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10万年の人類史に「取引」の真髄を学ぶ/マット・リドレー『繁栄』感想

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チンパンジーはヒトと同じように、仲間と食べ物を分けあうことができるし、協力しあうこともできるらしい。「君のシラミを取ってあげるから、ぼくのシラミも取ってくれないか?」……――しかし、「交換」はできない。ヒトなら当たり前にできる「ぼくのこれをあげるから君のそれをください」という取引が、チンパンジーにはできないという。「交換」こそがヒトを人たらしめたのだ。



繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)



この本のすばらしい点は、「交換」というヒトの行動を、ほかの社会性動物の利他的行動と区別したところだ。「お互いの毛づくろい」のような利他的行動は、様々な動物で観察される。家族間での資源のシェアも珍しくない。しかし見ず知らずの相手と「交換」できるのはヒトだけだという。資源を自分で消費してしまうよりも、よりよい資源と「交換」できるかもしれない。手にしたリンゴを自分で食べてしまうのではなく、誰かのチキンと交換したほうが得かもしれない――。そういう判断が可能になった背景には、なにかしら進化的な飛躍があるのだ。
たとえば8万〜12万年前の貝殻のビーズが、モロッコ、アルジェリアイスラエルで出土するという。この時代から長距離の交易が行われていた証拠だとリドレーは主張している。これはヤバい。
時代が古すぎてヤバいのだ。
ヒトが初めて家畜化に成功した動物は狼で、およそ1万年〜1万2000年前だ。豚や羊、ヤギを家畜化したのが8000年ぐらい前。貨幣を発明したのは4000年ぐらい前、つい最近だ。もちろん銀や鉄のように「それ自体が価値を持つもの」を疑似通貨的に使っていた地域はあるだろう。しかし一万円札のような「それ自体の価値とは無関係な金銭的価値」を持つ現代的通貨は、殷王朝のような集権国家が誕生しなければ生まれなかった。
それを踏まえたうえで「ヒトが8万年〜12万年前から長距離交易をしていた」というお話を考えてほしい。古すぎる。やばい、超やばい。
要するにヒトは――ホモ=サピエンスは「取引」をする動物なのだと、「取引」こそがヒトを現在の繁栄に導いたものなのだとリドレーは言う。
ホモ=サピエンスよりも古い時代の人類にも道具を作るやつがいたし、火をおこしたり、死者を埋葬したりするやつらがいた。けれど、そういう古い時代の人類たちは自分の住んでいる地域で手に入る素材で、自分が作れるものしか作らなかった。見たことがないもの、作ることができないものは入手できなかった。
ところが「取引」を覚えると、ヒトはあらゆる資源にアクセスできる。
今朝あなたが食べたコーンフレークのとうもろこしは、かつて中南米のネイティブアメリカンが野生種から栽培化したものだ。昼食のサンドイッチには西アジア原産の麦が使われ、地中海沿岸原産のレタス、アンデス山脈原産のトマトに、中国南部で家畜化されたニワトリ肉が挟まっていた。
ヒトは「交換」を覚えたことで、人類が作れるものならどんなものでも潜在的に入手可能になった。だからこそあなたは、かつて国家予算を投じて作られた電子計算機よりもはるかに高性能なコンピューターを入手できた。潜在的な可能性でいえば、あなたが月世界旅行に行く可能性はゼロではない。



ジャレド・ダイヤモンドは「余剰食糧の増大が人々の専業化を進めた」と書いた。しかし専業化は、そもそも作ったモノを他の生活必需品と交換できることが前提になる。つまり「交換」という習性があったからこそ「専業化」が可能になり、知識の集積が可能になり、現在の繁栄がもたらされた。
チャールズ・ダーウィンがある島で先住民の青年と遭遇して、言葉は通じないけれど鉄の釘(相手にとってはとても価値あるモノ)を渡したら、お返しに魚を2匹もらえた――なんてエピソードもあるらしい。「取引」は言語や人種を超えた、より根本的な部分で私たちを結びつける力なのだ。
たとえばヒトの子は、1歳を過ぎれば食べ物のシェアができるようになる。自分が嫌いなピーマンを誰かのにんじんと交換する――という高度な取引も、2歳までにはできるようになる。チンパンジーやオランウータンには絶対に不可能なことを、ヒトの子は軽々とやってのける。




