デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

「異性からの評価」を自己評価に重ねてはいけません

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むかし、ウィスキーのジョニーウォーカーがこんなCMをやっていた。

雨の夜、男が街を歩いていると、貧しい身なりの女に声をかけられる。
「うちには病気の男の子がいます。どうか恵んでください」
男は彼女にカネを渡し、近くのバーに入った。
するとバーで待っていた友人から「あんた騙されたね」と言われる。この友人は一部始終を目撃していたのだ。
「あの女はこのあたりじゃ有名なウソつきだ。子供なんて育てていないよ」
男は微笑み、「よかった」と応える。
「病気の男の子はいなかったんだね」


このCMのカッコよさは、なんと言っても男の価値観だ。
「騙されたこと」が恥になるのは、「騙されるほどの愚かさ」を他人から笑われるからだ。しかし彼を突き動かしているのは病気の男の子を憐れむ気持ちであって、それに比べればウソつきな女に騙されたことなど、どうでもいいのだ。他人からの評価を気にしないからこそ、「病気の男の子はいなかったんだね」というセリフを吐ける。他人に左右されない自分の価値観を持っていること、それがこの男のカッコよさだ。
そんなことを、この記事を読んで思った。



私はどうすればよかったんだろう
http://anond.hatelabo.jp/20120703133705



この記事の語り手である「私」さんは、どこまでも相手の男からの評価にしたがって行動している。賢い女、経済的に自立した女、家事を完璧にこなす女――。いずれも、相手の男が「理想の女」と言った女性像だ。そういう理想像を内面化し、実現できる時点で、この「私」さんはかなりデキる。地頭がいいし、行動力もある。ただ、男の「言っていること」と「思っていること」との不一致に気づけなかった。
恋愛における「本音」なんて、本人すら気づいていない場合が多い。女性の場合でも、たとえば「年上のしっかりした人が好きだったんだけど……」と言いながら後輩男子と結婚する――なんて例をしばしば見かける。
言葉と本心の不一致を見抜けなかったことが、彼女の不幸のもとだ。そして、もしも意図的に「心にも無いこと」を言っていたとしたら、この男はどうしようもないクズだ。




[asin:B0032CVTOY:detail]




大雑把に言って、ヒトの「愛情」は三つの成分からできている。
「エロス」と「アガペー」と、「アモール」だ。
エロスとは肉欲、身体的な「異性を求める欲求」を意味している。純潔を重んじる人もいるだろうが、男女間の愛情にはエロスが少なからぬ影響を与えている。エロスを満たせない相手とは、つまり「生理的にムリ」な相手のことだ。そんな相手とどうして愛情を育めるだろうか。



続いてアガペーとは、たとえばキリスト教の「隣人愛」のような博愛主義を意味している。
想像してほしい、あなたの目の前で小さな子供が駅のホームから落ちたとする。その時、あなたはどんな行動を取るだろう。電車の緊急停止ボタンに飛びつく人、大声で助けを求める人……。なかには線路に降りて子供を助け出す人もいるだろう。自分の命を危険にさらすにもかかわらず、だ。
私たちは危険を避ける傾向にある。また「怖いもの見たさ」や、残虐なものを愛でる気持ちを持っている。ヒトの内面では多様な感情が矛盾しあいながら渦巻いている。
それらたくさんの感情の一つとして「(ときには自らを犠牲にしてでも)他者を助ける気持ち」が、ヒトにはプログラムされているのだ。それがアガペーだ。



中世ヨーロッパの吟遊詩人たちは、ヒトの愛情のなかに「エロス」でも「アガペー」でもない部分があることを発見した。肉体的な欲求を抜きにして一つでありたいと思う相手、その人のためなら命も惜しくないと思える相手――。カトリックの支配する禁欲的な時代に、そういう相手がいることを、そういう感情がヒトに生じうることを、吟遊詩人たちは知っていたのだ。そして数えきれないほどの愛の詩歌が唄われた。
ギリシャ神話にはアンドロギュノスという、頭が二つ、手足が四本ずつある怪物が登場する。全能神ゼウスがこれを二つに切り離し、「男」と「女」になったという。もとは一つだったからこそ、男女はお互いを求めるのだと、プラトンは『饗宴』で説いている。
特定の相手と一つでありたいと願う強い気持ち、それがアモールだ。



