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一族の首長となったプロ・ブロガー/評価経済を成立させるもの

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氷菓 (角川文庫)

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完全にタイミングを逸したけれど、「評価経済」について今さらながら。
いま貨幣の時代は終わりつつあり、「評価経済」の時代が花開こうとしている――らしい。



「僕らは評価経済の高度成長期に入った」岡田斗司夫 週刊東洋経済インタビュー
http://blog.freeex.jp/archives/51322180.html



貨幣経済の誕生は、今からおよそ4000年前の中国にさかのぼる。
もちろんこれは考古学的な発掘にもとづく推測であり、実際にはもっと古い時代から「通貨」やそれに類するものが使用されていた可能性はある。しかし現在のような「貨幣」が流通するには「国家」の強い信用力が必要で、中央集権的な国家が誕生したこのあたりの時代に貨幣経済が生まれたのは間違いないだろう。その後、様々な社会形態が発達したが、貨幣経済通奏低音のように社会の根底を流れていた。
一方、最初の人類アウストラロピテクスが誕生したのは約400万年前。現生人類ホモ=サピエンスに限っても、およそ20万年の歴史がある。人類史の大部分は「貨幣のない時代」が占めている。そして重要な点は、貨幣がなくても「経済」は成立していたということだ。1万年前の縄文時代の遺跡からも交易の証拠が見つかっている。
貨幣が無くても経済が成り立つのなら、どうして私たちは貨幣を使用するようになったのだろう。貨幣にはどんなメリットがあったのだろう。そもそも貨幣とは何か――という疑問に答えずして、「貨幣の要らない社会」を夢想することはできない。



貨幣とは、つまり「信用」を可視化したものだ。
手前みそだが、これについては弊ブログの記事「知識ゼロから学ぶ簿記のきほん」で貸方ケイリというキャラクターに語らせている。


――スチャ。
ケイリさんはそろばんを握った。
「いい? お金っていうのは信用の証なの。一万円札はどうして一万円の価値を持つのか考えてごらんなさい。あんな紙切れを商品と交換できるのはなぜかしら」
「高級な紙が使われているからだろ」



「違うわ。たしかに一万円札には特殊な和紙が使われているけれど、それでも一枚印刷するのに一万円もかからない。みんなが一万円だと信じているから、一万円札は一万円なの」
「それじゃ、みんなが信じなくなったら――?」
「一万円の価値は無くなって、ただの紙切れになるでしょうね」
なんだか不思議だ。
「たとえば、まだお金が発明される前の原始時代のことを想像してみて。あんたは山で狩猟採集生活をしていて、あたしはふもとで野菜を作っていたとする。あんたは野菜が食べたいし、あたしは肉が必要よ。あんたとあたしは肉と野菜とを物々交換していた――と、しましょう」
「肉が必要、ねぇ……」
「どこ見てんのよ、怒るわよ。――でもある日、あんたは狩りに失敗して肉を取れなかった。その日のうちに何か食べなければ飢えて死んでしまう。そしたら、どうする?」
「土下座する、ケイリさんに。野菜を譲ってくださいって」
「そうね。あたしも鬼じゃないから野菜を渡してあげるわ。だけどタダじゃない、次回の取引のときに、この野菜のぶんの肉も渡すように要求するはずよ」
まあ、そうだろう。ケイリさんに「無償」という言葉は似合わない。
「だけどよく考えてみて? あんたに野菜を渡すのは、次回その“借り”を返してもらえると信用しているからよね。あんたが信用のない人間だったら、野菜を渡すことはできない」
「ええ! それじゃ狩りに失敗した俺はどうすれば……」
「死ぬしかないわね」
「ひどい!」
「こんな感じで、原始時代には“信用”があらゆる取引の根底に流れていたはずよ。肉や野菜の生産高は日によって違う。交換できるモノがいつも充分にあるとは限らない。だから“信用”してもらうしかない。貨幣経済が生まれる以前は、“信用”が経済を動かしていた」
「なるほど」
「そしてお金は、この“信用”を代替するものなの。あんたが狩りに失敗して肉を持っていなくても、お金さえ持っていれば、あたしから野菜を買うことができるでしょう。そしてあんたから受け取ったお金で、あたしは次回の取引では肉を多めに買える。お金は信用を可視化したモノなのよ。『お金=信用』だと言ってもいいわ」
「そんなもんかなぁ……」
「そうなの。だって今でも、信用はお金に換えられるわ。信用のある人は、銀行からお金を貸してもらったり、株券を発行して株主からお金を集めることができる。信用のある人のところにお金が集まって、そうでない人はどんどん貧乏になっていく。いまの貨幣経済は、そういう仕組みでできているの」


