙にいとまがない。野性動物にとって、ある種のパニックは生存率を高める行動なのだろう。恐怖に駆られてその場から逃げ出すことで、結果として生き残る確率が高まる。野生動物にとって、パニックに陥るのは適応的な行動なのだ。

 一方、ヒトはどうだろう。

 たとえば山で遭難したときは、絶対にパニックを起こすなと言われる。冷静に救助を待つべきだと、きつく言い聞かされる。しかし、それは捜索・救出をしてくれる社会制度があるからだ。社会制度そのものが機能を果たせない状況では──たとえば致命的な津波が迫っているときは──「冷静さ」が命取りになる場合もある。釜石の教職員と子供たちは冷静な点呼などせず、ただひたすらに動物として合理的な行動を取った。波が迫ってくるなら一刻も早く高台に逃げるべき:反論の余地のない合理的判断だ。

 

   ◆

 

 パニックを起こさず、つねに冷静な判断を心がけること──。

 これは成熟した大人の条件だと見なされがちだ。しかし野生動物の基準で考えれば、警戒感を持たない幼稚な行動なのかもしれない。そして地球上でもっとも繁栄している野生動物は、人類である。このことを鑑みれば、何が成熟で何が未熟なのか、短絡な判断は下せない。パニックを起こさないのは、ただ正常性バイアスにとらわれているだけかもしれないのだ。

 もちろん、合理的な判断が下せないレベルのパニックは論外だ。燃えさかる炎の中に飛び込んだり、凍える海に裸で立ち向かったりするのは、蛮勇ではなく無謀である。

 しかし、だ。

 ある程度の範囲内で、適切なパニックに陥ることは、個人の生存に有利に働く。でなければ、そもそも「パニックに陥る」という行動そのものが進化の過程で淘汰されたはずだ。災害前のネズミや山火事直前の獣のように、哺乳類全般に広く見られるはずがない。パニックは、私たちの進化的適応の一端である。

 さらに言えば、一つの社会のなかにパニックに陥る人と、そうでない人がいるほうが望ましい。パニックに陥る人とは、つまり、いち早く危機に気づき、集団全体に警告を発する人だ。パニックになる人、楽観視する人、現状分析する人、判断を下す人など、多様な人々が共存しているほうが、集団の存続可能性は高くなる。

「人は一人では生きられない」とは、本来そういう意味だ。

 性格や行動に多様性があるからこそ、私たちの社会は、いかなる状況にも対処できる順応性としなやかさを得られるのだ。

 とりわけ最近の日本では、パニックに陥る人を排除しがちだ。「放射脳」と嘲笑するのは、その好例だ。しかし集団の適応性を考えた場合、誰よりも先にパニックになって、いち早く警告を発する個体は必要不可欠である。

 問題は、パニックに陥る人を排除することではない。なぜなら、そういう性質の人は(というか、そういう性質をもたらす遺伝的資質は)進化上の必要性をもって現在まで残存しているのであり、私たちの社会に一定の割合で生まれてくるからだ。あなたがどれほど「放射脳」な人を嫌っていても、必然的に、不可避に、確実に、そういう人は生まれる。原発問題が片付いたあとの遠い未来でさえ、何か別の社会問題に対してパニックに陥る人は出てくる。

 なぜなら、パニックに陥る人はヒトの集団に必要だからだ。進化の過程で坑道のカナリヤのような役割を果たしてきたのであり、今後も数万年はそういう役割を果たし続けるだろうからだ。

 したがって「放射脳」な人を笑いものにしても、何も解決しない。

 より重要なことは、パニックに陥った人をいかに安心させるかである。それは原発の即時廃止かもしれないし(※もっともラディカルな策)、あるいは原発事故の責任の所在をハッキリさせ、安全管理の方法を見直し、次に同様の事故が起きたときの対処法を明確化することかもしれない(※わりと穏当な策)。

 何もせずに事態を静観し、なんとなくみんなが安心しているから「まあ安心なのだろう」と判断する。それこそ、人が自己馴化のすえに陥った無邪気な無警戒にほかならない。

 

 

 何かを恐怖するのは、感情の問題である。

 パニックは、感情の振れ幅の1つである。

 そして感情は、進化上の必然性をもって生まれたのであり、進化の過程でヒトの集団に有益だったからこそ、現在まで残ってきた。

 パニックに陥る人を排除する集団は、適応度が下がる。「あそこにライオンの群れがいるぞ!」と誰よりも先に叫ぶのが、おそらく、数万年前のパニックに陥る人の役割だった。「あのライオンたちは満腹だから怖がる必要はないよ」と仲間が諭しても、彼らは安心できなかった。空腹なライオンが混ざっているという万に一つの可能性を無視できないからだ。そういう過剰な警戒心・恐怖心を持つ個体がいたからこそ、私たちの祖先は危険な肉食獣や自然災害から逃げ延びて、現在まで生きてきた。

 時代が下るにつれ、ライオンは他のものに代わっていった。しかしそれでも、いち早く警告を発する個体が有益だったのは言うまでもない。

 パニックに陥る人を安心させることができない社会は、未熟な社会だ。強い警戒心と恐怖心を持つ人を、ただ嘲笑して排除するしかないとすれば、つまりその社会は無邪気で無警戒な、幼稚な個体の集まりでしかない。

  少なくとも、「笑い飛ばすこと」が冷静な対応だとは思えない。

 

 

 

 

やわらかな遺伝子

やわらかな遺伝子

 
生き物たちの情報戦略―生存をかけた静かなる戦い (DOJIN選書 11)

生き物たちの情報戦略―生存をかけた静かなる戦い (DOJIN選書 11)

 
街場の憂国論 (犀の教室)

街場の憂国論 (犀の教室)

 

 ※まあ、なんつーか、「放射脳」は笑ってる側もちょっとヒステリーを起こしてるよね。「安全だ!」「ただちに影響はない!」と自分に言い聞かせてて、わずかでもその暗示を解こうとする人がいれば無視できずに叩く。