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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

『バブリィ・おやつ・デリバティブ』

創作 知識ゼロから学ぶ簿記のきほん
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本作は『知識ゼロから学ぶ簿記のきほん』のスピンオフです。


「先生!」とケイリちゃんは手をあげた。「おやつを三〇〇円まで持って行ける権利を、証券化してもいいですか?」
五年生の全員が体育館に集まっていた。
先生たちは気が早い。まだ九月になったばかりなのに、十月の遠足の話をするんだもの。持ち物について注意を受けているときだった、ケイリちゃんがスッと手をあげて、そう訊いた。
「ふぇ? しょうけんか?」
担任のこころ先生が首をかしげる。こころ先生には「教師」という雰囲気が足りない。ふわふわしたお姉さんって感じ。
「そうです、証券化です」ケイリちゃんは立ち上がった。「あたしの持っている『おやつを三〇〇円まで持って行ける権利』を証明書にして、誰かにあげたいんです。その証明書を持っている人は、自分の権利と合わせて六〇〇円までおやつを持って行けることにするの。だって、あたし、遠足におやつなんていらないわ」
「え、えっとぉ……」
ケイリちゃんの身長はこころ先生の胸のあたり。背の順で並べばいつも一番前だ。けれどハキハキした喋り方と、落ち着いた服装のせいで、先生よりも大人っぽく見える。
「もちろんタダであげるつもりはないわ。今日の給食のデザートはプリンですよね。そのプリンをくれた人に、お返しとしてあたしの『おやつ証券』をあげます」
同級生の反応は冷ややかだった。(あーあ、また貸方ケイリが変なことを言い出したよ)誰も口にしないけれど、空気がそう言っている。
「で、でもね、貸方さん。そういう証明書を偽造すれば、いくらでもおやつを持って行けるようになってしまうでしょう? だ、だからね——」
「それなら心配いりません。誰か責任者を決めて、その人の拇印がない証券は無効、ってことにすればいいんです」ケイリちゃんはふり返った。「そして適任者は、師(つかさ)くんだと思います」
「は、はぁ……。相場くんなら確かに信頼できますけど……」
相場師(あいば・つかさ)くんは成績優秀スポーツ万能な学級委員長だ。男子たちのリーダー格で、わたしはちょっと苦手。ケイリちゃんが彼を下の名前で呼んだことに、わたしは軽くショックを受けた。ケイリちゃんは微笑む。
「ねえ、師くん。あなた、甘いものは嫌いでしょう? 今日のプリンとあたしの『おやつ証券』を交換しようよ。あなたの発行した、あなたの拇印を押した証券と」
相場くんは中指でめがねを押し上げ、うなずいた。
「わかった。ケイリがそこまで言うなら、頼まれてあげるよ」



授権者:貸方ケイリ 額面金額:三〇〇円 発行者:相場師



放課後、学校の事務室からメモ帳をもらってきた。丈夫そうな紙質のやつ。相場くんは几帳面な文字を書き込むと、自分の名前のうしろに真っ赤な拇印を押した。ビリッと切り離して、ケイリちゃんに渡す。
「これでいい?」
「ええ、ありがとう」
ケイリちゃんは証明書を——おやつ証券をうっとりと眺めた。そしてぺこりと頭を下げると、渡されたばかりのそれを相場くんに差し出した。
「これを差し上げますので、今日のプリンをくださいな」
「ほらよ」
給食のときに残しておいたプリンを相場くんは手渡す。プラスチックのカップを受け取って、ケイリちゃんはニコリと頬を緩めた。
「ほんと、感謝してもしきれないわ。師くんがこういうことを頼める人でよかった」
こんなに愛想のいいケイリちゃんを見るのは初めてだった。