ヒトはしばしば利他的な行動を取るが、その背景には主にエロス・アガペー・アモールという三つの感情が存在している。この三つの感情が混然一体となって、男女間の「愛情」を構成している。




      ◆




しかし、ヒトはどうやって「感情の名前」を覚えるのだろう。
物体や現象の名前ならば簡単だ。誰かが果物を指さしてAppleと言っていたら、その果物の名前が分かる。観察可能なものの名前を覚えるのは、さして難しいことではない。
しかし「感情」は別だ。誰かの感情を知るにはその人の行動から判断するしかなく、感情それ自体を観察できるわけではない。
したがって私たちが「感情の名前」を覚えるプロセスは、まず誰かの行動を観察し、「その行動の背景には○○○という感情があるはずだ」という話を聞き、自分自身が同じような行動を取ったときに「いまの感情が○○○なのだ」と自覚する――という段階を経る。感情を直接観察することはできず、私たちはあくまでも間接的に「感情の名前」を学ぶ。
では男女間の愛情に的を絞った場合、私たちはなにを見てその感情の名前を覚えるのだろう。あなたの抱いているその気持ちが「愛情」であり「恋愛感情」であると、どんなものを観察して覚えたのだろう。
テレビドラマ、映画、マンガ、小説……。商業的な目的で創られたフィクションから、間接的に学んだのではないだろうか。特定の状況で特定の行動を取る登場人物たちを見て、それらの行動の動機が「愛情」だと教え込まれ、刷り込まれてはいないだろうか。あなたが愛だと思っている気持ちは、本当に「愛」なのだろうか。
感情の名前はどこまでも不確かだ。
あなたの感情の名前を決めるのは、あなた自身だ。



「愛情」という言葉のあいまいさを確認したうえで、冒頭のリンクの記事に立ち返ろう。
この「私」さんにとってどのような感情が「愛情」だったのか、他人には分からない。が、具体的な行動としては「彼氏の要望に応えること」でその気持ちを示そうとした。逆に言えば、それ以外の方法で愛情を表現することに不器用だったのだ。感情は行動に移さなければ伝わらない。相手の要望に応えるときの感情を「愛情」と名付けてしまったがゆえに、彼女は男からの評価に振り回されることになった。
したがって「もっといい男がいるよ」という言葉は、あまりいい提案とは言えない。彼女は新しい男の要望に応えつづけ、同じように裏切られるだろう。評価する人の首をすげ替えても意味がなく、彼女に必要なのは「要望に応える」以外の方法で愛情を伝えることだ。
ヒトは生まれつき利他的な感情を持っているので、誰かを喜ばせるとそれだけで喜びを感じる。相手の要望に応えること・相手の望みを叶えてやることは、決してバカげたことではない。ヒトとして当然の行動であり、誰も彼女を笑えない。相手の理想像に近づこうとするのは無意味ではない。



できることなら、「私」さんには自分を好きになってほしい。誰かの理想像ではなく、自分自身の理想像を目指してほしい。男の要望に応えつづけたことが無意味だとは思わないでほしい。結果として傷ついたかもしれないが、何事もない平凡な人生よりはずっとすばらしい時間を過ごしたのだ――。いつか、そう思えるようになってほしい。
自分自身への「愛情」は観察可能なのだから。




      ◆




と、長々と書いてきたが、ここがインターネッツである以上、冒頭の記事が本当の話だとは限らない。事実無根のフィクションという可能性も大いにある。文章からは「私」さんに真面目な勤労女子というイメージを抱いたが、実際にはハゲ散らかしたおっさんがすね毛を掻きながら書いた記事かもしれない。





よかった、フラれた女の子はいなかったんだね!






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