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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

ネオヒルズ族の「ヤバさ」について

冗語
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やっぱりネオヒルズ族はヤンキー向けに商売してるっぽいね。パーティーのゲストにメンズエッグのモデルを呼んだり、(ネットより)テレビで話題の人を呼んだり……。わかりやすくヤンキー狙いなのが見て取れる。

Rootport(@rootport)


ネオヒルズ族の何がヤバいかと言えば、彼らによってあぶり出された「日本人のカネのセンスの無さ」がヤバい。「○秒で×億円稼ぐ!」というキャッチコピーが刺さるのは、「稼ぐ」という言葉のあいまいさを知らない人だけだ。給与報酬なのか、収益なのか、利益なのか、それともキャッシュインなのか……。初歩的な簿記の知識があれば、「稼ぐ」という日常語のあやふやさを知っている。しかし日本では、そういう知識を持たない人がたくさんいる。少なくとも、情報商材ビジネスを成立させる程度には、日本人はカネのセンスに欠けている。









機械との競争

機械との競争


『機械との競争』を読んだ。私が直観的に感じていたことを、頭のいい人たちはとっくに気づいていたようだ。
「技術革新によって機械が労働者の仕事を奪う」という考え方は、「労働塊の誤謬」と呼ばれ、錯覚にすぎないとされてきた。たとえば19世紀初頭のイギリスでは、職人たちが機械を壊して回る「ラッダイト運動」という事件が起きた。しかし、それから20世紀にかけてイギリスの経済規模は脹れあがり、失業者は新たな産業に吸収されていった。
蒸気機関の発明、内燃機関の発明、電気の普及……。革新的な技術が生まれるたびに、それまで人間のやっていた仕事が無くなった。しかし技術革新は新たな需要を生み出し、新たな産業を作る。そして、失業者を吸収して社会全体が豊かになる。これは机上の空論ではなく歴史的事実だ。
ところが、人間の学習速度には限界がある。
たとえ話をしよう:都会に出てきた15歳の少女がエレベーターガールの仕事を得て、それから30年間続けたとする。ところがネット通販の興隆によってデパートがつぶれたとき、彼女が学習してきた職業上のスキルは水泡に帰す。45歳になった彼女は、たぶんAmazonでは働けない。



ある自動階段人夫の話
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20120413/p1


「経済学が、デフレ・ギャップが原因で失業した建設労働者に向かって、『あなたはプログラマーになる能力がないから職に就けないのです』というしかないならば、経済学など不要であろう」(岩田規久男『デフレの経済学』)……名言だと思う.こういう感覚を持って経済を語る人に僕もなりたい.

飯田泰之(@iida_yasuyuki)

「人間の学習速度には限界がある」
これは、とても重要な視点だ。人間の学習速度よりも急速に仕事がなくなれば、そこで失業者が生じる。『機械との競争』は様々な実例を出しながら、このことを説明しようとしている。176頁の薄い本であり、内容もあまり堅苦しくない。週末にお気楽に読めてしまう一冊だ。



