デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

「わたし」の正体について

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「わたし」が生み出された脳の神経系は遺伝子の集合的帰結であり、「わたし」を育てた社会は意伝子の集合的帰結であり、あらゆる「わたし」の判断・意志・思考は「誰か」と「誰か」の総和で、つまり「わたし」は個であると同時に集合で、断片であると同時に連続体で、孤独であると同時ににぎやかなのだ。





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自然主義的に言って、この宇宙には善も悪も存在しない。我々が観測できる世界にシスはいないし、荒廃の王もダークファルスも存在しない。モノはモノとして、情報は情報として、ただそこにあるだけだ。それらを善と悪とに振り分けるのはヒトの主観だ。
したがって誰かの「正義」を否定するのは、他の誰かの社会的に合意された「正義」だ。ハイジャックした飛行機でビルにつっこむ「正義」もあれば、戦争捕虜を虐待死させる「正義」もある。原子炉を爆発させたことに責任を負わない「正義」もあるだろう。ただし、それらは社会的に認められない。
「正義」と「不正義」は人間の話であって、宇宙の成り立ちやこの世界の仕組みには関係がない。
では、社会的な「正義」とは何だろう。どんな「正義」がいちばん“自然”だろう。
我々は生物であり、Replication bombだ。遺伝子を掛け合わせ、かき混ぜ、永遠に存続しようとする現象だ。「わたし」という現象も、生物の進化の過程で偶然に産み出されたものだ。
ただの生物ならば遺伝子のReplication bombであれば充分だった。しかし「わたし」はーーわたし“たち”は、膨大な量の情報を受け取り、それらを交雑・増殖させる主体である。わたしたちは情報的なReplication bombでもあるのだ。
よって、人類が絶滅するような不幸に見舞われない限り、わたしたちの「正義」は情報的なReplication bombとしてもっとも自然なものへと収斂するだろう。
つまり、存続。
いかなる環境変化にも対応できる多様性の確保と整理。それらを効率的に行える判断基準が「正義」とみなされるはずだ。





なぜヒトを殺してはいけないのか。
それは、その人が生み出すはずだった情報爆発の可能性を潰すからだ。



なぜ個人は大切にされるべきなのか。
情報の交雑と増殖という過程を、より劇的・効果的に行うためだ。



なぜ検閲・秘匿は忌むべきなのか。
情報の交雑こそが「わたしたち」を存続させるからだ。




以上は、私個人つまりRootportの価値観ではない。ヒトがReplication bombであるという立場から考えた場合、もっとも自然な「正義」のあり方だ。ヒトはきっとこういう正義を選ぶだろうと推測している。
なぜなら、この宇宙に「正義」はないから。正義はヒトのものだから。





ヒト――ホモ=サピエンスというだけの意味ではなく、様々な惑星で多様な進化をとげた数え切れないほどの子孫たち――にとって、正義とは「存続」を助ける判断基準のことだ。どんな価値観が生まれようとも、最後には「存続」を助ける価値観が選ばれていくはずだ。それに失敗すればヒトは滅びる。わたしたちすべてが生き残るために、わたしたち一人ひとりは大切にされなければならない。
繁栄や存続というものを究極まで突き詰めると、全体主義個人主義との境界は消失する。個人の可能性を重んじるのは全体のためであり、全体の存続のためには何よりも個人を尊重しなければならない。
したがって未来に破滅をもたらすような価値観は必ず淘汰される。そんな「正義」は、若い世代の手によって葬られてきた。もしも淘汰に失敗すれば、その社会そのものが滅亡した。古くから残っている「価値観」や「正義」はどれも、共同体や社会を存続させるのに有利なようにできている。
ヒトの命は有限だ。しかしReplication bombである以上、死後の世界にも責任を負った行動を個々人に取らせなければならない。そういう行動を取ることが「正義」と見なされる社会的規律を、私たちの祖先は作り出さなければならなかった。
そして宗教が生まれた。
宗教はいわば民間療法、漢方薬のようなものだ。科学的な知見や思考が不充分だった世代に、次世代を想った行動を取らせる意伝子だった。だからこそ輪廻は転生し、死者はいつか復活し、英霊靖国に集まる――どのように死んだかが問われる――のだ。そういった価値観が共同体の存続に有利に働く時代があった。
もちろん現在の私たちだって、科学的な知見が充分だとはいえない。この宇宙はまだ分からないことだらけだ。けれど神を殺してしまう程度には、そして霊魂を必要としない程度には、科学的な知見は発達してしまった。



