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労働生産性を高くするたった二つの方法

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そもそも労働生産性の定義は次の通りです。

労働生産性】=【付加価値】÷【労働投入量】

そして、ここでいう【労働投入量】とは、以下のようなものだと私は考えています。

【労働量】=【労働者数】×【労働時間】×【労働強度】

「企業の営業時間を短くすれば労働生産性があがる!」と主張なさる方がいますが、これは上記の二つの式のうち、【労働時間】だけを短くしようとする発想です。ほかの変数は不変だと仮定していますが、それはおかしい。
なぜなら、限られた時間内で同じ量の仕事をこなそうとすれば、よりたくさんの人を雇わなければいけません(=労働者数の増加)し、たとえばコンビニの営業時間を短くすれば、そのぶん売上げは確実に減少します(=生産量の低下)
労働生産性】に関わる諸要素は複雑に関係しあっていて、一つの変数だけを動かすことは、現実的には不可能です。「企業の営業時間を短くすれば労働生産性が上がる」という考え方は、机上の空論だと言わざるをえません。
日本人の長時間労働が問題なのは、その労働量に見合うだけの生産量を達成していないからです。あるいは、現在の生産量をより少ない労働量でまかなうことができないからこそ問題なのです。



      ◆



労働生産性を高くする方法は、根本的には二つしかありません。



1.省人化する
2.分業する



たとえば自動車の歴史は、1876年ドイツ人技術者ニコラウス・オットーがガソリン・エンジンを発明したところから始まります。それをダイムラーやベンツが改良し、1890年代から実用的な乗り物として生産するようになりました。当時の自動車は一台ずつ職人の手作りだったため、非常に高価で、貴族や富豪でなければ所有できませんでした。ひまを持て余したヨーロッパの貴族たちは自動車でレースすることを思いつき、それが現在のF1へと発展していきます。ルノーが生まれたのもこの時代です。
現在でも、手作業の工程が多いと生産量を高めることができません。たとえばフェラーリの工場では1日に10台ほどしか完成車を作れないと言われています。フェラーリは手作業で組み立てられる部分が多く、だからこそ高級車なのです。一方、ホンダの鈴鹿製作所は約1分に1台のペースで完成車を生産できます。フェラーリに比べて手作業の工程が少なく、機械化・省人化が進んでいるからです。
省人化が可能になったのは、分業が進んだからです。20世紀初頭、自動車王フォードは職人たちの作業を分析し、一人あたりの作業量を減らすことを思いつきました。現在の「流れ作業」による自動車生産が始まったのです。これにより自動車の生産性は飛躍的に高まり、庶民にも手の届く価格で販売されるようになりました。
省人化と分業が進むと、労働生産性は向上します。それが生産物の価格を引き下げ、私たちの暮らしを豊かにします。
アメリカの石油王ジョン・ロックフェラーは、しかし携帯電話を持っていませんでした。現在の日本では、年収300万円の派遣社員でさえ太陽王ルイ14世よりも豊かな生活をしています。たしかに相対的な貧困は解決しなければいけません。しかし労働生産性の向上によって絶対的な豊かさが増してきたことは、事実として認めなければなりません。



では、現代の日本の労働生産性を高くするにはどうすればいいでしょうか。
言うまでもなく、省人化と分業を進めればいいのです。
たとえば中小企業では、大企業に比べて労働生産性が低いと言われています。投入されている労働量(労働者数と労働時間)に対して、生産量が低いわけです。これは中小企業では社員数が限られており、分業をしたくてもできないからです。
それが端的に現れるのは、企業の管理部門です。
大企業では、たとえば財務、経理、税務、労務がそれぞれ独立した部署になっています。財務は銀行とのカネのやりとりを専門にする部署、経理は売上や原価の計算を専門にする部署、税務は税金の計算を、労務はお給料の計算を専門に行っています。
ところが中小企業では、これらの仕事をたった一人の担当者が行っている場合も珍しくありません。当然、専門知識を深める時間はありませんし、節税は進まず、申告のミスから課徴金を取られるリスクもあります。分業が進んでいないせいで、生産量が下がってしまいます。
ここで重要なポイントは、上記の仕事はいずれも「ルール通りに数字を動かす」だけの仕事だということです。19世紀ならいざしらず、本来ならば電算機のほうが得意としている仕事です。たかが数字を動かすだけの仕事を、なぜ分業しないといけないのか:分業しなければ理解できないほど、ルールが複雑だからです。
日本の政治家は、税金を上げる・下げるという話ばかりをします。優遇策を取ったり、補助金を計画したり……ルールを複雑化する方向でしかモノを考えません。ルールが複雑になること自体の経済的打撃に無関心なのです。たとえばジンバブエは独立当初、中産階級を擁する比較的豊かな国でした。が、独裁政権が非効率な政策を――権力者の近縁者を優遇するような複雑怪奇な政策を――乱発した結果、経済が崩壊するに至りました。ルールが複雑になると、本来ならパソコン一台でできるはずの仕事に人間を使わなければいけません。労働力が浪費され、労働生産性が下がり、人々は貧しくなります。



農耕の発明以来、人類の歴史は「頭を使う人々」と「手足を使う人々」との分業を進めてきました。大規模な灌漑設備を建設できるようになったのは、指導者層とその手足となって働く人とに分業が進んだからです。また大企業を経営できるようになったのは、商売の方針を考える人とその手足となって働く人々へと分業が進んだからです。
ところが20世紀、「手足となって働く」のは機械の仕事になっていきました。土を耕すのは農夫ではなくトラクターです。ネジを回すのは職人ではなく産業用ロボットです。この流れが変わることはないでしょう。数字の管理をするのはコンピューターの仕事になります。「手足となる仕事」は今後100年のうちに消滅します。かつて「従業員」と呼ばれていた人々は、手のひらサイズの電子機器に代替されます。1万5000年前の農耕発明から続いてきた人類社会は、まさに今、次の段階に進もうとしているのです。私たちはそういう時代を生きていかなければなりません。
歴史は常に進んでいます。
去年の今ごろ、スマートフォンは今ほど普及していませんでした。一昨年のいまごろ、Facebookの日本人ユーザーは今ほど多くありませんでした。ヒトは過去をすぐに忘れてしまう生き物ですが、ほんの数年間でも私たちの生活は大きく変わりました。いわんや、10年〜20年という規模で考える場合には「技術や習慣がどの程度変化するか」を無視することはできません。逆にいえば、経済や政治について考えるときには、その政策が今後何年間にわたって有効なのか、“レンジ”を明らかにすべきです。
もしも現在の技術・習慣が今後も変わらないのなら、「頭を使う人」と「手足になる人」との分業を進めることに意味があるでしょう。しかし、技術・習慣が不変だという前提そのものがおかしい。私たちは常に進歩しています。「手足になる人」に未来はありません。
日本の不幸は「手足になる人材」があまりにも多く、商売のやり方を知っている人があまりにも少ないことです。私たちの親世代も祖父母世代も、誰かの手足になることを是としてきました。しかし今後、その価値観は通用しなくなります。「読み・書き・そろばん」と言いますが、そろばんから簿記や会計が抜け落ち、なぜか算数だけになってしまったことが日本人の最大の不幸です。これからは誰かの手足にならない生き方を目指していくべきでしょう。
一人ひとりが自分のやりたいことを追求し、自身の能力を最大限に発揮する:それこそが究極の分業なのですから。





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