ケイリちゃんが転校してきたのは四年生の終わりごろだ。別のクラスだったわたしは、うわさ話で彼女を知った。「第一印象サイアクの子が来たよ」というウワサ。クラスの代表格の女子と一悶着あったらしい。蜂埜妃子(はちの・ひめこ)という、いつもチヤホヤされていないと気が済まないタイプの人だ。新しい手下候補として話しかけたら、「勉強の邪魔」だと突っぱねられたそうだ。学年の女子には箝口令が敷かれ、わたしはまだ見たこともない転校生と絶交させられた。
五年生のクラス替えで、わたしはケイリちゃんと一緒になった。女子からの無視は続いていたけれど、彼女は少しも苦にしていないみたいだった。放課後はさっさと帰ってしまうし、休み時間は分厚い本を読みふけっている。『一般理論』とか『マンキュー経済学』とか、難しそうな本ばかり。蜂埜さんたちは「お高くとまって感じ悪ぅ」と言っていた。けれど大人びた雰囲気の彼女のことが、わたしは気になってしかたなかった。でも、話しかけて、とんちんかんなことを言って、バカだと思われたらどうしよう——。ほんとうは仲良くなりたいのに、なかなか声をかけられなかった。
ケイリちゃんと言葉を交わしたのは、六月になってからだ。
プール開きのあったその日、ちょっとした事件が起きた。わたしたちが寒さにくちびるを青くして教室に戻ってみると、ケイリちゃんの下着が消えていたのだ。着替えの前で立ちすくむケイリちゃんに蜂埜さんが話しかけた。「どうしたの?」そしてすぐに「もしかしてパンツがないの?」と気が付いた。ケイリちゃんは何も言わず、冷めたい視線で睨み返すだけだった。
こころ先生は、あろうことか帰りの学級会でそれを発表した。「人のモノを隠すのは悪いことですよ、正直に先生に言いなさい!」って。やっぱり先生はどこか一本抜けている。クラスの男子たちは色めきたった。「それじゃ貸方ケイリはいまノーパンなの?」男ってほんとうにどうしようもない。「ノーパン! ノーパン!」というコールが湧き上がった。こころ先生は「そんなことありません、さっきコンビニで買いました……」とオロオロするばかり。わたしの前の席の男子なんて、椅子のうえに立ち上がってコールを続けている。ケイリちゃんは目を閉じて、じっと黙っていた。蜂埜さんは「やだもぉー男子って下品なんだからぁー」と楽しそうだった。わたしのなかで、何かがぷつんと切れた。
——ガチャン!
気付くとわたしは、自分の机を突き倒していた。椅子の上で踊っていた男子が間抜けな悲鳴をあげて崩れ落ちる。わたしの給食袋や水着袋が床を転がり、彼のランドセルが宙を舞った。教科書やノートが散らばる。教室がしん……とした。
「あ、ご、ごめ……」のどが引っかかって、うまく声が出せなかった。「ごめんなさい、手が滑ったの……」
自分のしたコトの重大さに気付いて、わたしはほっぺたが熱くなるのを感じた。わたしはクラスでも目立たないほうだったし、こんな大それたことをできる立場ではなかったのだ。つばが口のなかを逆流して、胸が苦しくて、なぜか涙がでそうなほど悔しかった。
泣きたいのはケイリちゃんのはずなのに。
「――痛ってえな!」
怒鳴られて、わたしはびくりと身を固くした。これだから男子は苦手。ごめんなさいという言葉を、口のなかでもごもごと言う。相手はわたしに掴みかかろうとして——。
「そのぐらいにしておけよ」
相場くんが呼び止めた。
「お前ら、調子に乗りすぎだよ。そのぐらいにしておけ。ていうかケイリに謝れ」
相手は「ちっ」と舌を鳴らすだけだった。
その日の帰り、下駄箱の前でわたしはケイリちゃんを見つけた。黒のパンプスを履こうとしている彼女に、勇気をふり絞って話しかけた。
「さっきは、その……ごめんね」
「どうして?」
ケイリちゃんが首をかしげる。これが初めての会話だった。
「謝るようなこと、したの?」
「だっ、だって、わたしのせいでケイリちゃんが悪目立ちしちゃったから——。わたしが机なんて倒したから、男子からも反感を買ってしまったでしょ。だから、だから——」
ケイリちゃんは、くすりと笑った。
「あたし、そんなの気にしないわ」小さく肩をすくめる。「むしろ感謝してる。止めてくれたんでしょう、あいつらのこと」
「感謝だなんて、そんな……」
「ね、あなたの名前は?」
「……高居、利子……」
「そっか、『としこ』って読むのね。『りこ』とどちらなのか分からなかったから」
「へんな名前でしょ。まるでおばあちゃんみたい」
わたしは自分の名前が嫌いだった。
「いい名前だわ」とケイリちゃんは言った。「うん、とってもいい名前!」
そんなことを言われたのは初めてで、わたしは返事に困ってしまう。
「……あ、あのね。パンツを隠したのは蜂埜さんだと思うの」
「証拠は?」
「し、証拠は……ない、けど……。でも蜂埜さん、四年生のころからケイリちゃんのこと嫌っていたんでしょう?」
「証拠のない人を犯人だと決めつけたらダメよ。それに、あたしは何とも思っていないんだから」ケイリちゃんは腕を組むと姿勢を正し、少しだけ背伸びをした。「ほんとう、こんなの『へ』でもないわ。あんなクマさんのパンツなんて、子供っぽくて恥ずかったの。無くなってせいせいした」
きっぱりと言い切るケイリちゃんは何だかカッコよくて、以来わたしはケイリちゃんの後ろをついて回るようになった。ケイリちゃんが口をきく唯一の同級生。そういう立場になれたことが誇らしくて、くすぐったかった。



だからプリンをほおばるケイリちゃんに、わたしは訊いた。
「わたしもやってみてようかな、おやつを持って行く権利のショーケンカ……」
ケイリちゃんのすることなら、なんでも真似してみたかったのだ。
「ダメよ」と彼女は目を丸くした。「これはあたしの問題だもの。トシちゃんは巻き込めないわ。他の誰が『おやつ証券』の取引をしても文句を言わないけれど——。トシちゃんにだけは、やってほしくない」
「そ、そっか——」笑ってごまかしたけれど、ほんとうは少し、傷ついた。



翌日の二時間目が終わるころ。給食のこんだて表の前で、相場くんが腕組みをしていた。ケイリちゃんは寄りそうように彼に近づいた。
「どうしたの?」歌うみたいな口調だった。
「ああ、なんだケイリか……」
相場くんの馴れ馴れしい呼び捨てが、わたしはどうしても好きになれない。
「今日の給食にはハンバーグが出るだろ? 誰かから分けてもらえないかと思って」
「それなら『おやつ証券』を使ったら? あたしが渡したやつでもいいし、師くんがもともと持っている権利を証券化してもいい。昨日、あたしがプリンをもらったみたいに、給食のおかずを『おやつ証券』と交換するのよ」
「だけど『おやつ証券』を誰かに渡したら、遠足に持って行けるおやつの金額が少なくなるだろ? せっかく今は六〇〇円まで持って行けるのに、『おやつ証券』を一枚使ったらもとの三〇〇円に戻っちまう」
「また苦手なおかずが出たときに取り戻せばいいわ。師くんが嫌いなのはプリンとかヨーグルトでしょう? 欲しがる人が必ずいるはず。その人の『おやつ証券』を発行して、それと交換すればいい」
「そんなにうまく交換相手が見つかるかな。『おやつ証券』を誰かに渡すってことは、遠足のおやつを諦めるってことなんだよ?」
「これを使いなさいよ」ケイリちゃんはケータイを掲げてみせる。「取引に応じてくれる相手がすぐに見つかるはずよ、《ともだち結社》で呼びかければ」
ともだち結社は小学生限定のSNSだ。各教科のテストの内容から、同級生のうわさ話、先生の悪口にいたるまで、ともだち結社の掲示板で話し合われている。クラスの話題から置いてけぼりにされたくないから、ほぼすべての生徒が——わたしのような目立たないキャラでさえ——アカウントを取得していた。
「なるほどな……」と、相場くんは自分のケータイを取り出した。二人は頭を付き合わせるようにして画面をのぞく。
もやもやした気持ちを抑えながら、わたしもケータイを手に取った。タッチパネルに指を滑らせ、ともだち結社にアクセスする。相場くんの書き込みはすぐに見つかった。
《今日のハンバーグをくれるヤツ募集。見返りに三〇〇円ぶんのおやつ証券をあげます》
数秒後、相場くんは追記した。
《あと、おやつ証券を発行したいヤツも同時に募集中。ルールはこのあいだ体育館でケイリが言ったとおり。おれの拇印がない証券は無効なので、みんなおれに相談してね!》
反響は劇的だった。数分後には「ハンバーグなんてあげるから、おやつ証券をくれ」という書き込みが数件ならんだ。一時間後には「おやつ証券を発行したい」という書き込みで掲示板があふれ、そして半日後には「おかずが欲しい人」と「おやつ証券が欲しい人」とが、勝手に取引を成立させるようになった。



