デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

『ギムレットには早すぎて(3)』

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初:「ギムレットには早すぎて(1)」
前:「ギムレットには早すぎて(2)」
次:「ギムレットには早すぎて(4)」


【3】



「いつになったら、息子を返していただけるんですか」
彼女の頬はげっそりと痩けていたが、口ぶりはしっかりしていた。嵐のあと――、忠政はそんな言葉を思い浮かべる。雨と風は過ぎ去ったが、傷跡が痛々しく残る街。そんな場所は、きっと妙な静けさに包まれている。乃渡俊一の遺体はまだ検死官の手を放れていない。
「もうすぐ帰ってきますよ」
大男が言葉を和らげる。彼は乃渡の家族担当として、昨日からずっと彼女からの事情聴取をしていた。
立川北口の高級マンションの一室だ。しがない公務員の家とは天井の高さが違う。まず部屋の広さに驚いて、それからチリ一つ落ちていないことに絶句した。乃渡俊一の母・成美は、疲れ果てた顔にしっかりと化粧を施していた。
「息子については、昨日お話しした通りです。手のかからない子でした」
力無く成美はつぶやく。大男はしきりに「わかります」とうなずいている。
本来、ここに忠政が立っているべきではない。割りあてられた捜査対象を変えることは、普通ならできない相談だ。だが昨夜、忠政は「普通」という言葉を知らない男に電話をかけた。初動捜査のときには倦厭(けんえん)してしまったが、やはり被害者の親からも話を聞きたい。そう申し上げると、諏訪刑事課長殿は豪快に笑って特例を許したもうた。
(ただし、午前中だけだぜ)煙草に枯れた声は釘を刺した。(あんまり長いと、うるさく言うやつが出てくる。それはお互いのためにならねえ)



忠政は背中で手を組み、ことの成り行きを見守っていた。成美とテーブルを挟んで、大男と立川署の若手との二人が座っている。捜査は二人ひと組で行うのが原則だ。原則破りの忠政は、所在なく彼らの背後につっ立っていた。
磨き込まれたダイニングキッチンの床には、天井が映り込んでいる。台所に目をやれば、食洗機が一台と、整列した調味料の数々。台所とは本来こうあるべき、という姿だ。ステンレスのシンクにはコンビニ弁当のプラスチック皿が重なっていた。昨夜の晩飯だったのだろう。半分以上、食べ残されている。
「こんなことをお訊きするのは大変心苦しいのですが……、俊一くんのお財布に、いくらぐらいお金が入っていたか、ご存じですか」
成美はゆるゆると首を振る。
「俊一はもう高校生でしたし、逐一管理するようなことはしていませんでした」
そりゃそうだ、と忠政も思う。佳奈の財布にいくら入っているかなんて気になっても聞けない。勝手に財布を覗いた日には、きっと晩飯抜きにされて三日は口を聞いてもらえない。
「お財布には、四百円が残されていました」
どう思われますか、と大男は促す。隣の若手くんは真剣な表情でメモを取っている。
「――少ない、ですね」
眼を泳がせて、成美はつぶやく。なぜそんなことを訊くの? と顔に書いてあるが、警察官三人が無反応なことにうなだれて、ぼそぼそと言葉を続けた。
「お小遣いは充分な額を渡していましたし、いつでも一万円以上財布に入れておけ、と言いつけていました」
それだけのお金があれば、いざという時なんとかなる。成美はそう教え込んでいた。乃渡俊一がアルバイトをしていなかったことは、すでに判っている。これも成美の言いつけだったらしい。
「夜遅くなると心配ですし、俊一はまだ高校生です。働くよりも大切なことがあります」
ただし、T高校の校則はアルバイトを禁止していなかった。
「ですから、お金に困らないよう、多めに与えていたんです」成美は金額を口にする。「それだけあれば、お友達の前で恥をかかずに済みますから。甘やかしていると思われるかもしれません。けれど、お金の使い道を間違えるような子ではありませんでした」
余った小遣いはすべて郵便局に預ける。息子はそう言って、成美を安心させていた。
