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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

だから、もっと“ヘンな人”になろう。

冗語
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Nintendo DSの開発前夜の話だ。特徴的な上下2画面は、前社長・山内博さんの発案だったという。他社が高性能なポータブルゲーム機を次々に開発しているなかで、ただの“高性能なゲームボーイアドバンス”を作るだけでいいのか? ――という危機感があったそうだ。
その時、山内さんは、岩田社長や宮本茂さんに向かってこんなことを言った:

もう据置型ゲーム機も含めて、
同じようなものをつくってても、個性はない。
個性がないところには価格競争が起こるだけだ

ゲーム機の電源を入れてもらうために


これは何も、ゲーム機に限った話ではない。個性がなければ価格競争に巻き込まれて、廉売するしかなくなる。あらゆるモノ、サービス、そしてヒトさえも、“個性”がなければ二束三文で買いたたかれる。

ここ10年、いや15年、どうかすると20年くらいか。ものの値段ってほんとに上がらない。うちの奥さまは三十代半ばだが「感覚的にものの値段が上がるっていうのがよくわからない」などとよく言っている。

ものの値段が安すぎる!

まず、「どうして商品の値段が下がるのか?」ですが、これは資本主義社会において工業化が進めば不可避の現象である、とマルクス先生は言います。
理屈としては単純で、かつては作るのが難しかった製品でも、大量生産が可能になればそれだけで安価で提供されるようになりますし、やがて生産技術が陳腐化して他社も似たような製品を作り始めれば、さらに価格は下がっていくわけです。
(中略)
これは「労働力」という〝商品〟についても同じ現象が起こります。要するに、放っておくと、労働者の賃金や労働条件も下がっていきます。

「ものの値段が安すぎる!」のは当然の帰結、とマルクス先生は仰った


マルクス先生の誤謬は、労働者として主に“単純作業を職業にする人”を想定していたことだ。
単純作業が次々にロボットに置き換えられて、あらゆる数字の管理を機械が一瞬で終わらせてくれる。しかも、そんなロボットや電算機が恐ろしく安い価格で手に入る。そういう未来をマルクス先生は予見していなかった。いまの私たちが生きる“現在”を、マルクス先生は知らなかった。
当然だ。
マルクス先生の目の前には、生まれたばかりの未熟な資本主義があった。愚劣な労働管理の下で、“歯車”として使い捨てにされる労働者で満ちていた。

機械化によるシステムが構築したあとでは、「効率の悪い」人力の仕事ですが、構築する前は、「それ以外の方法がなかった」仕事でした。

「孫の代までの仕事」が10年で消えたケース


しかし時代は変わった。
いま、あらゆる単純作業が機械に置き換えられようとしている。私たちの慣れ親しんだ“職業”が、恐ろしい速さで消失している。IT化や機械化は、単なる技術革新ではない。
たとえば火薬や羅針盤、印刷技術は、たしかに私たちの「生活」を変えた。しかし、人類の「生態」を変えるほどのインパクトは無かった。
ところが現在の私たちが経験しているのは、ヒトの生態の変化だ。ヒトという生物のあり方そのものが、変わろうとしている。

現在、人類は“知性の外部化”を経験している。影響は多岐に渡っており、国家をはじめとする旧来の組織がチカラを保てなくなりつつあること、グローバル化が進んだこと等も、知性の外部化の余波である。知性の外部化――情報技術の進歩は、今後100年は続くだろう。これは過去3回の大躍進に匹敵するほどの、とてつもない変化だ。

グローバル化・IT化はただの社会変化ではない、人類史上の大事件だ。


この流れが逆転することはないだろう。あらゆる“単純作業”は機械に置き換えられ、やがて職業ではなくなる。歯車のような“交換可能な人材”は必要とされなくなる。私たちは悲嘆に暮れながら、しかし現状を受け入れるしかない。いままでの普通の生き方ができなくなることを、所与の条件とするしかない。

「まず大きな方針として、交換不可能な人になるのが大事だと思う。この仕事はこの人にしかできないという立場になることができれば、絶対に食いっぱぐれない」

「そんなの知らないよ」と彼女は


結局、人間もゲーム機と同じように“個性”を持つしかない。
学歴を手に入れるだけでは意味がないし、資格を取るだけでも安心できない。自分をどんなに高性能にしても、それ以上に高性能な人間はざらにいる。問題は、学歴や資格をどう活かすかだ。高性能化を目指すのはいいとしても、重要なのはその能力をどうやってカネに変えるのかだ。
個性がなければ、自分を安売りするしかなくなる。
重要なのは、今までの人生から得られた「個性」をきちんと換金することだ。



       ◆



「個性の時代」や「個性重視」を批判する人は、たぶんカネを払って個性を買いつけようとした人なのだろう。カネを払っても何も手に入らなかったから、「個性」を必死で批判するのだろう。個性をたんなる流行に貶めた人々にも、それなりの責任がある。広告業界なり、マスメディアなり、「個性」という言葉でバカを騙して一儲けした人々も、それなりの批判を受けるべきだ。


「Q.あなたの個性は何ですか?」
「A.○○を買って、△△で遊んで、□□を消費していることです」
「Q.そのカネはどうやって手に入れたんですか?」
「A.歯車として働いて手に入れました」


――こんなの、バカげているじゃないか。

「カッコよく消費する」という価値観は過去のものになり、「カッコよく生産する」という価値観が広がりつつある。

“消費の時代”から“生産の時代”へ


どんなにカネを払っても、大した個性は得られない。
ほんとうの個性には、むしろカネが払われる。




カネにならない個性は、ただのファッションであって、個性とは呼べないと思う。














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