それから数日間、相場くんは親指が真っ赤になるぐらい拇印を押しまくって、証券を発行しまくった。と、同時に全クラスの名簿を手に入れて、誰が「おやつを三〇〇円まで持って行ける権利」を証券化し、誰がしていないのかを管理した。おやつ証券を二重、三重に——つまり六〇〇円ぶんも九〇〇円ぶんも発行しようとするやつらがいたのだ。もちろん、発行できるおやつ証券は一人三〇〇円まで。相場くんの名簿と学級委員としての鉄の意志が、そういう不正行為にブレーキをかけた。
そして一週間もすると、給食の時間に『おやつ証券』とおかずの交換をするのが、当たり前の光景になった。わざわざ隣のクラスからお皿を持ってくる人もいる。毎日のようにおかずを提供して、おやつ証券を何枚もため込む人も現れた。
最初は男子たちの遊びだと思って、女子は醒めた視線を送っていた。けれど蜂埜さんがおやつ証券を発行したことをきっかけに、一気に女子のあいだにも広まっていった。たとえば脂っこいおかずが出たときに、男子に食べてもらうのは気が引ける。「こいつ俺に気があるの?」なんて勘違いをされたくない。だけど、おやつ証券との交換ならただの取引だから、そういう「感情的な諸問題」を考慮しなくてもダイエットに適さないおかずを処理できる。そして先生から口うるさく言われずに済むというわけ。ちなみに蜂埜さんのヨーグルトは、通常の二倍、三倍の枚数のおやつ証券で取引された。なんでだろ?
ともだち結社の掲示板は、証券とおかずの交換を求める書き込みで埋め尽くされた。
「だけど不満がつきないんだよ」と相場くんは言った。「取引が成立しないことも多いんだ。欲しいおかずを提供してくれる人がいなかったり、いても渡せるおやつ証券の枚数が足りなかったり——」
ある日の昼休みだった。このところケイリちゃんは、相場くんにつきっきりでおやつ証券のアドバイスをしている。男子からの「サッカーしようぜ」という誘いを断って、相場くんは教室に残った。ケイリちゃんの前の席に座って、彼女と向き合っている。
「何かいい方法はないかな」
相場くんは中指でメガネを押し上げる。
「あるわ。簡単よ」ケイリちゃんは微笑んだ。「いまの問題はたった一つ。おやつ証券を手に入れるには、まず誰かにおかずを提供しなければいけないことだわ。自分の給食を欲しがる人がいないと証券が手に入らない。だから、手元のおやつ証券が足りない、なんて事態になる。だったら、おかず以外の方法でおやつ証券を入手できればいいでしょう?」
「それは、そうかも」
「だから現金で取引すればいいの。ねえ、師くん。いま手元におやつ証券はある? それを売ってごらんなさいな。ともだち結社の掲示板で買い手を募ればいいわ」
仲良さげに語り合う二人を、わたしはほぞを噛むような気持ちで眺めていた。
「そんな……。売れるわけないじゃん。もとは『遠足に三〇〇円までおやつを持って行ける権利』なんだよ? ただの『権利』でしかなくて、この証券を三〇〇円ぶんのおやつの現物と交換できるわけじゃない。この証券そのものには一円の価値もないんだ」
ケイリちゃんは、すっと目を細めた。
「価値のあるなしを決めるのは、買い手のほうだわ。手元におやつ証券はあるの? ないの?」
「あ、あるけど……」それは今日、牛乳プリンと交換して入手したものだ。わたしは相場くんの書き込みをずっと追いかけていたから知っている。「これは明後日の唐揚げと交換するつもりで手に入れたんだ」
はあ、とケイリちゃんは溜め息をついて見せる。
「それなら時間的にも充分な余裕があるじゃない。売ってみなさいよ。もしも売れなければそのまま手元に残るのだし、たとえ売れたとしても、どうせ二足三文でしょう。すぐに買い戻せばいい。違う?」
相場くんはむすっと眉をひそめた。
「なんだよその上から目線な言い方。おれのことをバカにしてないか?」
「べつに。でもね、いくじなしだなって思う。こんな小さなリスクも取れないんだもの」
返事をするよりも先に、相場くんの手はケータイに伸びていた。すばやく画面をタッチする。わたしも書き込みを確認した。
《おやつ証券を一枚売ります! 欲しい人は今日の夜八時までに『買い取り金額』をレスしてください。いちばん高い値段をつけた人に、明日の朝、その金額で売ります》
ケータイをポケットにつっこみながら相場くんは言った。
「これで文句ないだろ」
「うん。見直したわ、ちょっとだけ」
「売れたとしても、どうせ五円、十円だろ。だって証券そのものには一円の価値もないんだから——」
しかし、その晩、相場くんのおやつ証券には二五〇円の値段がついた。