ここでいう「信用」を、「評価」と言い換えてもいいだろう。信用の有無は評価の一形態だ。



      ◆



ヒトの社会はその規模によって、おおまかに4つの段階に分類できる。
・小規模血縁集団(バンド)
・部族社会(トライブ)
・首長社会(チーフダム)
・国家(ステート)
初期のヒトは、類人猿の群れに見られるような家族単位の集団で生活していたと推測される。それが小規模血縁集団(バンド)であり、数名から10名程度の人数で構成される。家族とは、いちばん最初の共同体だ。
生物相の豊かな地域に住んでいたり、あるいは原始的な農業が始まると、ヒトは複数家族での共同生活を営むことができるようになる。そして生まれるのが部族社会(トライブ)だ。社会が数十人の規模になると人間関係の調整をする人物が――酋長が必要になる。ただし酋長はあまり特別な存在ではない。たしかに知識や経験が豊富だったり、あるいは神託を聴くことができたり、酋長には特別な資質が求められる。が、それ以外の部分では他の構成員と大差がなく、酋長みずから狩りに出かけ、田畑を耕す。酋長は現代のリーダーのような特権階級ではない。
さらに集団の規模が大きくなると、人間関係の調整を専門に行う人物が必要になる。それが首長だ。100名以上の集団で組織的な狩りや農作、灌漑施設の建造などを行うには、それらを指導する立場の人間が必要だ。そして首長社会(チーフダム)が誕生した。首長は生産活動には従事せず、もっぱら社会の運営に従事している。ネイティブアメリカンの首長が羽根飾りを身に着けたように、一目見てリーダーだとわかる装飾を身に着ける場合が多い。
最終的には生産活動に従事しない立場の人間が複数人集まり、組織を作るようになる。官僚の誕生だ。そして徴税などの制度が整えられ、国家(ステート)が誕生する。貨幣経済が始まるのはここからだ。



興味深いのは、貨幣を持たない部族社会でも、現代の国家の再分配政策に通じるような経済活動が行われている点だ。酋長があまり特別な地位ではないと述べたが、しかしほかの仲間たちからの貢ぎ物が集まってくる。酋長はそれらを(祭事など際に)仲間たちに再分配する。こうして酋長に対する仲間たちの信頼は――つまり「評価」は――たしかなものになる。
そして一定以上の人数から評価を得た人物は、首長として生産活動から離れる。



「若者の貨幣離れ」や「評価によって生活できる人がいる」などの事例は、ネット上に首長社会が誕生した証だ。
ネット社会はしばしば新天地の発見になぞらえて、「第八大陸」と呼ばれる。
現実の大陸では人々は「地縁」によって結び付けられ、家族から国家へといたる様々な社会を作ってきた。一方、ネット上の第八大陸では人々は「価値観」によって結び付けられ、独自の社会を形成している。
黎明期のネット社会では、人々は極めて平等だった。しかし利用者の急増とともに、ネット社会は急速にクラスター化していった。そして各クラスターでオピニオン・リーダーが生まれていく。現実社会でいう「部族」のようなものが第八大陸に誕生した。
そして現在、オピニオン・リーダーのなかでも特にたくさんのフォロワーを獲得した人々は「オピニオン・リーダーとしてふるまう」だけでカネやモノが集まってくるようになった。オピニオンの生産こそが彼らの職業であり、すでに伝統的な生産活動から離脱している。つまり彼らは第八大陸の首長なのだ。※なお、彼らの「オピニオン」が文章や言葉だとは限らない。生活スタイルそのものがオピニオンとして扱われる場合すらある
19世紀のハワイでは部族同士が衝突・再編された。首長たちが組織され、官僚化し、国家が誕生した。過去のあらゆる国家は、似たような経路で誕生したと考えられる。しかし、同様のことが第八大陸でも起こるかどうかは分からない。「価値観」は、「地縁」ほど強力な結束を生み出せるのだろうか。



      ◆



貨幣は信用を可視化したものだ。過去4000年には様々な社会形態が生まれ、奴隷制や階級社会、共産主義など、経済体制に重大な影響をおよぼすモノも少なくなかった。が、貨幣が廃れることはなく、むしろ積極的に使用されてきた。貨幣の持つ「信用の可視化」という機能を、ほかのものでは代替できなかったからだ。
ではインターネットは貨幣の代替物になりうるだろうか。たしかに、充分な信頼関係があれば貨幣を介さずとも取引は成立する。その点に異論はない。しかし現在のインターネットはすでに現実社会に匹敵するほど複雑だ。そして複雑なものは、抽象的な概念の可視化には適さない。
冒頭のインタビュー記事で注目すべき点があるとすれば、個人の信用力を裏付けとした私的通貨の可能性に言及しているところだろう。現在の日本銀行券は、日本という国家の信用を裏付けとして流通している。充分な信用力があれば、通貨の発行主体が「国」や「政府」である必要はない。評価の高い人物の信用に裏付けられた「評貨」を流通させることも理屈の上では可能だ。なんでも買えるスーパー肩たたき券、それが「評貨」だ。
ただし、「評貨」は手形取引となにが違うのだろう? という疑問は残る。手形とは、企業の信用力を裏付けとした私的通貨だ。個人経営の小企業でも手形取引は日常的に行われている。江戸時代には手形取引が盛んに行われていたというが、「評貨」の流通はそれこそ数百年前から続いている。



      ◆



評価経済はたしかに成立する。が、それは首長と呼べるほどフォロワーを獲得した人たちの間でだけだ。首長だけの社会など存在しないし、官僚・公務員だらけになってギリシャは破綻した。
大事なのは「首長になれるかどうか?」よりも、「自分はどんな部族クラスタに属しているか?」だろう。
私たちが目にしているのは、広大な社会のごく一部にすぎない。







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