「じつはですね、申し上げにくいのですが、俊一くんの口座残高についても調べさせていただきました。その結果――」
大男は、四桁の数字を口にした。成美は眼を見張る。
「そんなはずありません。高校生にはどうやったって使い切れない額を渡していたんですから。もっと、たくさん、残って――」
そこまで性急に喋って、彼女は口を閉じた。肩を落とし、溜め息をつく。
財布に残っていた額は四百円ぽっきり。母親の言いつけを守っていたとして、その一万円はどこに消えたのだろう。犯人が持ち去ったのか、それとも元々持ち合わせていなかったのか――。子供が金を失った場合、真っ先に疑うべきはイジメだ。悪友にかつあげされていた可能性を、第一に考えねばならない。しかし昨日の高校生たちの話では、俊一がそんなみじめな男だったとは思えない。
「息子は、何に、使っていたんでしょう……」
大男は首を振り、国家権力の無能さを詫びた。
「ところで、そういったお小遣いのことは旦那様もご存じでしたか」
俊一の父親はここにいない。通夜も葬式もまだ出せないと知って、いそいそと会社に出かけたらしい。逃げたな、と忠政は思う。だらしのねえ男だ――と心のなかでつぶやいて、彼の職場へ向かった捜査員の顔を思い浮かべた。きっちり話を聞いてこい。父親らしからぬ根性が治っちまうぐらい、きっちりとだ。
「ええ。お金のことは、あの人と二人で決めています」
金持ちってのはいいものだ。給料明細を見せて、目くじらを立てられることもない。かつての妻の表情が頭をよぎり、嫌な気持ちになった。
「小学生のときの事件も、息子のお小遣いを増やした理由のひとつなんです。もう二度とあんなことをしないように、お金をきちんと渡そうって、旦那が言いましたので」
小学生のころの事件。このマンションへの道すがら、大男からだいたいのことは聞いている。おもちゃ屋でゲームソフトの万引き――、よくある話だ。彼と一緒になって盗みを働いた友人と同じく、俊一は初犯ではなかった。息子を警察署に迎えに行った経験が乃渡夫婦を愚かにした。
「わんぱくだったんですね」
成美は薄く笑う。
「小さい頃は本当に手を焼きました。あの子はお姉ちゃんっ子で、いつも姉にべったりと甘えていて。私の話なんかちっとも聞かないで」
だが五歳離れた姉は、俊一が中学一年生のときに旅立ってしまう。
「皮肉な話ですけど、その頃からなんです、俊一がしっかりし始めたのは。娘を失って途方に暮れる両親が目の前にいたから、いつまでも子供じゃいけないと、考えたのかもしれません。あの子には変な心配をさせて、本当に可哀想でした」
おまけに父親はつい一年前まで浮気をしていた。自分がしっかりしなければ両親は駄目になる。そう考えたのかもしれない。忠政の頭に、五歳の佳奈の姿が浮かぶ。
「駄目ですね、本当。いまでも娘の部屋は、そのままにしてあるんですよ。娘はまだ、十八歳で、楽しいことも幸せなことも、まさにこれからという年頃で――、俊一もそうです。どうして私たちの子供はいなくなってしまうの――」
成美の語尾が震えていた。
「神様って残酷です――。だってそうでしょう、私たちはただ、子供たちが幸せになることだけを願ってきたのに。そのために頑張ってきたのに。人から後ろ指をさされることなく、日の当たる場所を歩んでいって欲しかっただけなのに。……なのに二人とも、私たちの手元から奪われたんです。俊一は本当に真面目で、成績も良くて、女の子からも人気がある、自慢の息子だったんです。だのに、それなのに――!」
最後は言葉にならなかった。堪えていたものを吐き出すように、成美は嗚咽をあげた。上品な主婦が出すには汚すぎるうめき声をあげて、成美は顔を覆う。忠政は頭を押さえた。これだから被害者の親には会いたくなかった。もし佳奈が殺されたら――、そんな想像はしたくもないが、きっと忠政は前後不覚に酔っぱらい、犯人を車で引きずり回したあげく八つ裂きにして、粉みじんになるまで叩き潰すだろう。たぶん、それでも収まらない。
成美をなだめるのは大男に任せて、忠政は家のなかを探索することにした。ひとりの警察官として見ておきたかったのだ、俊一と、彼の姉の部屋を。