「一体どういうことなの」給食の時間中、わたしはケイリちゃんに訊いた。二人の机をくっつけるのが、わたしたちの習慣になっていた。「相場くんの言うとおり、おやつ証券そのものには一円の価値もないのに……。なんであんな高い値段がつくんだろう」
ケイリちゃんは牛乳びんを両手で持って、んくっんくっと飲んでいる。たっぷり牛乳二本ぶんのカルシウムを摂取するのが、身長の伸び悩みに対する彼女のささやかな抵抗だった。ぷはっ、と小さく息を吐いて、ケイリちゃんはびんを置いた。
「不思議でも何でもないわ」白くなったくちびるをぺろりと舐める。「おやつ証券さえあれば、好きな給食のおかずと交換できる。ということは、二五〇円でおやつ証券を買うのは、二五〇円で好きなおかずを買うのと同じことでしょう? ちょっと割高な気もするけれど、それでも常識の範囲内だわ。ハンバーガー一個ぐらいの価格だもの」
「そう……かな……」
なんの価値もないメモ用紙が二五〇円で売買されるなんて、やっぱり理解しがたかった。ケイリちゃんはうっすらと笑う。
「まだ上がるわよ、値段」



彼女の予言どおりになった。おやつ証券を現金で売買するというアイディアは瞬く間に広まり、ともだち結社の掲示板にはオークションのスレッドが乱立した。売り手のオークションだけではない。「いちばん低い販売価格をつける人」を探す、買い手のオークションも広まった。最初はスレッドごとにバラバラな値段で取引されていたけれど、そのうち一つの価格へと落ち着いた。そして細かな上下を繰り返しながら、おやつ証券の値段はゆっくりと上昇を続けた。
翌朝、相場くんはぷりぷりしながらケイリちゃんに近づいた。
「おい、騙しやがったな」声をひそめて、彼は言った。「二束三文で売れるだなんて嘘を言いやがって。買い戻すのには三〇〇円もかかったんだぞ」
「あら、ご愁傷さま。いくらで売買されるようになるかなんて、想像もつかなかったわ」
「わかってんのかよ。たかが唐揚げに三〇〇円だなんて……。古本屋でマンガを三冊も買える値段だ」
ケイリちゃんは、きょとんとした表情を浮かべた。
「師くん。あなたはまだ、その証券を唐揚げと交換するつもりなの?」
「わ、悪いかよ」
「ううん、悪くない。ただ、もったいないなあと思って」
「もったいない?」
「だってそうでしょ? 唐揚げと交換せずに持っていたら、明日には五〇〇円で売れるかもしれないのに」
相場くんは手にしたおやつ証券をじっと見つめて、神妙な顔つきになった。
わたしが後から掲示板を確認したところによると、相場くんは助言どおりに唐揚げをがまんし、おやつ証券を転売したようだ。彼の証券は五三〇円で売れた。



わたしは面白くなかった。ケイリちゃんが誰と仲良くなろうと、あの子の自由だ。頭ではそう解っていても、彼女が相場くんと親しげに会話しているところを見ると、胸の奥がちりちりと痛くなる。どうしてケイリちゃんは相場くんのトクになることばかりを考えているのだろう。よりにもよって、あの相場くんの。
相場くんは勉強もスポーツも学年でいちばんで、先生たちからは信用されて、同級生から頼られている。わたしみたいなクラスの隠しキャラと比べれば、向かうところ敵なしって感じだ。けれど、そんな相場くんのことが、わたしはどうしても好きになれなかった。
原因はハッキリしている。五年生になったばかりの四月の第一週、わたしは風邪ぎみのまま学校に来て、二時間目の体育を休んだ。空気は春を忘れたみたいに冷たくて、わたしは校庭で見学させてもらえず、教室で自習することになった。三時間目は国語で、四年生の復習テストがある。わたしは漢字ドリルを開き、はかどらない勉強を続けていた。
と、相場くんが教室に戻ってきた。
「お前、なにしてんの?」
開口一番、彼はそう言った。
「なにって……。予習だよ、テストの。相場くんこそ、なにしに来たの」
「おれは帽子を取りに来ただけ」
荒っぽい足どりで自分の席に近づくと、相場くんは体育着袋から紅白帽を取り出した。そして背を向けたまま言った。
「お前って、ずるいよな」
「ず、るい……?」
体が火照って、彼のセリフがうまく飲み込めなかった。
「だってそうだろ? 三時間目のテストで少しでもいい点を取りたいからって、体育を休んでまで勉強していたんだ。ずるいよ。テストで点を取りたいのは、みんな一緒なのに」
相場くんの言葉がぜんぜん理解できなかった。わたしがバカだからかな。
「わ、わたし、そんなつもりじゃ……」声が小さくなってしまう。「……ないのに」
「まあいいけど」相場くんはせせら笑った。「お前が取れる点数なんて、たかが知れている。おれのライバルでもなんでもないんだ。せいぜい頑張れよ、ずる休みちゃん」
わたしをちらりと一瞥すると、彼は教室を出て行った。わたしは激しい感情に襲われて、それが怒りであることに気がついて、だけどうまく言い返せないことが悔しかった。
それ以来、わたしは相場くんが苦手だ。本当はケイリちゃんにも、彼と口をきいて欲しくなかった。