また、人口の規模とテクノロジーの進退についての分析がとても興味深かった。
たとえば太平洋を航海できるほどの技術を持っていた人々が、タスマニアに住み着いてから技術を徐々に失い、西洋人に再発見されるころには旧石器時代並みに退行していた。どうしてそんな事態になったのだろう?
リドレーは「人口が少なすぎたから」だという。
人口の規模が大きければ技術・知識の継承者の絶対数が多くなり、テクノロジーがロストしづらくなる。逆に人口規模が小さすぎると、ちょっとしたきっかけで知啓が失われてしまう。さらに人口の規模が大きくなるほどピラミッドの頂上も高くなり、知識・技術はますます進歩していく。重要なのは人口の規模、つまり「人々のつながり」だ。それがシルクロードを作り、ユーラシア大陸の繁栄をもたらしたのだろう。人々のつながりから隔絶された――つまり「取引」を失った――タスマニアの人々が技術を失ってしまったのは、ある意味で必然的なことだった。
人々がつながるとイノベーションが生まれる。そしてつながりの規模が拡大するとイノベーションは加速していく。その端的な例としてリドレーはウォルマートをあげていた。POSによる在庫管理とロジスティクスの管理、つまりコンピューターで「ヒトのつながり」を補完することで、ウォルマートは大成功した。



マット・リドレーはこてこてのリベラリストなので、ウォルマートについては礼賛一色だった。地元の商店街がつぶれても商品の価格が安くなるのは「繁栄」だと断言している。
ここで「ちょっと待った!」と言いたくなるのは私だけではないだろう。
ポイントは二つ。「職業の熟練に要する時間」と「マスマーケティングの誤謬」だ。
私は技術の革新が人々の職を奪うとは思わないし、技術革新があるのに職に困る人がいるのは「新しい職業を生み出せない社会」の側に問題があると思っている。また、「偉い人」の判断よりも市場での集合知のほうがフェアで適切な資源分配を達成できるとも考えている。この部分ではリドレーに近い。



ただし私の考え方では、ウォルマートは理想像としてちょっと不適切だ。
まず人が職業を習熟するにはある程度の時間が必要だ。イノベーションの速さが人の成長の速さを追い越してしまったら、そこで失業が生じるのは当然だろう。技術革新は、それに見合う教育や人材育成の革新がなければ礼賛できない。
イノベーションの速さが人の成長の速さを追い越してしまう。これが「職業の熟練に要する時間」という論点だ。
ただしグーテンベルグの印刷技術を見れば分かるとおり、技術革新は生産活動だけではなく人の成長そのものを変えられる。変えようとする努力が必要だけどね。



そしてもう一つの論点は「マスマーケティングの誤謬」
※いや、すんません「誤謬」ってのは言い過ぎかもしんないッス。でもかっこいいじゃないですか「ごびゅう」って響きが。
かつて自動車王フォードは言った:「我が社は顧客のあらゆるニーズを満たすことができる、顧客が黒いクルマを求める限りは」
産業革命から現在まで、私たちは日用品を安く、確実に手に入れることに力を注いできた。日用品が多少好みと違っても文句は言わなかった。マスマーケティングの時代だった。
「足りないもの」を手に入れる。これが今までの豊かさだ。
ではこれからの豊かさとは何だろう。
「好みのもの」を手に入れることだと私は思う。
なぜなら私たちは、物質的には満たされているからだ。たしかに資源の偏在は現在でもなくなっていない。が、50年前に比べればまるで天国だ。栄養失調は激減し、乳幼児の死亡率は著しく低下した。平均寿命は延び続けている。「足りないもの」を手に入れる時代は終わりつつある。だからこそ私たちは自分好みのものを渇望する。
マスマーケティングによる豊かさの時代は終わりをつげ、マスカスタマイゼーションの時代が始まりつつある。これからは顧客一人ひとりのニーズに応えることが、より洗練されていくはずだ。
ウォルマート的な豊かさは、結局のところマス・マーケティングの豊かさだ。だけど余命50年前後(?)の私たちが欲しいのはマス・カスタマイゼーションの豊かさなのだ。商店街的で個人商的な、そういう豊かさだ。行きつけの酒屋の店主は、私の酒の趣味を知っている。ウォルマートにそれができるか。
リドレーは「豊かさ」を「単純な生産活動と多様な消費」と定義している。狩猟採集民はいろいろな生産活動をしながら、結局は衣食住という単純な消費しかできなかった。取引により分業と専業化が進んだことで、私たちは生産活動を単純化し、消費活動を複雑させてきた。「豊かさ」を手に入れた。この定義は的を射ている。
だからこそウォルマートに象徴される「単純な労働と単純な消費」を豊かさの例として書いたことに違和感を覚えた。
ウォルマートは通過点だ。過去にくらべて現在がどんなに豊かであっても、現在を肯定する理由にはならない。
私たちはもっと豊かになるべきだし、なることができる。




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