「ただ、見るだけです。手を付けたりはしません」頭を下げると、報われない母親は消え入るような声で「どうぞ」と答えた。
俊一の部屋は六畳の洋室だった。
彼が几帳面だったのか、それとも母親の手が入っていたのか、こざっぱりと整理されている。板張りの床に、薄いブルーのカーテン。私服高校の生徒だからだろう、クローゼットは大きい。そしてベッドの隅にはテニス用のスポーツバッグ。机にはノートパソコンが開かれている。電源をつけて中身を確かめたかったが、「手を付けない」という約束を守ることにした。ここは大男のなわばりだ。
ベッドのシーツは、枕のあたりがめくれ上がっている。クローゼットの扉は、使い込まれた取っ手が艶やかな光を放っている。本棚には『必勝英単語』『完全制覇微分積分』といった背表紙が並ぶ。読みさしのマンガ雑誌が、椅子のうえに置かれていた。それら一つひとつが、ほんの三十時間前まで部屋の主がこの世にいたことを告げている。
成美が、泣くわけだ。
ベッドサイドのカレンダーを見て、忠政はそう思った。彼が命を絶たれた日付には〈マヤさんと会う〉と書かれている。T高校で話を聞いた金子の、愛らしい丸顔を思い出す。これ以上に叶わぬ恋があるだろうか。
廊下の向かい側には姉の使っていた、そして今では仏壇代わりの部屋がある。
ドアを開けたとたん、ふわりと甘い匂いがした。鼻をひくつかせても匂いの源は判らない。部屋を掃除するたびに、香水のようなものを吹き付けているのかもしれない。アルファベット順に並んだ調味料の瓶を思い出す。あの母親ならばやりかねない。ほのかに香るローズの匂い。
俊一の部屋と同じ板張りだが、こちらのほうがやや広い。どの家具を見ても、趣味のいい人物の部屋だったのだとわかる。毛足の長いカーペットは白と黒の幾何学模様。部屋全体がモノトーンで統一されている。大きな窓のおかげで、電気をつけていなくてもずいぶんと明るい。壁ぎわに電子ピアノが置かれていた。壁にはコルクボードが貼られ、何枚かの写真がピンで留めてある。〈ジャズ部のみんなと〉写真の真ん中の少女は、どこか俊一に似た、切れのいい笑顔を見せている。
やわらかなローズが、線香の匂いに思えた。
ベッドのそばにはコンポが置かれている。忠政は音楽にうとい。しかし、スピーカーとプレイヤーが別々になっているのを見るかぎり、わりと本格的なものなのだろう。スピーカーの下には厚さ五センチメートルほどの御影石が敷かれている。プレイヤーは小さなCDラックの上だ。プレイヤーにはCDケースが一つ、立てかけられている。
約束を破り、忠政はそれを手に取った。死者が最後に聞いた曲。
タイトルは『The Special Jazz Session』
裏のプレイリストを見ると、一番上に〈Misty〉と書かれている。
忠政はかすかに息を飲んだ。見覚えのあるタイトルだったからだ。ジャズなんて年に一回聴くかどうかわからないほど、忠政には縁遠い。だが一度だけジャズバーという場所に行ったことがある。仕事後に、倉島に誘われたのだ。彼は四十路を過ぎた今も独身だ。誰もいない家へと帰る男の気持ちを考えると、断れなかった。
デパートの建ち並ぶ立川北口で、肩身狭そうに看板を掲げる店だった。
防音の行き届いた地下一階。店に入った瞬間、忠政は後悔したのを覚えている。ちょうど演奏中だったのは、AだかBだかの列車がどうしたというタイトルの、ノリのいい曲だった。客たちが揃って手拍子を打ち、まともに注文もできなかった。
だが二曲目、中年女性のヴォーカルが日本人のくせして気取った英語で「次の曲はこれよ」と言った。それが〈Misty〉――。前奏のピアノだけで店内がしんとなった。
倉島は目を細めて、曲に聴き入る。
忠政は飲まれた。
穏やかで、包み込まれるような旋律。それでいて、追いかければ逃げていきそうな儚さをはらんでいて――、素人ながらに、ぴったりなタイトルをつけたものだと思った。
脳みその普段使わない部分をフル稼働させて歌詞を聴き取ったのに、もうほとんど忘れてしまった。けれど最後のワンフレーズだけが、妙に記憶に残っている。思い出すと、そこだけメロディが流れるように。
――I get misty, just holding your hand.