一週間も経つころには、おやつ証券の現金売買はすっかり定着し、給食との交換を目的にする人はいなくなった。証券の価格は高騰の一途をたどり、安く買って高く売ることができた。そうやって利ざやを稼ぐことが、みんなの目的になった。むしろ夢中になったのは女子だ。女の子が三人集まれば恋バナをするか、おやつ証券の値動きについて情報交換をするかのどちらかだ。どれだけ儲けを大きくできるか——。男子が熱中しているゲームやカードよりも、おやつ証券はずっとシンプルで面白かったのだ。
ある日の放課後、帰ろうとする相場くんを、ケイリちゃんが呼び止めた。
「ちょっといいかしら。この子が、相談したいって」
ケイリちゃんの後ろでは、一人の女子が不安げな表情を浮かべていた。彼女はたしか隣のクラスの子で、四年生までは蜂埜さんの「配下」の一人だったはず。いつの間にケイリちゃんと仲直りしたのだろう。
「いいよ。なに?」相場くんは如才なく笑いかける。
「あ、あのね」その子はおずおずと自分のおやつ証券を差し出した。「この証券を分割してほしいの。いまは一枚で三〇〇円ぶんのおやつを持って行けるでしょう? これを十等分して、一枚あたり三十円のおやつを持って行ける証券にしてほしいんだ」
朗読するような口調で言ってから、ちらりとケイリちゃんを見た。ケイリちゃんは小さくうなずく。それだけで解った。きっと彼女は「絶対に儲かる方法」か何かを相談して、ケイリちゃんの助言を受けたのだ。
「十等分、ねえ……」と相場くんはお道具箱を取り出そうとする。
「ハサミは要らないわ」ケイリちゃんが言った。「三十円ぶんのおやつ証券を新たに十枚発行して、この三〇〇円ぶんの証券と交換すればいい。古いほうは相場くんの責任で破棄すればいいわ」
「なるほど」
相場くんはメモ帳を取り出すと、「額面金額:三十円」と書きこんで拇印を押した。それを十枚作って、隣のクラスからきた子に渡した。代わりに受け取った三〇〇円ぶんの証券を、彼女の前でびりびりに破く。
「これでいいか?」
「ええ、ありがと」ケイリちゃんは微笑むと、女の子のほうに向き直った。「あとは、この小口にしたおやつ証券を売るだけよ。いまは三〇〇円ぶんの証券一枚が、六〇〇円台後半で取引されている。三十円ぶんの証券なら、一枚六十五円ぐらいが妥当な金額ね。その額を最小落札額として、売ってごらんなさい」
相手の子はメモ用紙の束とケータイを握りしめ、こくこくとうなずいた。
「きっと、いい値段が付くはずよ」
その晩、三十円ぶんの証券は一枚一〇〇円前後で落札された。



