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それでも経済的合理性は大切ですか?

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友人がFacebookにこんなことを書いていた。


駅で切符を買って、おつりを取り忘れた。すると後ろに並んでいた金髪のお兄ちゃんが「おつり忘れていますよ」と渡してくれた。日本っていいなーと思う反面、甘いな……と思ってしまった。


このできごとをどう考えればいいだろう。日本は、何に対してどう「甘い」のだろう。
経済的合理性(笑)の観点から見ると、たしかに金髪のお兄ちゃんの行動は甘い。ネコババしたって、(twitterで報告でもしないかぎり)誰もとがめない。せいぜい私の友人がおやつを一回抜く程度の被害しかでない。自分のカネにしてしまったほうがはるかに合理的であるはずだ。反面、誰もが利益追求をする世の中になれば、こういう“日本的”な気遣いや優しさはなくなるだろう。



利己的な合理性を取るか、
それとも非合理な利他的行為を取るか。



こういう二者択一を迫る人は多い。
たとえば人気ブロガー内田樹先生は、子供たちがイジメや学級崩壊をおこすのは、大人が「合理性」を教え込んだ結果だという。自分が勉強するよりも他人を妨害したほうがはるかに費用対効果が高い。子供たちが合理的だからこそ、学級崩壊は起きる。イジメがはびこる。賢い子ほど他人の足を引っ張るのだ。
内田先生は同じことを「働かない/働けない若者」にも当てはめていた。仕事を「自らの利益追求の手段」とらえているから、若者たちは三年でやめていく。仕事は本来、社会に参加する手段であるはずだ。が、いまの若者たちは市場主義的な合理性を学ぶばかりで、社会への責任を学ばない。だから仕事が続かない。



いじめについて
http://blog.tatsuru.com/2012/07/12_1033.php


若者はなぜうまく働けないのか?
http://blog.tatsuru.com/2007/06/30_1039.php



これらの分析は、かなり的を射ていると思う。ところが内田先生は、ここから「合理性の偏重をやめましょう」みたいな感じに主張を展開していく。近代的な合理主義がすべて悪い! みたいな。その言葉の裏側には「合理性を棄てるべき」という想いが見え隠れしている。私たちの暮らしを支える気遣いや優しさ、一見すると非合理な行動を「人類学的惰性」と内田先生は言う。そういう惰性こそが大切なのだと。
「合理性」が嫌いな人は多い。
市場主義的な利益追求のせいで、様々な「すばらしいもの」が失われた。そう信じている人は多い。そしてお決まりの二者択一が展開される。



利己的な「合理性」か、
それとも利他的な「非合理性」か。



先に種明かしをすると、こういう二者択一でやり玉にあがるのは「近代的な合理性」であって、現代的な合理性ではない。「ヨーロッパ個人主義的な合理性」と呼んでもいいかもしれない。この世界全体に広がる本当の意味での合理性ではない。



だってさ、おつりを渡された瞬間に「いいな」と思ったわけじゃん?
「嬉しいな」って思ったわけじゃん?



助け合いを目にして感動するのは、私たちの脳がそのように作られているからだ。私たちが利他的な行動を喜ぶのは、そこに進化的な合理性があるからだ。
私は生物学が大好きで、リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』に心酔している。なぜなら「利他的な行動」がいかに合理的であるかを明らかにしてくれるからだ。
(ちなみに最近のドーキンスの愚直な「宗教批判」は、にんじん嫌いの子供がにんじんの悪口を言うみたいですごく可愛らしいと思う)
私たちが他人を思いやるのは、それが合理的な行動だからです。
私たちが寛容さを持てるのは、それが合理的な行動だからです。
優しさは非合理な行動ではない。



たとえば経済学の分野で「最後通牒ゲーム」という有名な実験がある。
プレイヤーは2人、ここではさやか杏子という2人の少女に登場してもらおう。ゲームの主催者はまず、さやかに10万円を渡す。そして「そのカネを杏子さんと山分けしてください、どんな割合で山分けしても構いません」と指示する。5万円ずつに分けてもいいし、9万円と1万円に分けても構わない。杏子は、さやかからの提案を「受け入れる」か「拒絶する」かのどちらかしか選べない。そして杏子が「拒絶」を選んだ場合、2人ともカネを得られない。以上が最後通牒ゲームのルールだ。
このルールのもとでは、どんなに不公平な提案であっても杏子は「受け入れる」しかないはずだ。「拒絶」を選べばお互いに1円も得られないが、「受け入れる」場合は双方が得をできる。したがって、さやかは「9万9999円と1円に山分けする」のが合理的な判断になる。あくまでも理屈のうえでは。
ところが、このゲームを実際に生身の人間にプレイさせてみると、不公平な提案では「拒絶」されてしまうという。「1円でも得したい」という感情より、「不公平な提案をするやつを罰したい」という感情が働くようなのだ。そして“合理的”なプレイヤーは結局1円も手にできなくなる。わたしってほんとバカ。
このゲームは、ヒトの利他的な習性をつまびらかにしてくれる。欧米や日本などの現代的な市場に接している人々は、だいたい半々ぐらいの額を提示するという。インドネシア・レンバタ島ラマレラ村のクジラ漁師は、大きな捕鯨チームを連繋させる習慣があるためか、平均で六割ほどを相手に渡そうとする。さらにニューギニアのアウ族とナウ族の場合、公平をはるかに上回る額を相手に提示するが、相手は拒絶してしまうという。彼らの文化では贈り物は返礼の義務をともなうため、受取り側の重荷になりかねないからだ。
多くの現代的・社会的文化のなかで、ヒトはおおむね“気前よく”ふるまう。私たちは生まれつきわがままで、自己中心的かもしれない。しかし同じぐらい利他的な心理を――優しさを持っているのだ。
そもそもホモ=サピエンスの歴史は20万年だ。比べて貨幣の歴史はせいぜい4000年しかない。私たち人間関係まで含めた複雑で抽象的な概念を以て利得計算を行っており、通貨は補助的なものでしかない。



