デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

集う人々

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※今回の記事は、まだ考えがまとまっていません。が、思いつきが新鮮なうちに残しておきたいので書き殴ってみます。誤字・脱字・冗長さをどうかご容赦ください。




発端は、柴那典さん( @shiba710 )のつぶやき:

先週くらいからずっと思ってたんだけど、東京でハロウィーンがここまで「ハジけた」のは今年からだよね。もちろん商業主義的なものあるとは思うけれど、“仕掛け”とかだけじゃなくて、そこに何か大きなうねりのようなものの一端を感じる。人々の欲求の挙動が形になっているような。
https://twitter.com/shiba710/status/263843353592995840

ハロウィンの仮想パーティーが目につくようになったのは昨年からで、震災の自粛ムードからの解放だったのではないか、クリスマスまで待ちきれなくなった人たちが街にあふれ出たのではないか――。という指摘に対して、柴さんは次のように回答なさっている。

日本だと“自粛からの反動”というわかりやすい説明があるけれど、それだけじゃなくて「見知らぬ人たちが一箇所に集まって騒ぐ」ことへの欲求が、世界的に噴出しているような気がする。”江南スタイル”のフラッシュモブhttp://bit.ly/T8S0WF )みたいに。
https://twitter.com/shiba710/status/263844442555940864

なぜ、私たちは集うのだろう。
地球の裏側ともリアルタイムで、ほぼ無料で会話できるこの時代、どうして顔を合わせたがるのだろう。見ず知らずの他人たちと、生身で触れ合おうとするのだろう。




     ◆ ◆ ◆




最近、シロクマ先生の『ロスジェネ心理学』を読んでいる。知る人ぞ知る人気ブログ「シロクマの屑籠」の“中の人”だ。現役の精神科医でいらっしゃるシロクマ先生が、現代社会をどのように斬るのか:書籍ではブログよりも丁寧な文章を書けるので、ふだんは手の届かない部分まできちんと煮詰められている。いわばシロクマ先生の“本気”だ。めちゃくちゃ面白い。

ロスジェネ心理学―生きづらいこの時代をひも解く

ロスジェネ心理学―生きづらいこの時代をひも解く

とくに「取り扱い要注意物件としての自己愛」という章がとても興味深かった。心理学や精神医学を少しでもかじった人には常識なのかも知れないが、私はかじるどころか香りを嗅いだことすらない。“自己愛”という見地からの現代社会の考察に、新鮮な驚きを覚えた。
日常用語としての“自己愛”には、悪いイメージがある。しかし、心理学の分野ではそうでもないらしい。もちろん自己愛が病的に強ければ問題だが、自己愛をまったく充足できないとやはり心の健康を損なってしまう。日常的な言い方に直せば、「自尊心は誰にでもある」ということだ。それを適度に満たし続けることが、平穏な社会生活には必須なのだろう。
そして自己愛の満たし方には、大きく分けて三つのパターンがあるという。すなわち、1.鏡映自己対象によるもの、2.理想化自己対象によるもの、3.双子自己対象によるもの、――以上の三つだ。
一般的に「自己愛」といえば、人々からの称賛を集めたい、拍手喝采されたい――という欲求のことをイメージする。これらは「鏡映自己対象による自己愛の充足」のことを指している。鏡を見て自分の姿を認識するように、自分を褒めてくれる誰か、認めてくれる誰かの反応を見て、自分の存在価値を認識する。このことを「鏡映自己対象による自己愛の充足」と呼ぶらしい。
これは「アイドルがファンからの称賛を受ける」というパターンだけでなく、たとえば「同僚から認められる」「母親からスキンシップを受ける」といった日常的な活動でも生じる。なかには反社会的な行為によって――たとえば暴走族の少年が通行人の迷惑そうな視線に快感を覚えるとか――自己愛を充足させる人もいるようだ。
「出る杭は打たれる」「能ある鷹は爪を隠す」と、私たちは教わる。一般的に、日本では鏡映自己対象によって自己愛を充たそうとするのは恥ずかしいことだと考えられてきたようだ。
では、日本人は自己愛の足りない社会を作っていたのだろうか?
そんなことはない、とシロクマ先生は指摘する。称賛を求めることだけが、自己愛の満たし方ではないからだ。
たとえば師事する先生や上司、先輩の背中を見て、満足を得たことはないだろうか。あるいは小学生のころ、父親の自慢をしたことはないだろうか。そういう「理想とする対象」に自分を重ねあわせることで、自己愛を充たすことができる。これを「理想化自己対象による自己愛の充足」と呼ぶそうだ。カルト宗教の指導者は、信者たちの理想化自己対象になることで信心を集めているのだという。
さらに、「双子自己対象による自己愛の充足」というものがあるらしい。たとえばヨーロッパの小国を旅しているときに韓国人や中国人と出会ったとしよう。アジア人であるという以上の接点はないはずなのに、顔立ちが似ているという理由でだけで親近感を覚えてしまうものだ。あるいは上京した人が同郷人を見つけてよろこぶ気持ち、初対面の人が自分と同じバンドを好きだったときのよろこび――。他者との共通点を見つけて満足を得るという習性が、私たちにはあるようだ。これを「双子自己対象による自己愛の充足」と呼ぶ。
たとえば思春期には「連れション」のような不可解な連帯行動をするが、あれは友人を双子自己対象と見なして自己愛を充たしているのだ。精神的な成熟にとって何かしら意味があるのだろう。仲間と共に行動するだけでも、私たちの自己愛は満たされる。
日本には、かつて村落的な生活基盤があった。日常的な生産活動を家族単位・村単位で行い、祭りの日にはみんなで力を合わせて目標を達成していた。たしかに「鏡映自己対象による自己愛の充足」は難しかったかもしれないが、代わりに「双子自己対象による自己愛の充足」の機会がたくさんあった。村をあげて、町をあげて、ときには国をあげて自己愛を充足させまくっていたのが日本人なのではないだろうか。
1.鏡映自己対象によるもの、2.理想化自己対象によるもの、3.双子自己対象よるもの――。自己愛を充たす三つの方法を見てきた。
ここで、たとえばミュージシャンのライブを考えてみよう。集まった人々は、まずミュージシャンを理想化自己対象としている。彼/彼女の音楽を聴くだけでも、理想化自己対象により自己愛が満たされる。さらにライブでは、自分と同じ好みを持つ人たちと、同じ時間を共有できる。つまり双子自己対象によっても自己愛が充足される。さらにミュージシャン自身にとっても、集まった人々の歓声によって鏡映自己対象による自己愛の充足が成り立つ。このようにミュージシャンのライブでは、集まった人々が相互に自己愛を充たしあうという状況が成立している。
先述のとおり、自己愛を充たせないと人は心の健康を損なってしまう。ミュージシャンのライブのような状況は、自己愛の満たし方として極めて“健全”だと言えるだろう。少なくとも、ネットの炎上に参加して、大学生を吊し上げているときに得られる“一体感”よりは、よほどマシだ。うしろめたさが無いからだ。



