デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

「東京」という幻想、「地方」というまぼろし

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最近の小学生は、魚が切り身のまま海を泳いでいると信じているらしい。夏目漱石は田んぼを指さして「あの青い草はなんだ?」と友人に訊いたという。都会の人間はジャガイモやカボチャの花を見分けることができず、田舎の人間には地下鉄の乗り方が分からない。私たちは自分の生活の範囲内でしかモノを考えられないようだ。
かくいう私も、人のことを笑えない。
20代になるまで「地方」の存在に無頓着だった。ファスト風土とか国道カルチャーとか呼ばれる世界があることを知らず、生まれ育った多摩地区のような住宅街が、どこまでもどこまでも広がっているのだと信じていた。もちろん旅行や合宿で、田舎を訪ねたことはある。しかし、それはディズニーランドと同じような非日常の経験にすぎず、その土地にも“日常”があるということを(頭では解っていても)どうしても呑み込めなかった。
私が青春を過ごしたのは立川だ。クラスのみんなは、自分たちのことを「田舎者」と自嘲していた。原宿や池袋に羨望のまなざしを向けて、吉祥寺に対抗心を燃やし、八王子をひそかに見下していた。高校の同級生に青梅から通ってくる子がいて、「駅前で漬け物を売っている」ことをネタにからかわれていた。青梅や羽村だって、ほかの「地方」に比べればはるかに恵まれている。けれど10代のころの私の世界はあまりにも狭かった。子供だった。



私が「地方」の存在を意識しはじめるのは、大学生になってからだ。サークルの同級生には遠方から上京してきた人が多く、そこで初めて、私は「地方出身者」と接触した。私が「東京出身だ」と自己紹介すると、彼らはわずかに身構える。そして「地元は立川だ」と言うと、ホッとした表情を浮かべる。「なんだ、東京といっても田舎じゃん」と言われたことさえある。私は高校のころと同じノリで、「そうそう! 田舎者なんです!」と応えていた。
そして実際に立川を案内すると、彼らは決まって愕然とした表情を浮かべるのだ。
図鑑や教科書の「みらいよそうず」には、なぜかいつもモノレールが登場する。多層構造になった歩道が描かれている。立川は、そういう分かりやすい「都会像」を具現化しているのだ。大手百貨店が軒を連ね、裏道に入れば個人経営の古着屋やレコード屋が並んでいる。地方都市には無いものが、もしくは無くなったものが、「田舎」のはずの立川には存在している。
同級生たちの驚きが、当時の私にはよく分からなかった。
実際に東京を離れてみるまでは、あまりにも当たり前の光景だったから。



「東京」と「地方」の溝は深い。
インターネットはその距離を縮めたという。けれど実際には、その違いを際立たせただけだと思う。あらゆるイベントが、美術展が、展覧会が、シンポジウムが東京で行われている。時代の先端を歩いている人たちが、密度の高い人間関係を作っている。そういう様子を、Twitterやブログを介して、まざまざと見せつけられる。
ちょっと離れたところから眺める「東京」は、どこまでもきらびやかで、目が焼けるほどまぶしい。「東京」の内側で暮らす人たちには、さっぱり自覚できないだろうけれど。


「なあ、道子」
「なあに」
「おまえ、東京タワーの正面がどこか、わかるか?」
道子は黙っていた。
「俺には、どこから見ても、いつ見ても、東京タワーは俺たちに背中を向けてるように見えるよ」
道子が静かに歩いて、コンロにやかんをかけた。
「いいじゃありませんか。どっちにしろ、うちの窓からは東京タワーは見えませんよ」


 ――宮部みゆき『裏切らないで』

「東京」って、どこにあるんだろう。








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