おやつ証券の分割はあっという間に流行し、相場くんはまたしても親指を真っ赤にして小口の証券を発行しまくった。三十円ぶんの証券や十円ぶんの証券など、細かさにも様々なバリエーションがあった。なかには三百分割して一円ぶん証券を発行してほしい、という依頼もあったようだ。さすがの相場くんもそれは断ったみたいだけど。
証券が分割されたことで、なぜか価格上昇が加速した。きっと、みんな金銭感覚がおかしくなっていたのだろう。三十円ぶん証券一枚が、もとの三〇〇円ぶん証券と同じぐらいの価格で——つまり七〇〇円ほどで取引されるようになった。わたしたちの「遠足に三〇〇円までおやつを持って行ける権利」はその十枚ぶん、いまや七〇〇〇円の価値を持つようになったのだ。
「これだけ値段が上がり続けるなら、もっと大儲けする方法がありそうだよな」
放課後、いつものように相場くんはケイリちゃんに絡んでいた。
「いつまでもあたしに頼らないで、少しは自分の頭を使ったら?」
突き放すようなケイリちゃんの言葉に、彼はむすっと顔を歪める。
「べつにお前に頼ったことなんてないからな……」声を低くして続ける。「そうだ、たとえば証券を買い集めればいいんだろ……?」
「へえ、するどいわね」
「バカにすんなよ。一枚七〇〇円の証券の価格が七〇一円に値上がりしても、一枚だけなら一円の儲けにしかならない。けど、百枚なら百円の儲け、千枚なら千円の儲けだ。取引の規模が大きくなればなるほど、値上がりしたときの利ざやも大きくなる」
「ええ、そのとおり」
「と、言うことは、できる限りたくさんの証券を買い集めれば、とてつもない金額の儲けになる……。なあ、ケイリ。カネを貸せよ。何倍にもして返してやるから」
相場くんはケイリちゃんに迫る。
「いやよ」と彼女は肩をすくめた。「あたし、そんなお金を持っていないもの。相場くんのほうがお小遣いをたくさんもらっているんでしょう?」
「ああ、そうか。くそ、カネさえあれば、もっとデカく儲けられるのに……」
「……お金を集める方法なら、あるわ」
相場くんは顔を上げた。
「ほんとうか」
「ええ……。でも、おすすめはしないわね。まとまったお金が必要になったとき、大人なら『債券』を発行するの。借金の証明書ね。いつまでに返済するか明記した証明書を配って、代わりにお金を借りればいいのよ。……だけど、借りたお金はいつか返さなくちゃいけないわ。返すことができなければ破産して、みんなからの信用を失う。そんなリスクがあるんだもの。あたしは、おすすめしない」
「……いや、いいアイディアだ」
相場くんの目の色が変わっていた。
「すばらしいアイディアだよ。ケイリ、ありがとう!」
「……ごめんなさい、変なこと言わなければよかったわ。『債券』のことは忘れて」
「ようするに儲けを出せばいいんだろ。そうすれば返済なんて心配しなくていい。なあ、ケイリ。お前はこのあいだ言ったよな、リスクを取れないやつはいくじなしだって」
「たしかに言ったわ。でも——」
ケイリちゃんが珍しくシュンとする。相場くんは畳みかけた。
「見せてやるよ、おれがいくじなしじゃないってところを」
「あきれた……。あたしは止めたわよ。もう知らないんだから!」
芝居がかったセリフを残して、ケイリちゃんは教室から飛び出した。わたしもあわてて荷物をまとめて、彼女を追った。教室のドアを閉めるときにふり返ると、相場くんはメモ帳になにか書きこんでいた。きっと『債券』だ。
下駄箱の前で追いついた。
「ケイリちゃん!」
彼女はびくりと身を固め、「なんだトシちゃんか」と肩から力を抜いた。
「ごめんね、勝手に帰ろうとしちゃって……」
黒のパンプスにつま先を入れながら、ケイリちゃんは「一緒に帰ろ?」と微笑んだ。
「ケイリちゃん、あのね……」
わたしは体の両側で、こぶしを握った。たくさんの言いたいことが頭のなかをぐるぐるして、なにから伝えればいいのかわからなくなる。
「あのね、ケイリちゃん。あ、相場くんと……その、喋らないでほしいの!」
「……」すぐには返事がなかった。「……どうして?」
「だって、だって……」頭のなかで考えているときは、あんなにうまく言葉がつながるのに、どうして実際に喋るときは口が回らなくなるんだろう。「相場くんは、いい人じゃないから……」
「なんで、そう思うの?」
四月の体育を休んだ日のこと。ケイリちゃんに対する上から目線なセリフ。そして強情で意地っぱりで……。今日だって、ケイリちゃんの注意を聞かずに『債券』を発行しようとしていた。相場くんのダメなところをあげればきりがない。なのに、わたしの口をついて出たのは、まぬけな質問だけだった。
「ケイリちゃんはどうして相場くんに優しくするの?」
 彼女の表情が、さっと固くなる。
「質問に質問で返すのは、あまりいいことじゃないわ」ケイリちゃんは真っ直ぐにわたしを見つめた。「前にも言ったわよね。これはあたしの問題で、トシちゃんを巻き込みたくないって」
「だけど、相場くんは——」
「キツい言い方をするけれど、あたしが誰と仲良くしようと——どんな男の子と仲良くしようと、トシちゃんには関係ないでしょう。だから、お願い。わかって」
「わかんないよっ!」大声で叫んでいた。「そんなの、ぜんぜん、わかんないっ!」
わたしはくるりと背を向けた。べそをかきそうになった顔を、見られたくなかった。
「……わ、忘れものを思い出した。ケイリちゃんは先に帰ってて」
逃げるように下駄箱を後にして、階段を駆け上がった。いったい何に怒っているのか——どうしてこんなに苦しいのか、自分でもよく分からなかった。階段を上りきるころにはすっかり意気消沈して、わたしはとぼとぼと廊下を歩いた。重い足どりで教室に向かう。ほんとうは忘れものなんて無いけれど。
ドアを開けようとして、わたしは息を止めた。
「——ツカサはまじですげえよ」
「そんなことないって——」
男子数人が教室に残っているようだ。相場くんが呼び戻したのだろう。
「おやつ証券を現金で売り買いしたり、それを分割したり——。すごいアイディアだよな。どうすればこんな方法を思いつくわけ?」
「大したことないよ。ただ、ふっと降りてくるんだよね、アイディアが」
「またまたぁ! 天才っぷりをアピールすんなってーの!」
声を上げて笑う男子たちに、わたしは震えが止まらなかった。そんなのウソだ。ぜんぶケイリちゃんのアイディアだ。相場くんは、それを自分の手柄にしている。
「なあ——」
わたしが教室に飛び込む算段をしていたら、一人の男子が声を低くした。
「ツカサって最近、貸方ケイリと仲良くしてんじゃん? あれ、どういうこと?」
「べつに仲良くなんてしてないよ」
「だけど、おれたちとの付き合い悪いし、いつも二人で喋ってるだろ。もしかして——」
別の男子が後を引き継ぐ。
「あいつのこと好きなの?」
「そ、そんなわけないだろ!」
「ははは。照れんなって」
「人をからかうのもいい加減にしろ」相場くんは声を荒げた。「知ってるか? ケイリはいつも偉そうな口を叩いているけれど、じつはクマさんのパンツを履いてるようなお子様だよ。そんなヤツを、どうしておれが——」
心臓が凍りつくかと思った。
頭が真っ白になって、相場くんのセリフを最後まで聞き取れなかった。(あんなクマさんのパンツなんて、子供っぽくて恥ずかったの。無くなってせいせいした——)どうして相場くんが、それを知っているんだ。ケイリちゃんはガードが堅いから、スカートの中を覗かれるようなミスはしない。下着の柄を知っているのは、パンツ隠しに関わった人か、あるいは——。
パンツ泥棒の犯人か。
弾かれたようにわたしは教室を離れた。転びそうになりながら階段を下りる。下駄箱までたどり着くと、もうケイリちゃんの姿はなかった。わたしはランドセルから、ケータイを取り出し、落っことしそうになりながらダイアルした。
「——もしもし?」
「あ、け、ケイリちゃん! あのね、えっとね——」
わたしの説明は要領が悪くて、きっと支離滅裂だったろう。ケイリちゃんなら数秒で伝えられる内容でも、わたしには数分かかる。だけどケイリちゃんは辛抱強く耳を傾けてくれた。そしてわたしは自分の推理を伝えることができた。六月のプール開きの日、ケイリちゃんのパンツを盗んだのは相場くんだ。もしかしたら他にも犯人がいるかも知れないけれど、相場くんが深く関わっているのは間違いない。
「その話——」ケイリちゃんの返事は冷ややかだった。「もう誰かにした?」
「してないよ!」
誰よりも先に、彼女に伝えたかった。だから、もう相場くんとは仲良くしないで——。
「それなら、その話は誰にもしないで。とくに先生たちには、絶対に秘密にしてちょうだい。大人は信用できないから」
「え……?」
「教えてくれてありがとう。だけど、もういいの。トシちゃんには関係ない。……トシちゃん、トシちゃん?」
返事ができなかった。通話を切ることも忘れて、わたしはふらふらと下駄箱に手をついた。そうしなければ、立っていられなかった。わたしは気付いてしまったのだ。
——ケイリちゃんは相場くんと付き合ってるんじゃないか?
だとすれば、みんな説明がつく。ケイリちゃんが相場くんと親しげに喋っていることも、彼にだけアドバイスをすることも。さっき相場くんは全力で否定していたけれど、あれはたぶん男子特有の照れ隠しだ。なにより恋人同士なら、下着を見られても恥ずかしくない、らしい。マンガやドラマではそういうことになっている。わたしは想像するだけで恥ずかしくてたまらないけれど……。
——どうして今まで気がつかなかったんだろう。
クラスの女子が集まれば、かならず「誰が誰を好きか」という暴露大会になる。マンガを読めば、登場人物たちはみんな恋をしている。だけどそれでも、「恋愛」はもう少しお姉さんになってからするものだと、わたしは思っていた。「恋愛」という名前のモフモフした動物を、檻の外からきゃあきゃあ騒いで眺めている——それがわたしたちだった。そしてケイリちゃんは、そういう軽薄さとは縁遠い人だった。
だけどケイリちゃんはあんなに大人びているんだもの。男の子と——その——コイビト同士になる可能性だって、充分にあるじゃないか!
その日どうやって家に帰ったのか、わたしは覚えていない。裏切られたような気持ちで胸がいっぱいだった。ケイリちゃんは何一つ悪いことをしていないのに。