※余談だが、「匿名でしか書けないことは匿名であっても書かないほうがいい」というのが私の持論だ。壁に耳あり障子に目あり。見られていない場所でも“悪い言葉”は控えたほうがいい。なぜなら、心が汚れるからだ。/そもそも「匿名でしか書けない」という時点で、うしろめたさがあるのだ。世間に顔向けできない恥ずかしいことを書いていると自覚しているのだ。/“悪いことをしている”という意識は、遠からず「どうせ俺はクズだ」という自己認識に変わる。あなた自身の自己愛を傷つける。炎上による一体感で(つまり双子自己対象によって)一時的に自己愛を充足させても、差し引きでマイナスになってしまう。
※※要するに「けなすより褒めろ」「ツッコミ入れるよりもボケろ」ってこと。




        ◆




さて、村落的な社会では双子自己対象による自己愛充足の機会が豊富だった。反面、しがらみやしきたりに縛られていた。たとえば“お見合い”では本人の意思よりもまず家柄が問われる――階級制度がなんの疑問も挟まれずに機能する。そういう社会だった。核家族化はすでに大正時代から始まっていたが、当時はまだ血縁同士が近所に住むのが一般的で、高度成長期のように家族がバラバラになるわけではなかったらしい。
さて、高度成長期に入ると農村から都市部へと労働者が流入し、家父長制的な家族の解体が進んだ。さらに高度成長が終わるころになると、各企業の営業活動が大規模化・全国化し、転勤や単身赴任が当たり前になった。職業選択の自由という観点からすれば首をかしげたくなるような人事・辞令が次々に出されたが、疑問を挟む人はわずかだった。
村落的な社会から解放された日本人は、しかし双子自己対象による自己愛の充足をやめられなかった。高度成長後からバブル崩壊までの時代、人々の自己愛充足の受け皿となったのは企業だ。企業に対する帰属意識によって、双子自己対象による自己愛の充足が可能になった。そして人々はモーレツ社員として24時間戦えるようになったのだ。じこあいのちからってすげー!
ところがバブル崩壊とともに、企業は終身雇用・年功序列を守れなくなった。双子自己対象の受け皿ではいられなくなり、人々は自己愛のよりどころを失った。
地縁社会はとっくの昔に解体されて、“家族のなかで必要とされる”のが難しくなっていた。鏡映自己対象の不足だ。頼れるはずの先輩社員や父親・母親たちが、次々に路頭に迷っていた。理想化自己対象の不足だ。80年代の末ごろから信者数を急拡大させたオウム真理教は、1995年に地下鉄サリン事件を起こす。そして不況のどん底を迎えた1998年、日本の自殺者数は年間3万人を超えた。
地域社会も、企業文化も失われた時代:新たな自己対象の受け皿として、インターネットが力をつけ始める。
1999年、2ちゃんねるが開設された。
世界の先駆けとなった大型掲示板は、就職氷河期世代の若者よって作られた。どこの企業にも行き場のなかった若者が2chを作ったのだ。なかなか示唆的ではないか。
そして私たちは、インターネットを自己愛充足の場にするようになった。たとえば“祭り”“炎上”に参加しているときの一体感は、双子自己対象による自己愛の充足だ。あるいはチャットルームや、出会い系サイト……。現在のネット文化から比べれば未成熟で洗練されていなかったが、インターネットは承認欲求を満たす仕組みとして機能しはじめた。