科学で宗教は代替できるだろうか。
科学的な知見から、ヒトに「存続」のための価値観を芽生えさせることはできるだろうか。誇大妄想かもしれないが、これは人類の存亡をかけた問いだ。もしも、誰もが次世代のことを考えなくなれば、人類は遅かれ早かれ滅亡する。誰も未来を期待しなくなれば、未来は消える。
科学で宗教は代替できるか? ――できる、と私は思う。
科学は本質的に、「未来の予測」をはらんでいるからだ。天体観測にせよ、動物のふんや足跡の分析にせよ、ヒトの科学的活動は大昔から「未来の予測」のために行われてきた。科学とは、未来を想う学問だ。
少なくとも私は、進化論から「個の尊重」「殺人の否定」「情報偏向の拒絶」を導き出した。大規模殺戮である戦争なんてもってのほかだ。科学は「正義」を規定しない。しかし、なにが正義かを判断するときのモノサシにはなる。
そしてReplication bombとしての自分を考えれば、死後を想うことも可能になる。ここまでくるともはや誇大妄想であり、理性を欠いた「信仰」に近い。けれど、それでも、私は自分の遺伝子・意伝子を遠い未来まで残したいし、私たちの子孫に宇宙の終わりまで見せてやりたいと渇望する。





「わたし」がモノを考えられるのは、40億年前から続く地球生命の遺伝子が、そのような神経細胞を作るように進化したからだ。「わたし」がモノを想うのは、数え切れないほどの他人から知識や価値観を授けられたからだ。「わたし」は個であると同時に全体であり、断片であると同時に連続体だ。
40億年前(もしかしたらもっと前)から続く「わたし」、おそらく100億年後(もしかしたらもっと先)の宇宙の終わりまで続く「わたし」
20万年のホモ=サピエンスの歴史の終着点としての「わたし」、70億人のうちの一人としての「わたし」




こういう「全体との繋がり」みたいな話をすると、嫌悪感を示す人もいるだろう。なによりも「個」を重視するのは現代人の特徴だ。ヒトは誰にでも個性がある、それは間違いない。同じ材料を鍋につっこんで同じ手順で調理したって、できあがる料理の味は毎回少しずつ違う。それと同様、たとえ遺伝子や養育・教育が同じであっても、同じ人間は二人と育たない。私たちの発育には確率的な部分がたくさんある。
しかし「料理」についてもっと大局的な視点から見てみよう。地中の窒素を微生物が固定し、それを吸い上げた野菜たちが空気中の炭素を糖分へと組み替えた成果が鍋に投げ込まれ、大型哺乳類(ヒト)の口に入り、排泄され、汚水処理施設で再び微生物によって分解されていく……そういう巨大な「系」の一端がテーブルの上の料理だ。
ここで書いたのは、ヒトの自我もそういう巨大な「系」に組み込まれているという話だ。では、食物連鎖の一端だからといって、料理の味にこだわるのは無意味なことだろうか? もちろんそんなはずがない。料理の味を判断するのはヒトだ。ヒトの価値を決めるのはヒトだ。




存続を阻害するような価値観を淘汰することに失敗した人々は、その社会もろとも死滅した。人類文明全体だって同じだ。ヘマを踏めば簡単に滅びるだろう。ヒトの子孫が宇宙の終焉を見る可能性があるのと同様、わずか100年後にヒトが絶滅している可能性だってある。未来はどこまでも確率的だ。
ならば明るいほうの未来に、私はベットしたい。







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