あの時、忠政はグラスに口をつけることも忘れて聞き惚れた。乙女の恋を歌ったはずの詞なのに、身に滲みるものがあった。
その日は結局、倉島と明け方まで飲んでしまった。倉島は珍しく深酔いし、聞かないことまで喋った。
――僕には、結婚を考えた相手もいたんですよ、おやっさん。
あれだけの魔力を使う倉島だ。その彼が独身なのは女以外の方向に興味が……、という口さがないうわさもある。からかってやろうと思ったが、倉島は目が据わっていた。相手は大学時代の後輩で、彼が三十になるまでずっと関係を続けていたらしい。いつまでも倉島が踏み切らないのに業を煮やし、見合いで結婚してしまったという。
――踏み切れませんでした、僕には。
いつ帰れるか。それどころか、いつ死ぬかも判らない仕事だ。それを考えると、どうしても相手と一緒になれなかった。
――だから僕は、おやっさんを尊敬します。僕は臆病なんだ。本当は弱虫なんだ。
そう言って彼が笑って見せたときにも、アンコールの〈Misty〉が歌われていた。



「そのCD、俊一もよく聴いていました」
背後から声をかけられて、回想から引き戻される。部屋の入り口に成美が立っていた。その背後には大男が、熊のようにのっそりと控えている。
「これ、お姉さんのCDじゃあないですか?」
忠政が聴くと、彼女はそっと笑って見せた。アイシャドウが崩れている。
姉を亡くしてからというもの、俊一はときどきこの部屋にこもり、一日中このCDを聴いていたという。そんなときは、成美がどんなに声をかけても返事をしなかった。
「本当に仲のいい姉弟だったんです」
成美の目は、どこか遠い彼方を見ている。



     ◆



立川署の庁舎は、荒れ野の果てにぽつねんと建っている。
立川北口はいまでも盛んに再開発が進んでおり、ビル街を抜けると、だだっ広い空き地に出る。片道二車線以上の太い道が配され、レガシィのエンジンは高らかにうなりをあげる。
昼までに戻れというのが、中華料理人もどきの司令官から渡されたミッションだ。気付けば遅刻ぎりぎりだった。五〇キロ制限の道だが、メーターにはあえて目を向けない。ブレーキングドリフトを決める勢いで、立川署の駐車場にすべりこんだ。
「遅かったですねえ」
大会議室で首を伸ばしていた倉島は、爽やかに笑って見せた。こんなところでクラシマジックを使わなくてもいい。ますます申し訳ない気分になる。
「どうでした、乃渡成美」
「まったく、見ていられねえよ、子供を亡くした親なんて」
思ったとおりのことを口にすると、倉島は少し逡巡してから、「おやっさんがそう言うのなら、成美はシロですかねぇ」とつぶやいた。平然とした顔で、なんつうことを言いやがる。忠政は改めて、この冷静な優男を怖いと思った。
「それで、お前さんのほうは何してたんだ」
忠政がわがままを言ったおかげで、暇を持て余していたはずだ。
ピンクサロンに行って来ました」
「朝っぱらから元気だな」
変な冗談はよしてください、倉島は苦笑いする。
「刑事課長から直々の指示ですよ。ほら、捜査会議のときに言っていたでしょう」
第一発見者からの事情聴取も含めて、現場検証を続行する。
「だけど仕事を抜けられないと言うので、こちらから出向いたんですよ。『プリンセスナイト』のそばの交番勤務を捕まえて、二人で朝からいそいそと」
女に囲まれるために生まれてきたようなこの男にして「驚くような格好」と言わしめるほどの薄着で、死体の第一発見者・相川美知子は働いていた。相変わらず、不機嫌な様子を隠そうともしなかったという。
「で、収穫は?」
いつもの肩すくめを見せられるかと思いきや、倉島はスーツの内ポケットに手を入れた。
「――こりゃ、お前も相変わらずだな」
倉島が取り出したのは、色とりどりのカードだ。表にはプリンセスナイトの所在地と利用料金、そして裏面には丸っこい女文字でメッセージがある。
〈素敵なけーじさんへ。また来てくださいね♪ こんどはお客さんとして! マナ〉
こんな調子の文章が、どのカードにも書いてあった。
「現役の警官を相手に、どんな神経してやがる」
ピンクサロン風営法的にアウトだ。
