デマこい!

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女の子の魔法がとけるとき

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太古の昔から、物語には共通のパターンがある。現存する世界最古の物語はメソポタミアの粘土板に描かれた『ギルガメッシュ叙事詩』だ。これは典型的な「行きて帰りし」のプロットを持っていた。古事記ヤマトタケルにせよ、ギリシャ神話のプロメテウスにせよ――あるいは『ドラゴンボール』や『スターウォーズ』でも――「行きて帰りし」のプロットを持つ物語には男性的な印象がある。物語の少年たちは旅をして、神秘的な存在と触れて、成長して帰還する。
では、物語の少女たちはどうだろう。
「行きて帰りし」が男性的なプロットだとしたら、女性的なプロットにはどんな特徴があるだろう。神話学者ジョゼフ・キャンベルは現代の映画脚本や物語創作に多大な影響を与えた。しかし「行きて帰りし」の構造を強調しすぎたことは彼の功罪だろう。物語のパターンには無限の可能性がある。物語を構成する要素のうち、「行きて帰りし」のパターンから外れた部分にも目を向けたい。



       ◆



結論から言うと、少女の物語では「魔法が解ける」というプロットがとても重要になる、ようだ。
『シンデレラ』『人魚姫』『鶴の恩返し』――。みんな「魔法が解ける」ことが物語の軸になっている。これは男の子の物語ではあまり見かけない(と思う)。物語の少年たちは神秘的な存在と触れて、魔力的な何かを身につけて帰還する。身につけた魔法が解けてしまうところに、少女の物語の特徴がある。竹取物語は「かぐや姫」本人が魔法そのものだ。かぐや姫には故郷の月を旅立つシーンはないし、月に帰還したあとも描かれない。かぐや姫は「行きて帰りし」の物語ではない。彼女は神秘的な存在として地上に降り立ち、魔法が解けるのと同時に立ち去る。
ここでは説話や童話を例としてあげたが、神話ではどうだろう。私は知識が足りないのでイマイチ分からない。たとえばギリシャ神話の女神たちは魔法をかける側になりがちで、「魔法をかけられる→解ける」という典型的な「女の子の物語」のプロットはあまりなさそうだ。※詳しい方がいたらぜひ教えてください。
話を戻すと、魔法の扱いにも「いい結末をもたらす場合」とその逆とがあって面白い。
シンデレラは魔法がかかっているあいだにうまく幸せをつかんだ例だ。逆に人魚姫は、魔法のせいでバッドエンドへと突き進んでいく例。ほかにも「眠り姫」は「魔法が解けて幸せになる」例だと言える。
「鶴の恩返し」や「竹取物語」では、魔法が解けたあとにヒロインがしあわせになれるかどうか分からない。けれど、かぐや姫は「魔法がかかっている間」はしあわせになれず、だからこそ旅立ちを余儀なくされる。彼女たちの「旅立ち」は明らかに「婚姻」のメタファーだ。



猿人も遠方から花嫁か 歯の化石で分析
http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011060101000852.html



物語に共通の構造が生まれてしまうのは、私たちヒトが生物的に同じ種であることを意味している。私たちの脳は根本的な部分では共通しているのだ。もちろん、百人いれば百通りの人生がある。しかしそれら人生の平均を取れば、似たようなストーリーが浮かび上がるはずだ。そういうストーリーはより多くの人から共感を得て、より長く語り継がれる。そして古典的な物語には人生のメタファーが織り込まれていく。
平均的に言って、男の人生は変化を経ても最後にもとの場所へ戻る。
だから話の少年たちは「行きて帰りし」の旅をするし、フロドは指輪を捨ててホビット庄に帰還する。スターウォーズ、BTTF、ジュラシックパーク――“男性的”なヒット映画には、必ず「行きて帰りし」の要素がある。
それに対して女の人生は、変化したらもう元には戻れない。
昔ながらの「婚姻」はその典型的な例だ。女は結婚したら離縁できず生家には帰れない――そんな時代からまだ百年も経っていない。そもそも女の一生は不可逆の連続だ。初潮が来れば「少女」になって、もう「子供」には戻れない。結婚すれば「新妻」になって、もう「少女」には戻れない。出産すれば「母親」になって、もう「新妻」には戻れない。
だからこそ女の子の物語は「行きて帰りし」にはならないのだ。行ったら行きっぱなし。この「不可逆性」の物語的な表現が、「魔法が解ける」というプロットではないだろうか。似たような感覚は、たぶん今の女の子たちも持っているはず。つけまはつけるタイプの魔法だ。



現代の日本には魔法少女というジャンルがあり、魔法を持った少女たちの物語が大量生産されている。そして極めてたくさんの作品で「魔法がとける」という表現が登場する。なかでも映画『魔女の宅急便』は知名度が高い。作中でキキは魔力を失う(ネタバレごめん!)が、このエピソードが彼女を人間的に大きく成長させる。なかなか示唆的ではないか。女の子は魔法がとけて大人になるのだ。
逆にいえば、魔法がとけないといつまでも大人になれず、やがて大変なことになる。
『白雪姫』の例を出すまでもなく、狡猾な老婆は「魔女」として童話では描かれる。現代日本の『魔法少女まどかマギカ』では、魔法を使いすぎた少女は「魔女」という怪物になってしまう。さやかが魔女化したのは「片想い」という幼い感情が原因だった。たとえば両想いになり、愛情を深め、ときに失恋して――。片想いのままでは、それら大人の感情をいつまでも学べない。(※ここでいう「幼い感情」「大人の感情」とは物語的な意味です)
またストパン蔑称 愛称で知られる『ストライク・ウィッチーズ』では、「大人になると魔法が使えなくなる」というそのものズバリの設定がある。このように「魔法」の扱いに注目してみると、いろいろと新しい発見がありそうだ。



少女の物語に登場する魔法は、「魔法」という言葉で説明されるとは限らない。
時をかける少女』ならタイムリープだし、映画『プラダを着た悪魔』では「ファッション」が魔法だ。アン・ハサウェイはブルーのセーターに潜んだ魔力に気付き、服装という魔法に魅せられていく。しかしやがて魔法から目が覚めて、人間的に一回り大きく成長する。自分がいちばんやりたかったことへと力を注ぐようになる。『オペラ座の怪人』をクリスティーナの視点から読み解くと、ファントムという「男」が魔法になっている。桜庭一樹は「少女」を描かせたら当代一だが、ヒロインの成長を表現するのに「風のようなものが吹き抜ける」という描写をたびたび用いている。これは「魔法がとける」ことの桜庭一樹的表現だ。※念のため桜庭一樹は女性です!



というわけで「とある」シリーズの御坂美琴は、無事に上条さんと結ばれても一夜を過ごしたら電撃能力を失っちゃいそうだよね。そういう二次創作を蛸壺屋さんあたりに描いてほしい。能力が消えたことで自信喪失して、美琴は人生に迷うことになるの。黒子や初春からの優しい言葉もイヤミしか聞こえなくて、友情にもヒビが入る。せっかく結ばれた上条さんとも破局してしまう。のだが最後にサテンサンに救われる、というお話が読みたい! 誰も書かないなら俺が書くよ?ブヒー



「魔法がとける」のは少女の成長のメタファーだ。
そして男たちがいつまでも子供っぽいは魔法がとけないから、かもしんない。



少女には向かない職業 (創元推理文庫)

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ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫)

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