デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

8月9日、67年前。

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 その日、祖母は24歳だった。
 夏の長崎――。朝から蒸し暑く、坂道にセミの声がわんわんと響いていた。空は快晴、しかし少しずつ雲が増えている。早朝から出ていた空襲警報は10時ごろに解除された。彼女は7歳下の妹と一緒に、もんぺ姿で家を出た。隣の戸石村まで徒歩で1時間ほど。戸石には一家の墓があり、お盆前に掃除を済ませておくつもりだった。
 祖母は5人姉弟の長女で、海運局職員の家庭に生まれた。戦争が始まる前は裕福な暮らしをしていたらしい。自宅は“お手伝いさん”を雇うほどの屋敷で、女学校の校門の目の前に建っていた。放課後になると、同級生たちが広い土間にたむろした。本当は1人で勉強したい日もあったけれど、強く頼まれると断れない。15歳ごろの祖母は、小柄で引っ込み思案な少女だった。
 女学校を卒業後、祖母は三菱造船に就職する。今でいうOLだ。お茶くみの仕事に嫌気がさし、東京の洋裁学校に入学。五反田で寄宿生活を送った。しかし戦局の激化にともない、長崎へと呼び戻された。屋敷は国に接収され、一家は長崎郊外へと引っ越した。
 祖母は他の姉弟と歳が離れている。すぐ下の弟は沖縄の海上で戦死しており、祖母は七つ下の妹T子と2人で家事をこなしていた。その下にはさらに2人の弟、T夫とM夫がいる。中学校に上がったばかりの彼らは、学徒動員で長崎中心部の軍需工場に通っていた。
 その日、下の弟M夫は非番だった。上の弟T夫は午前中勤務の予定だったが、どうしても外せない用事があったため、午後勤務の親友とシフトを交換していた。
 24歳の祖母は背が低く、どこか少女の面影を残していた。一方、17歳の妹T子は明るく元気な性格をしていた。戸石村へ向かう坂道を、妹に励まされながら歩く。そんな祖母の姿が目に浮かぶ。
 一家の墓のそばには、かつて“下男さん”として雇っていた小父さんの家がある。屋敷が国に買い上げられたあと、彼は実家に戻り、畑仕事を手伝っていたのだ。墓掃除を終えた2人は彼の家を訪ね、土間で麦茶をごちそうになった。冷房も冷蔵庫もない時代、湯呑み一杯のぬるい麦茶は、彼女たちの喉を冷たくうるおしたはずだ。
 そろそろ帰ろうかと腰を上げようとした、その時――

 轟音が地面を揺らした。

 裏庭が爆撃されたかのような音に、彼女たちはとっさに土間に伏せた。

 1945年8月9日、午前11時02分。
 B-29爆撃機“ボックスカー”はプルトニウム型核爆弾“ファットマン”を長崎市へと投下。
 人類史上2度目の核攻撃だった。

 地図を見れば分かるのだが、戸石と長崎市街との間には烽火山(ほうかざん)が横たわっている。これだけの距離がありながら、裏庭に爆弾が落ちたと錯覚したという。爆音のすさまじさが分かる。
 長崎市で何かあったらしい――。祖母と妹の2人は帰路を急いだ。
 戸石から長崎への道中には“日見トンネル”がある。当時、トンネル内は左右に区切られ、半分は軍需工場の作業場になっていた。空襲を避けるためだ。
 祖母がトンネルを抜ける間にも、長崎市街から市民がぞろぞろと避難してきた。大八車で運ばれる血まみれの少女に、祖母はぞっとしたという。すれ違う人々に、2人は止められた。
「だめばい!そっちに行ったら」
「あっちには家族のおると……!」
長崎市内はだめになってしもうとる!壊滅ばい!」
 彼らを振り切って、2人は日見トンネルを抜けた。
 2人の自宅があった新中町のあたりは、爆心地の浦上から見ると、ちょうど金毘羅山の山影になっている。それが幸いして、長崎市内では比較的被害が少なかったらしい。とはいえ、あくまでも“比較”の問題だ。浦上一帯は破壊しつくされ、ほとんど更地になってしまった。
 彼女たちが帰宅すると、下の弟M夫が縁側で背中を丸めていた。ふくらはぎや太ももからガラスの破片を抜いていたという。窓という窓が割れ、畳にはまきびしを撒いたようにガラス片が突き刺さっていた。
「T夫は? T夫はどこにおると!?」
 祖母は血相を変えて訊いた。
「出かけたばい」痛みに顔をゆがめながらM夫は答えた。「親友ば探しに」
 上の弟T夫はその日、午前勤務のはずだった。親友とシフトを交替してもらったおかげで助かった。
 彼が通っていた工場は、爆風と熱戦で壊滅していた。

 聞くところによると、祖母も知り合いを訪ねて爆心地近くまで行ったらしい。
 しかし生まれつき大人しい性格をしている彼女は、あまりの恐ろしい光景に言葉を失い、1時間ほどで帰宅した。もしも彼女がもう少し勇敢な性格をしていて、被災地に滞在する時間がもう少し長かったら、いまほど長生きはできなかったかもしれない。
 結局、T夫の親友は見つからなかった。
 その晩、一家は軒下に布団を並べて一夜を過ごした。ガラス片があまりにもひどく、室内に布団を敷けなかった。雨が降った。



 長崎への核攻撃は、死者73,884名、重軽傷者74,909名の被害を出した。なお、東日本大震災は死者15,861名、行方不明者2,939名である。これだけでも桁違いの惨事だったと分かる。そして何より、原爆は自然災害ではない。人為的な殺戮だ。7万人を超す死者の中には祖母の後輩、長崎高等女学校に在学中の191名の少女も含まれていた。



 それから6日後の8月15日、日本は終戦を迎える。玉音放送は音質が悪くて内容が聞き取れなかった。街には憲兵隊が練り歩き、「戦争が終わったというのは嘘である! 敵国の陽動作戦である!」と叫んでいた。しかし彼らも数日のうちに姿を消した。
 数年後、祖母は川崎の従兄と結婚して上京する。
 祖父は米軍立川基地でG.I.を相手に雑貨を売り、祖母は自宅で洋裁教室を開いて家計の足しにした。かつての海運局職員の娘は、戦後の貧困のなかを必死で生き抜いてきた。彼女は昭和史の生き証人である。
 妹のT子は長崎にとどまり、つい数年前、姉よりも先に亡くなった。膵臓癌だった。2人の弟は健在だが、上の弟T夫はいつまでも被爆者手帳を受け取ろうとしなかった。子供たちに諭されて手帳を発行したのは最近のことだ。



 8月がくるたびに、テレビには様々な式典が放映される。
 広島、長崎、そして終戦記念日――。
 すべては歴史のなかで風化して、形骸化した“風物詩”へと成り下がっていく。
 しかし忘れてはいけない。“その時代”はたしかにあった。荒唐無稽な作り話ではなく、血肉の通った経験として、人々は“その時代”を生きていた。あなたのすぐ近くにも、その時代を生きた人がいるはずだ。
 だから、話を聞こう。
 すべてが忘れ去られ、歴史年表の小さな一行になってしまう前に、話を聞こう。経験談を聞いておこう。私たちが語り継がなければ、何もかもが失われてしまう。残された時間はあまりにも短い。
テレビを消し、パソコンを閉じて、年長者の話に耳を傾ける――。
 一年に一度ぐらい、そういう日があってもいい。






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