「僕が生活課じゃないと知ったら、次々に押しつけられました。どの店も必死ですよ、この街は」性風俗の激戦区だ。「こういう媚びた名刺を客に渡して、リピーターを捕まえようって了見らしいです。これだけの枚数が揃うと、なにか他の使い道を考えてしまいますね」
ポーカーでもどうですか、すっとぼけた表情で倉島は言う。
「ババ抜きなら付き合うぜ」
太股に振動を感じたのは、その時だ。忠政はスラックスに手を突っ込み、携帯電話を取り出した。捜査中には、突然の電話なんてありふれたこと。何も考えずに液晶を見て、少しためらった。
佳奈の高校からだった。



     ◆



三〇分後、忠政は廊下に立っていた。
ハッとするほど短いスカートをはいた女子高生が通りがかり、くすんだ中年男の顔をいぶかしそうに見ながら廊下の向こうに消えていく。自由がモットーの都立高校は、制服と私服の入り交じるカオスの世界だ。部屋の場所が判らず、教員とおぼしき女に声をかけた。彼女は佳奈より年下だった。
倉島には申し訳ないし、諏訪のやつは嫌味のひとつでもよこすだろう。けれど忠政はすべてを投げうってレガシィのアクセルを踏んだ。ちょっとやそっとのことでは有給を使わない忠政だ。が、あんなことを言われては、放っておけなかった。
(――娘さん、学校に持ってきていたんですよ、コンドームを)
山下と名乗る女教師は硬い声でそう言った。
(一度、学校へお越し下さい。いつでも構いませんので)
忠政は「今すぐ参ります」と叫んでいた。電話を切った後もしばらくは言葉が出なかった。(先輩のいじわる――)甘ったるい佳奈の声が頭のなかをこだました。「大丈夫ですか」と顔を覗き込んでくる倉島に対して、「ちょっと娘が学校に行ってくる」と意味不明な日本語を口走っていた。
廊下の向こうから、ひょろりと背の高い女が歩いてくる。三十か四十の化粧気のない人物。その後ろにはボーイッシュな格好の少女がいる。顔をうつむけた佳奈だ。これがテレビドラマなら、娘に歩み寄り「バカやろう」と張り倒すところだ。実際、そうしたほうがいいのかもしれない。くだらない葛藤を胸の中で繰り返しているうちに、山下に先手を打たれてしまった。
「お忙しいところ申し訳ありません。けれど娘さんのことですので」
親なら当然よね、とでも言いたげに山下は片眉を上げる。いいえこちらこそ大変申し訳ありません。忠政は平身低頭、こうべを垂れる。
「それで、一体全体どういうことか、さっぱり――」
廊下で話すような内容ではありませんと、山下に言い放たれた。忠政は「すいません」と口ごもり、娘に目を向ける。佳奈は軽く頬を膨らませ、そっぽを向いていた。佳奈がこの学校を選んだのは、制服を着るのが嫌だったからだ。今日の服装は丈の短いズボン――忠政が「短パン」と呼んだら「バルーン・パンツっていうの!」と叱られたやつだ――を履き、細いふくらはぎは黒光りする靴下で膝上まで包まれている。太もものいちばん柔らかそうな部分だけ、大胆に露出していた。よりにもよって、そんな格好を。忠政はいっそう気が重くなる。
通された部屋には「生徒指導室」というプレートが掲げられていた。
「申し遅れました、わたくし山下智美と申します。この学校では英語を担当しておりますが――、それともうひとつ、風紀委員というものがございまして」
学校内の風紀をチェックする委員会活動。古めかしい名前だ、涙が出るほど懐かしい。学生時代の忠政はいつも風紀委員から眼をつけられていた。
「もちろん、わたくしたちの学校におきましても、委員会活動は基本的に生徒主導のもとに行われます。しかし、あまりに機能していない委員会に対しては、きちんと教師の指導が必要だとわたくしは考えているのです」
忠政は「はあ」と返事をする。肩透かしを食った気分だ。停学、あるいは退学……。重たい言葉が頭のなかを渦巻いていたのに、山下は演説を始めてしまった。会議机が一台だけの狭い部屋。山下と向かい合って座ると、彼女がますます化粧の薄い、色気のない女だと判った。忠政の傍らには、佳奈がじっと立たされている。