技術革新が今後も指数関数的に進めば、膨大な数の人が職を失う。次世代を担うべき若年層が職業人生をスタートできなくなる。
では、どうすればいいのか。
著者は「教育の改善」を第一にあげている。が、私の個人的な見解としては、なにか問題が生じたときに教育のせいにするのは「スジが悪い」と思っている。
「教育」は誰もが経験しているため、高度に専門的な分野だという事実を忘れがちだ。教育の技術は、ヒトの生理的・心理的な成長過程に基づいた科学だ。教育の目的は、私たちの文明を継承することだ。教育は、工業製品の製造ラインではない。少なくとも著者の主張する「改善策」は、大学以上の高等教育にしか適用できないと感じた。
とはいえ現在の教育が、永遠にこのままでいいわけでもない。
ここで冒頭の「超ヤバい男」の話に戻る。超ヤバいネオヒルズ族の男は、何がヤバいかといえば日本人のカネの知識の無さをあぶり出しているからヤバい。売上と利益とキャッシュインの区別がつかず、自己資本比率を気にしない人なら、「すげー」と感じるのだろう。で、そういう人たちが彼らを支えているのだろう。
具体的には、国道沿いの中卒ヤンキー。そういうヤンキーが憧れるようなカネの使い方をしているし、そういうヤンキーと同じようなメンタリティーの人が主な顧客になっているのだろう……と私は想像している。偏見なのは認める。 ※しかもヤバい男の著作は一冊も読んでないので、この部分でも余談と偏見に満ちている。ごめんなさい。
では、なぜ私たちはこんなにもカネのセンスがないのだろう。
現在の教育は、もとをただせば18世紀のイギリスに起源がある。粒ぞろいな労働者を輩出することが、工業化時代の学校教育には求められていた。製造ラインの指示書を読める程度には識字能力があり、部品点数を数えられる程度には算数能力があり、勤務時間を守る程度にはチャイムの音に敏感である――。そういう人材の育成を目的として、現代の学校教育は始まった。
日本には「読み・書き・そろばん」という言葉があり、明治時代の小学校では複式簿記を教えていたらしい。ところが戦後、小学校教育から簿記が無くなる。急速な復興・工業化が進む背後で、「そろばん」からカネの管理が消え、単なる算数だけになってしまった。卒業生の大部分がLabor workに就くことを前提としていたため、カネの管理など二の次、三の次だったのだろう。
しかし、こうしたLabor workは――工業化の時代に必要とされた単純労働は――まさに「機械との競争」によって消えていく仕事だ。これから生き残るのは、機械では代替できない仕事だ。具体的には、創造的な職業か、対人型の肉体労働だ。
たとえば、「単語を機械的に組み合わせて作詞するプログラム」を作ることはできる。しかし、それが良い歌詞かどうか、ヒトが心地よく感じる歌詞かどうかは、ヒトではない機械には判断できない。だから創造的な分野では、もうしばらく人間の優位が続くだろう。また対人型の肉体労働も、機械化が難しいという。人間関係はあまりにも複雑で、その処理を動作と同期させるのが難しい。介護、育児、医療、教育などの対人型の労働では、人間の優位が続くだろう。
日本に限らず、多くの国で教育制度が機械化・情報化に追いついていない。単純労働のための人材を育成することから、離れられずにいる。ネオヒルズ族のような商売が成り立つのは、その象徴だ。知識不足の人間を食いものにする商売が存在するのは、知識不足の人間がいるからだ。学校だけでなく、社会全体がバカを生み出しているからだ。
私は以前から「簿記ぐらいは小学生のうちに教えたらどうだろう」と考えている。
「雇われる」のが当たり前の時代には、人々は金銭的に自立する必要がなく、したがって簿記もいらなかった。しかし今後は、人間を雇用するぐらいなら機械にやらせたほうが安上がりな時代になる。ならば人々は金銭的に自立せざるをえず、カネの管理は社会のあらゆる階層に求められる能力になるはずだ。
たとえば国道沿いの中卒ヤンキーがみんな簿記三級を持っている世界、かんたんな財務諸表分析ならできる世界、そういう世界になれば日本は変わる。



私の考えは、無茶苦茶だろうか。
実現不可能な夢物語だろうか。
明治時代、日本人の半分は実用的な読み書きができなかったという。ひるがえって現代では識字率は99%を超え、文芸やメール、ブログ、SNS、掲示板……文字文化が花開いている。こんな現代日本を100年前の人々は想像できなかっただろう。









※関連項目

知識ゼロから学ぶ簿記のきほん/おこづかい帳と簿記はなにが違うのか
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120131/1328021248

識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験
http://home.hiroshima-u.ac.jp/cice/publications/15-1-04.pdf

20代会計士、ネオヒルズ族を斬る!
http://yone0713.blog.fc2.com/

イケてるしヤバい男・長島
http://iketeru-nagashima.com/

サクッとうかる日商簿記3級商業簿記 テキスト 【改訂五版】

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サクッとうかる日商2級工業簿記テキスト

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※ちなみに識字率については、都市部と地方でかなりの格差があったようだ。たとえば東京は「江戸」の頃から高い識字率を誇っていた。武家が多く、一般庶民も武士の習慣を貪欲に取り入れていたこと等が理由であり、同時期のロンドンやパリよりも識字率が高かったといわれている。(※でなければ瓦版など普及しない)
※また寺子屋は全国的に普及していたため、かんたんな「かな文字」程度ならばかなりたくさんの人が使えたようだ。ただし当時は、本格的な文書には漢文が用いられる場合も珍しくなかったため、かな文字が使えるだけでは「実用的な識字能力」にならなかったらしい。言文一致運動により日本語は使いやすくなったが、反面、漢文が衰退し、古い資料にアクセスしづらくなってしまった。