ともだち結社の書き込みによれば、相場くんは債券を発行してお金をかき集めたらしい。一人あたりの借入額は千円から五千円くらいまで。高い利息を約束して、数十人の同級生から、あわせて二十万円以上のお金を借りたようだ。
そのお金を使って、相場くんは「おやつ証券」の買い占めをはじめた。二十万円を自由にできる小学生なんていない。圧倒的な資金力を使い、相場くんはあらゆるスレッドでおやつ証券を落札していった。
なかには「空売り」をする子も現れた。いまはおやつ証券を持っていないけれど、近いうちに手に入れる。その時はタダで渡すから、いますぐお金が欲しい——。いわば、先払いでの販売契約だ。そんな書き込みにも相場くんは応え、気前よくお金を支払った。
日付は十月に入り、秋の遠足まで一週間を切った。
そして異変が起きた。



朝、わたしが教室に入ると、妙な空気が流れていた。みんな目を合わさず、じっとケータイを見つめている。ときどき親しい仲間と耳打ちしあう。ケイリちゃんは我関せずといった表情で、ほおづえをついて秋空を眺めていた。
「ど、どうしたのかな?」
 勇気をふり絞って、わたしは話しかけた。ケイリちゃんとはここ数日間、口をきいていなかった。ケイリちゃんは沈黙に耐えられる人だ。わたしから話しかけなければ、たぶん一生仲直りできないだろう。
「さあ」ケイリちゃんは肩をすくめる。「ケータイを見てごらんなさい」
返事はそっけないけれど、彼女の瞳はいたずらっぽい光で輝いていた。わたしは言われたとおり画面のロックを解除して、ともだち結社につないだ。いつもどおり、おやつ証券の取引を求めるスレッドが並んでいる——。
ううん、違う。
並んでいるのは「売り」を希望するスレッドだけだ。
「なに、これ——」
わたしは証券化こそしなかったものの、この一ヶ月間ずっと掲示板を眺めてきた。ケイリちゃんと話を合わせたかったからだ。おやつ証券の値動きについては、このクラスの誰よりも詳しい。いつもなら、「売り」と同じかそれ以上の「買い」のスレッドがあった。こんなの初めてだ。——と、誰かが「買い」のスレッドを立てた。すると瞬く間にレスが伸び、昨日の価格よりもはるかに低い値段で売買契約が結ばれた。
「ねえ、ケイリちゃん! いったい何がおきているの?」
「終わったのよ、なにもかも」
くすっと彼女は笑った。わたしにしか見えない、わずかな笑顔で。



その日の午後には、おやつ証券は文字どおり二束三文で売買されるようになった。昨日までは、三〇〇円ぶんの証券を買い集めるには七〇〇〇円以上のお金が必要だった。それが今ではコイン一枚で足りる。
相場くんは青ざめた顔のまま、給食にもほとんど手をつけていなかった。昼休みになると「空売り」をしていた子たちが彼を取り囲んだ。将来おやつ証券を渡すという約束で、相場くんからお金を支払ってもらった子たち。格安になったおやつ証券を買い集め、約束を果たしに来たのだ。相場くんの机には、紙くずになったおやつ証券の山ができた。彼はうつろな視線でそれを眺めていた。
そして翌朝、相場くんはお母さんと二人で学校に来た。
お化粧の濃いおばさんだった。この世の正義はすべて自分にあるとでも言いたげな足どりで、彼女は廊下の真ん中を闊歩した。教室のドアを開けると、突き飛ばすように息子を放り込んだ。
「このなかに、債券を持っている子はいるかしら」
ぱらぱらと手が上がる。立ち上がって喋っていた子供たちも、なぜか自分の席に戻っていく。おばさんは続けた。
「ツカサちゃんから、まずは言うことがあります。——そうですね、ツカサちゃん!」
相場くんは電流が走ったみたいに姿勢を正した。整った顔がくしゃくしゃと崩れ、彼は大きく鼻をすすり上げた。
「ご、ごめんなざい——」深々と頭を下げる。「借りたカネを返せなく——」
「違うでしょう!」
「お、お金を、お返しできなくなりましたぁっ!」
相場くんが涙を流すところなんて初めてだったから、わたしたちはぽかんと口を開けて親子の姿を見つめていた。勇気のある数人の男子が「ふざけん——」と叫びかける。おばさんからギロリと睨まれて、「——ないでください……」と口を濁した。
「債券をお持ちの子は、あとで私のところまで来てください。ツカサちゃんに代わって、私からお金をお返しいたします。今回は愚息が大変ご迷惑をおかけしました」
おばさんも深々と頭を下げた。
そして顔を上げたときには、般若の形相になっていた。
「それと、貸方さんというのはどなたかしら。貸方ケイリさんは」
「あ、あたしです、けど……」
恐る恐る、ケイリちゃんは手をあげた。おばさんはつかつかと教室を横切ると、ケイリちゃんの前に仁王立ちした。右手を何度か握りしめるのが見えた。きっと、平手で殴るのをがまんしたのだ。
「あなたね、うちのツカサちゃんをハメたのは——」
「な、なんの……」ケイリちゃんは身を縮める。「なんのことですか。あたし、ぜんぜん分かりません」
肉食獣に襲われた小動物みたいな目で、おばさんを見上げた。
「ごまかさないでちょうだい!」朝の教室につばが飛ぶ。「ツカサちゃんからぜんぶ聞きました。うちの子をそそのかしたのはあなたでしょう。いったいどこで悪知恵をつけたのか知りませんけれど、『おやつ証券』を発行させて、それを現金で売買させて、証券の分割までさせて——。あげくに債券の発行まで吹き込んだ。なんてずる賢い子なのっ!」
「ひゃ」と小さな悲鳴をあげて、ケイリちゃんは両手で顔をおおった。「ひ、ひどいです……。あたし、ぜんぜん関係ないのに……。たしかに『おやつ証券』を思いついたのは、あたしです。だけど、それだけです。現金の売買も、債券の発行も、あたしは知りません。証券の分割って、いったい何のことですか……」
ぐすん……とケイリちゃんは嗚咽を漏らす——ふりをした。わたしはあごがのどに届くぐらいあんぐりと口を開けた。ケイリちゃんの嘘泣きは迫真の演技で、おばさんをたじろがせるには充分すぎる威力だった。
「そ、そうは言ってもうちのツカサちゃんが、あなたに騙されたって——」
「……証拠は?」顔をおおったままケイリちゃんは言う。「証拠はあるんですか? 証拠もないのに、あたしを犯人だと決めつけるんですか?」
そして真っ赤な目で、おばさんを見上げた。
「うそだと思ったら、ともだち結社を見てください! あたしはたまに眺めるぐらいでしたけど……。でも、師くんが『おやつ証券』の売買を取り仕切っていたのは、分かるはずです。そういう書き込みを、あたしも見かけました」
お願いです……。力なく言って、ケイリちゃんは再び顔をおおった。どう見てもおばさんが悪役で、無垢なケイリちゃんを責めているという図式だ。相場くんは教室のすみっこで目を白黒させていた。女子の誰かが「マザコンってカッコ悪ぅい」と耳打ちしている。
「おはようございますう」一切の空気を読まずに、こころ先生は明るい声で教室に入ってきた。「……って、あ、あいばさん! どうなさったんですかぁ?」
きょろきょろと教え子の様子をうかがう。
「みなさん、なにがあったんですかあ」
こころ先生まで泣き出しそうだった。