「それで、ですね」もったいつけた手つきで、紙袋を机のうえに置く。「わたくしは風紀委員の顧問教員として、校内の様子に眼を配っているのです。時には各部室の使用状況を、抜き打ちで検査することもあります」
本来でしたら昇降口のロッカーも一つひとつ検査するべきなのですが。山下は顔をしかめる。そんなことをしたらイマドキの親は黙っちゃいないだろう。学校に押しかけて、生徒のプライバシーを主張するはずだ。
「お話が脇にそれました。とりあえず、これを見ていただけますか」
机の上の紙袋を山下は指でつついた。雑巾を触るかのような手つき。
忠政はうす茶色の紙袋を受け取ると、祈るような気持ちで覗き込んだ。ペンケースより一回り小さな厚紙の箱が入っていた。こぎれいなパッケージ。開封されていることを確認して、忠政は天を仰ぎたくなった。
「ごらんの通りです。娘さんは、この学校内で、それを使ったんです。父親としてどう思われますか」
渋い顔をしていると自分でも判る。忠政は完全に狼狽していた。なんとか声をひねり出す。
「これ、どこで見つかったんでしょう」
山下が言うには、弓道部の部室だそうだ。佳奈の所属する部活は、弓と矢はもちろんのこと、道着や教本などさまざまな個人所有物が必要になる。それらを入れておくロッカーが部室に設けられているという。
「八木さんのロッカーを開けたところ、それが出てきたんです」
小箱は開封済みで、九個の中身が残されていた。三個足りない。
「正直に申しあげまして、これを見つけたのがわたくしで良かったと思っています。間違ったことをしている生徒を学校から追い出すだけでは、教育者として失格です。出来ることなら、わたくしとしても校長や学年主任にはこの件は伏せておきたいのです」
しかしそれも娘さんの反省次第ですね。山下はそこまで一息に喋り、腕組みして父娘を眺めた。返す言葉もない。佳奈はさっきからだんまりを決め込んでいる。へそのあたりで指を組んで、小さなくちびるをきゅっと結んだままだ。
「十七歳――。いいですか、あなたの娘さんはまだ十七歳なんですよ。それが、こんな、はしたない行動を、こともあろうに学校内でしている。高校というのは、そんなことまで指導する責任は持ちきれません。もちろん、わたくしたちも娘さんのために最大限の努力はいたします。ですが、まずはご家庭でゆっくり話し合ってください」
二人揃って、一方的に叱られてばかりだ。
「まったく、いやらしい」
吐き捨てるように言って、山下は佳奈のほうに視線を移した。やわらかな脚線と、露わな太股に目がとまり、生ゴミでも見るかのように顔をしかめる。
忠政のなかで、なにかがプチンと音を立てた。
――そんな目で見るな。
うなだれて下を向いていた忠政だが、眼だけを動かして山下を見据えた。この荒くれた父親の豹変に、彼女はまだ気がつかない。忠政は紙袋から手を離した。机のうえに肘を載せ、口元を隠すように指を組む。
「センセ、ちょっとお尋ねしたいんですけどね」
「なんですか」
山下は片眉をあげた。彼女の癖なのだろう。見苦しい。
「さっきから聞いていると、センセ、あなたは何を注意しようとなさっているのか判らない。コンドームが出てきたことなのか、それとも、それを使って何かしたことなのか」
山下は佳奈を見やり、眉間に皺を寄せる。
――俺の佳奈を。
言葉を選んでいたのだろう。忠政に顔を向けるまで、わずかに時間がかかった。
「今ではハイティーンに対して、充分な性教育を行うようになっています。学校によってはコンドームを持ち歩くようにと指導するところもあるそうです。もっとも、わたくしはそういうやり方に疑問を感じずにいられませんけれど――。しかし、そういった教育も、もとを辿れば生徒たちの自衛のためです。そういった行為をしなければ、頭を悩まさずとも済むことです」
「ですからあたしはね、センセ、そういった行為とは、なにを指しているのかお訊きしているんですよ」
山下は目を見開いた。呆れた、という表情を隠そうともせず、息を吐く。
「性行為です。あなたの娘さんが、学校内でしていたことですよ」
組んでいた指をほどき、それを机のうえに置いた。