いま、私たちは相変わらず孤独である。


無縁社会―― 私たちはどう向き合うか
http://www.nhk.or.jp/asupro/life/life_06.html


地域社会は解体されたまま、再生の見込みは薄い。シェアハウスのような “新しいつながり”も、いまだに発達途上だ。学校の外に居場所がない、そんな中高生が数えきれないほどいる。昼食を一緒に食べる友だちがいない、そんな大学生がたくさんいる。独身の会社員のほとんどは、自宅に帰ってもPCと猫としか会話しない。たとえ結婚しても、共働きで顔を合わす時間が取れなかったりする。私たちはバラバラに分断されたまま、孤独のなかに生きている。
これはたぶん、日本に限ったことではないだろう。
地域社会の解体が起こり、個人主義の徹底により帰属すべき場所が自由になった:これは先進国の都市部に共通する特徴であり、“無縁社会”はどこでも起こりうるはずの現象だ。
いまの私たちは全世界的に孤独なのだ。




そんな私たちの手元には、スマートフォンがある。
FacebookTwitter、LINEに夢中になっている。


NHK クローズアップ現代 “つながり”から抜け出せない 〜広がるネットコミュニケーション依存〜
http://togetter.com/li/394136


これらSNSの魅力とは“反響”の面白さであり、突き詰めれば自己愛をくすぐられるからやめられないのだ。
「イイネ!」やfavスターが大量に集まれば、鏡映自己対象によって自己愛を充たせる。好きなアーティストや有名人をフォローすれば、理想化自己対象によって自己愛を充たせる。さらに“炎上”や“祭り”に参加していれば、双子自己対象によって自己愛を充たすのも簡単だ。とくに昨今のSNSは“荒らし”への耐性がとても高い。 かつての個人運営のサイトとは違い、見たくない書き込みをシャットアウトできる。そして、自己愛を慰めてくれる空間をひたすらに維持できる。
現代を生きる私たちは基本的に孤独で、愛に飢えている。だからSNSを通じて承認欲求をくすぐられると、クラッといってしまう。
ところがSNSには一つ問題がある。まるでドラッグのように、より強い刺激を、より大きな反響を求めるようになってしまうのだ。始めたばかりのころは友人から週1回のレスがあれば満足できたのに、いまでは毎日数百個のfavスターをもらわなければ満たされない――。そんな経験をした人は少なくないだろう。
SNSでは一時的には充足感を得られても、永続的な満足にはつながらない。理由は分からないが、たぶんSNSでの“反響”はリアルなものではないからだ。あくまでも仮想のものだからだ。平井堅も歌っている:100万回のメールより、たった 一度のリアルなぬくもりを、と。
だから人々は外に出た。
より強い刺激を求めて、あるいは本当の充足が欲しくて、かぼちゃの仮面をかぶって街に集った。




        ◆





……今回の記事はラフスケッチのように、思いついたことを書き殴ってしまった。どこまでがシロクマ先生の『ロスジェネ心理学』からの引用で、どこからが私の持論なのか、境界があいまいになってしまった。もう少しまとめてから書いたほうがよかったです申し訳ありません。※ていうか本書へのきちんとした感想は後日あらためて書きます。



身分制度や階級制度は、個人の自由という観点からはとても承服できるものではない。が、一方で階級間でのコミュニケーションには礼儀作法というマニュアルが整備され、自己をさらけ出さなくても生活できた、らしい。ここ100年〜数十年ほどで、それらの礼儀作法の多くは消滅した。私たちはいま、コミュニケーションのマニュアルをゼロから作り直しているのだ。
いまの10代、20代は“キャラ”に敏感だと言われている。
自分の言動を決めるときに、それが“キャラにあう”かどうかを判断基準にしがちだという。ボケキャラ、ツッコミキャラ、ドSキャラ、いじられキャラ……。そんなキャラを演じながら、人間関係を作っている。数十年前に青春を過ごした世代から見れば、もしかしたらとても気持ちの悪いものかもしれない。キャラを介した人間関係は、表面的で薄っぺらだからだ。
だけど、表面的であることの何が悪いのだろう。
いまの私たちは、かつては想像できなかったぐらいたくさんの他人と接しながら生きている。それこそ江戸時代の村人が一生に出会う人数の何倍もの人々と、通勤電車や職場、学校ですれ違っている。すべて人と深い関係を作ることなど不可能だ。“誰とでも仲良くなれる”のは一種の特殊能力で、みんながそれをできるなんて幻想だ。人間には相性がある。どうしても虫の好かない相手だっている。腹を割って話すことができる相手なんて、生涯に数人見つかればいいほうだ。
だから私たちは“キャラ”を演じる。
だからハロウィンを祝う。
誰でもない“みんな”のぬくもりが欲しくなったときに、私たちは素顔のままでは外に出られない。だから、かぼちゃの仮面をかぶった。青いスーツにサングラスをかけた。
素顔を隠したままの集いが、いまの私たちには必要なのだ。








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