これはド素人の想像だけど、新聞やテレビで目にする「経済的合理性なるもの」は、おそらくヨーロッパ的な個人主義を背景にした「合理性」のことを意味しているのだろう。アーサー王と円卓の騎士たちは聖杯を求めて森を探検するとき、まとまって行動するのを恥だと考え、別々の場所から森に踏み入った。ヨーロッパの騎士道を象徴するエピソードであり、共同体への忠誠を是とする日本の武士道とは対照的だ。ヨーロッパでは古くから「個人」を単位とする考え方が根付いていた。
17世紀の欧州の知識人が「自然状態」という愉快な概念を思いついたのも、たぶん「個人」を単位とした考え方が染みついていたからだ。政治や社会がなければ人々は「個人」の利益が最大となるように行動するはず、そしてお互いを食いものにしようとし、「万人の万人に対する闘争」が始まってしまう……と当時のヨーロッパの人々は考えた。生き物にとって利己的な行動を取ることが自然なことで、利他的な行動は人為的・人工的な――不自然な状態だと考えたわけだ。
本当の自然界の生き物たちは、必ずしも利己的とはかぎらない。注意深く観察すれば、利他的な行動がありふれたものだと気づかされる。ヒトも例外ではない。無人島に流れ着いた人々は、力を合わせて生き延びようとするのが普通だ。もちろん、遭難者が限られた食糧を巡って殺し合いをした……というような痛ましい逸話はたくさんある。けれど、協力して生還したという逸話のほうがはるかに多い。




生物は利他的な行動を取りうる。環境や生態によって、「利他的な行動」がもっとも進化的に合理的な戦略となる場合がある。利他的な行動を取る者だけが生き残り、そうでない者が絶滅する……そういう状況を想定することは可能だ。利他的行動はごく当たり前のもので、非合理でもなんでもないのだ。
つまり、私たちは「合理性」を追求すべきなのだ。優しさを捨てたり、誰かを裏切ったり、利己的な行動は短期的には「合理性」があるかもしれない。しかし長期的に考えれば、仕返しのリスクが増える。社会全体が利己的になれば、一人ひとりはかえって多額のコストを支払うハメになる。
「利己的な行動」が必ずしも合理的だとは限らないこと。長期的・俯瞰的な視野から考えれば、利他的な行動にも「合理性」が充分にあること。私たちはそう認識すべきだ。利己的な人は、中途半端な合理性しか持たない人なのだ。




さて、最初の問いに戻ろう。
「おつりを取り忘れたら、後ろに並んでいた人が取ってくれた。日本っていいなと思う反面、甘いな、とも思った」
日本は何に対して、どう甘いのだろう。そしてなぜ私の友人は、「日本っていいな」と思ったのだろう。
日本は「近代的な合理主義」に照らして「甘い」のだ。日本社会の治安の良さを思い出してほしい。東京で財布を落としても(運が良ければ)中身が無事なまま返ってくる。“日本的”な優しさや気遣い、利他的行為によって、私たちはかえって低コストな社会を実現している。じつに合理的ではないか。
そして私の友人が「日本っていいな」と感じたのは、彼が充分に合理的な人間だということを意味している。前近代の合理主義ではなく、何億年もの生命史をつらぬく「本当の合理性」を彼は内面化しているのだ。おつりが絶対にネコババされる社会より、そうでない社会のほうが「いいに決まってる」――合理的な判断だ。
「利己的な合理性」と「利他的な非合理性」の二者択一はもうやめよう。私たちがすべきなのは合理性の追求だ。カネに踊らされた前近代の合理主義を捨て、現代的な合理主義へとアップデートするのだ。
ヒトはもっと隣人に優しくなれる。寛容になれる。
なぜなら、それが合理的なことだから。







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