「証拠を出せと言ってんですよ」思ったよりも力がこもって、バンッと大きな音がした。「あんたがさっきから喋っていることはね、何一つ証拠のない妄想でしょう。コンドームが出てきた? 開封済みだった? そういうもんに興味を持って当然の年頃じゃないですか。ものの試しに買ってみて、使うアテもないけれど、とりあえず中身を確かめてみた。それだけのことかもしれない。そういうことは考えなかったんですか。それとも、なんだセンセ、佳奈の自白も目撃者の供述もなしに、年端もいかない娘を淫乱とでも呼ぶおつもりですか」
山下は絶句した。思った通りだ、忠政は内心ほっとする。
きっと佳奈は、何を訊かれても黙して語らなかったのだろう。女教師は困り果てたすえに、父親を呼び出すという妙案を思いついたのだ。
「あたしらは毎日、毎日かかとをすり減らして、証拠探しにかけずり回ってるんだ。でないと悪人を取り逃がすことになりますからねぇ」
諭すような口調で、忠政は言う。
「だからセンセ、そういうところをきちんとしてもらわないと困るんですよ。場合によっては、相談すべきとこに駆け込んでもいいんだ」
この一言は効いた。
山下は腰を浮かせて何か言おうと口を開き、結局声も出せずに座り込んでしまった。金魚みたいにくちをぱくぱくさせる英語教師を見て、もう言うべきことはないと思った。
「やらしいとまで言われてショックでしょうし、今日は佳奈を早退させます。それじゃ、担任の先生への連絡をお願いしますね」
行くぞ、と声をかけようとして、忠政は息を飲んだ。相変わらず佳奈は口をへの字に結んでいる。その頬を水滴が落ちていく。
佳奈は泣いていた。



レガシィに乗りこんで、エンジンをかける。
娘はお人形さんのように大人しくなって、助手席に収まっている。駐車場までの道すがら、交わす言葉は少なかった。行くぞ、こっちだ、乗れ。佳奈は目を伏せたまま、忠政につき従った。    
「どうして学校に、あんなもん置いてたんだ」
走り出した車の中で、忠政はつぶやく。佳奈は窓ガラスにこめかみをくっつけて、じっと外を見つめている。流れ去る歩道。返事はない。涙は止まっている。
「……先生に見つかったら、こうなることぐらい判っていただろ」
山下が一本抜けてるやつで助かった。コンドームぐらいで騒ぐなんて、今どきの教員としては変人のたぐいだろう。しかし、教師だってピンキリで、中には忠政よりも抜け目ない人物もいるはずだ。もしも山下がそういう教師だったら、佳奈を救出するのにもう少し手間がかかった。
「だって」佳奈は窓ガラスに向かって囁く。「父さんに見つけられたら、ぶん殴られると思ったから」
だから学校のほうが安心だと考えた。バカが――と言いそうになり、忠政は慌てて口をつぐむ。
ウィンドウに細かい水の粒がぶつかる。空には相変わらず灰色の雲がたれ込めている。会話はなく、エンジンのうなりだけがかすかに響いている。踏切を越えて、昭島市から立川に戻る。かつて米軍の使っていた広い道。レガシィは速度を上げていく。
息苦しくて、ラジオでもつけようと手を伸ばした。忠政の指がボタンを押す直前、佳奈が何かを言った。
「父さん――」
流れてきた洋楽に、語尾はかき消されてしまう。蚊の鳴くような声はエレキベースの音に歪められ、形を失う。
その声は、「ありがとう」と聞こえた。



自宅まであと二キロほどとなった。赤信号にレガシィが止められる。助手席の佳奈はまるで目を開けたまま眠っているみたいに、一言も発さなかった。
子供はいつか親の手を離れていく。その当たり前の事実を、今日の一件で突きつけられた気がした。だけど子供は巣立ちの方法が分からないから、いろんな羽ばたきかたを試している。親の目からすれば、愚かしく見えることだって少なくない。こっそりと酒や煙草を試してみたり、あるいは学校に避妊具を持っていってみたり。失敗を繰り返して、娘は女になっていく。
乃渡俊一はその途中で殺された。夜遅くまで出歩いた結果、うらさびしい公園に横たわることになった。解らないのは、やはり財布が残されていたことだ。金目当ての行きずりの犯行だとしても、あるいは、そう見せかけただけだとしても、財布を死体のそばに残していくだろうか。もし自分が犯人であれば、一刻も早く死体から離れたいはずだ。財布だけを手にして、現場から離れる。財布の中身を改めるのは、それからでも遅くない。