学校帰り、わたしたちはショッピングモールの文房具屋さんにいた。ラインマーカーの試し書きをしながら、わたしは訊いた。
「それじゃ、ケイリちゃんは最初からこうなることが分かっていたの?」
「そうよ。だって、ほんとうなら一円の価値もない紙切れだもの」背後からケイリちゃんが答える。「みんないつか必ず気がつくわ、遠足が終われば何の意味もなくなっちゃう、って。その瞬間におやつ証券の価値は暴落する。いつ爆発するかわからない時限爆弾みたいなものね」
彼女は定規やコンパスの並んだ棚を物色していた。
「むしろ不安だったのは、きちんと価格が高騰してくれるかどうか、だったわ。実際にはあたしの予想を超えた速さで上昇してくれたけど。それこそ『暴騰』といえる速さで」
「初めから、相場くんを破産させるのが目的で——?」
「そう。だって許せないじゃない、あたしの下着を盗んだうえに、みんなの前で恥ずかしい思いまでさせて。しかも正義漢ぶって『やめろよ』でしょう? 同じぐらい恥ずかしい気持ちを味合わせなくちゃ、気が済まなかった」
相場くんが同級生から人気を集めていたのは、彼が大人からも一目置かれていたからだ。お母さんに守られるところを見られた以上、相場くんの信用はガタ落ちした。
「パンツを盗んだ犯人に気づいてたんだね」
「四年生のころから、あの人は怪しかったの。ときどき帽子やタオルをわざと忘れて、体育の時間中に教室に戻っていたのよ。そして、あたしの下着が無くなったあの日も、ね」
「わたしは蜂埜さんが犯人だと思ってた。あの子はケイリちゃんを嫌っていたし……」
「あの子の態度は、はしかみたいなものね。子供っぽい女の子がみんなかかる病気だわ。放っておけば、じきに良くなるでしょう。ちなみに蜂埜さんはあの日、誰よりもプールではしゃいでいたわよ。教室に戻るタイミングなんてなかった——。ごめんね、あの時トシちゃんにも教えてあげればよかった」
そうだ。ケイリちゃんは秘密が多すぎる。おかげでこちらは勘違いして、やきもきして、おまけに傷ついたんだ。
「わたしを巻き込みたくないって言ったのは……」
「もしもトシちゃんがおやつ証券に手を出したら、あたしは止める自信がなかった。証券の売買なんて一種のギャンブルだから、楽しさに気づいたらやめられなくなる。価格高騰と大暴落にトシちゃんを巻き込みたくなかったの。だって大切な——」
商品に目を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。まるで自分に言い聞かせるみたいに。
「——大切な、話相手だから」
「……ケイリちゃん?」
「あ、これすごい!」出しぬけにケイリちゃんは明るい声を出した。「ね、トシちゃん。これ、すごくない?いったい何に使う道具なのかしら」
その商品を頭上にかかげてみせる。新しいおもちゃを見つけた子供の顔で、ケイリちゃんはきらきらと目を輝かせている。
「知らないの?」
「初めて見たわ」
わたしは、なんだかホッとした。ケイリちゃんも普通の女の子じゃないか。知らないことがたくさんある、わたしの同級生なんだ。
「これは大昔からある道具でね——」
「どれぐらい昔?」
「そ、それは分からないけど——。とにかく古い道具で、お金の計算に使うらしいよ」
「お金の、計算——!」
「興味あるの?」
もちろん、と彼女はうなずく。
「あたし、お金が大好きなの」
——スチャ。
ケイリちゃんは天使のような笑顔を浮かべ、そろばんを握った。