そして、生前の彼について話を聞くと、誰もが「褒め」る。教師も、同級生も、ライバルでさえも、乃渡俊一には一目置いていた。どれだけ調べても、彼に関わる悪いうわさが出てこない。三十年この仕事を続けてきた忠政からすれば、これは異常な事態だ。どんな人間だろうと、まったくの青天白日の下に生きていくことなんてできやしない。十七にもなれば、生臭い人間関係のひとつぐらいできているものだ。しかし母親の話を信じるなら、彼には恋人の一人もいなかった。乃渡俊一の優等生ぶりはあまりにも不自然だ。
成美は泣き叫んでいた。二人の子供を続けざまに亡くした女は、まるで幽霊みたいな目をしていた。彼女が息子に注ぎ込んでいたのは、高額の小遣いだけではない。全身全霊をかけて俊一を見守っていた。掃除の行き届いた子供部屋。しかし彼が死んだことで、嘘が一つ明らかになった。俊一の郵便貯金口座には四桁しか残っていなかった。
行きずりの殺しだとすれば様子がおかしい。しかし、人間関係のもつれから生じた事件だとすれば、死体を物色した理由はなんだ。
信号が青に変わる。
「――あ」
脳みその血管が急激に開いた。全身の感覚が遠のく。ハンドルとアクセルに集中していた意識が、忠政の脳細胞へと戻ってくる。この二日間で、聞いたすべての話。出会ったすべての人物。それらが頭のなかでフラッシュバックする。説明できる、もしこれが正しいなら、すべてが説明できる。
後続車のクラクション。忠政はハザードを出して、レガシィを路肩に停めた。その間も、頭では全く別のことを考えていた。
様子がおかしいことに気付いて、佳奈が顔を上げる。
「どうしたの?」
「……降りろ」
「え?」
「いいから、早く降りろ。俺は仕事がある」
ちょっと待ってよ、と佳奈はくちびるをとがらせた。
「お家まで、まだずいぶんあるじゃん」
歩いていけ、忠政は言い放つ。目元に腫れの残る娘は、なにかぶつぶつと言っていた。そんな彼女を車から放りだして、忠政は慌ただしく手足を動かす。タイヤが悲鳴をあげ、レガシィは一八〇度ターンを決めた。パワーウィンドウを開け、歩道に呆然とたたずむ娘に叫ぶ。
「すまんな、勘弁してくれ」
今度うまいものでも食いに行こう、そう言い置いて、アクセルを全開にする。イヤホンを引っ張り出して、携帯電話に繋いだ。耳の穴につっこみ、リダイアルをかける。相手はすぐに出た。後方へと街並みが走り去っていく。
「今から仕事に戻る、振り回して申し訳ない」
倉島は笑った。
「大丈夫ですよ、事件は逃げませんから、のんびりお待ちしています」
「そうも言ってられねえよ。諏訪の大臣はおおらかに構えていたが、証拠品なんざすぐに処分されちまう。やっぱりな、スピードが勝負なんだ、こういうのは」
テニスシューズの足跡、現場に残された唯一の証拠。
「たしかに、めぼしい指紋も出ていませんしね。正直なところ、雲行きは怪しいと思っています」
チェスで言えばクイーンへと成り上がったポーンに毎順追いかけ回されているような気分だ――と倉島はつぶいた。逃げ回るのが精一杯で、何一つ打開策が浮かばない。ステイルメイトの危険もある。忠政はにやつく。
「そこで、だ。――大事な大事な次の一手に、王手飛車取りの大逆転を思いついたぜ。どうだ、聞きてえか?」
「……もちろん、お願いします」
忠政は自分の考えを口にした。あんぐりと口を開けた倉島の顔が思い浮かぶようで、思わずアクセルを踏み込んでしまう。数秒の沈黙をはさんで、相手はため息を漏らした。
「なんだか僕ら、バカを見た気分ですね」
「その通り、俺たちの大ポカさ。犯人は俺たち二人の前にしっかりと顔を見せていた」
いずれにせよ諏訪に報告せねばならない。「俺は一度署に戻る」と告げた。倉島には言わずとも伝わっているだろう。しかし、叫ばずにはいられなかった。
「先に捜査を始めていてくれ」
窓の向こうに、駅前の雑居ビル街が見えてくる。
「そうだ、乃渡俊一の高校だ。徹底的に調べろ!」



次回、解決編。
『ギムレットには早すぎて(4)』へ つづく。