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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

『ギムレットには早すぎて(2)』

創作
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    【2】



日没と同時に降り出した雨は、深夜になっても止む気配がなかった。
雲の上で誰かが雑巾を絞っているような、ぽたぽたと歯切れの悪い降り方だ。どうせなら、ガソリンスタンドの洗車マシンのような豪雨になりやがれ――。忠政はハンドルを握りながら一人、悪態をつく。立川と国立のあいだには一本道がなく、信号にぶつかるたびにウィンカーを出すはめになる。この時間になれば他に走る車もないけれど、忠政にはエンジンを吹かすほどの気力が残っていない。
立川高校での事情聴取を終えたあと、忠政たちは二駅ほど離れたスポーツクラブへ向かった。T高校テニス部が、部費でコートを借りているという場所だ。完全な第三者の目から見た乃渡俊一について聞きたくなった。そこで、スポーツクラブ専属のテニスコーチに会いに行ったというわけだ。
が、嫌と言うほど待たされた。
コーチはいつまで経っても二人の前に姿を現さなかった。客商売なのは分かるが、忠政は待つのが嫌いだ。娘に止められているラーク・マイルドの味が恋しくなった頃、ようやくご尊顔を拝見できた。けれど、話の内容は似たり寄ったりで収穫無し。本当にシケモクを一本吸ってしまいそうな気分だった。
おまけに捜査会議は大した進展もないくせに長引いて、この時間だ。
誰も彼も自分の無能さをアピールするような報告をしてみせた。目新しいことと言えば、乃渡の父親が一年前まで浮気をしていたことぐらい。現場に残っていた足跡の分析にも、もう少し時間がかかるという。そのくせ「乃渡俊一は中学一年生のころに姉を亡くしている」などと、始めから判っていて当然のことが、さも偉大な発見であるかのように報告される。気にいらねえ、お役所仕事は性に合わねえ。忠政の不機嫌を感じ取ったのか、諏訪は目を合わそうともしなかった。
「市民の安全を語るなら、まずは態度で示せってんだ」
八つ当たり気味につぶやき、交通整理に精を出す諏訪の姿を想像してみた。ピーポくんの着ぐるみを身につけて、ふーふーと汗をかく立四の怒髪天だ。
静まりかえった駐車場にレガシィを滑り込ませる。
マンションの廊下の蛍光灯が、ぼんやりと滲んでいた。明かりのある部屋は、すでに数えるほどしか残っていない。エンジンを止めて外に出る。佳奈に渡された傘を広げてみたが、微粒子となった雨には無力だった。頬がひんやりと湿る。



忠政を出迎えたのは、愛する娘の笑顔でも、暖かな夕食の芳香でも無かった。
「えー、そんなことないよお」
鼻にかかったような、どこか甘さを感じさせる笑い声。
忠政は知っている、電話の相手は男だ。佳奈は近ごろ同じ高校の一つ年上と、とみに良好な関係らしい。薄いドアごしに声が漏れないとでも思っているのだろうか。この狭い3LDKで一緒に暮らしていると、彼女の生活が手に取るように分かる。無用な心配をさせられて、男親としてはビールの量が増えるばかりなのだ。
妻と別れた時、佳奈は何を考えたのだろう。
「これで最後だから」と勝手に宣戦布告され、親子三人でお葬式みたいな遊園地に行った。その時、妻は得意満面で佳奈に聞いたのだ。「お母さんと、お父さん、どっちがいい?」思慮の浅いバカ女め、訊き方ってものを考えろ。そんな言葉が頭をよぎったが、最後の審判を待つ緊張感に、怒りの炎はすっかり冷えて灯らなかった。



――あたし、お父さんがいい。



まだ五歳だった佳奈は、申し訳なさそうに顔をうつむけて、それでも毅然とした声で言った。いま思い返せば、二人揃って頭のネジが足りない親だった。子供にあんな表情をさせるものではない。あの時、娘の言葉に耳を疑い、低脳な両親はただ口をぱくぱくとさせていた。
佳奈の小さな胸は、それでも決意を固めていた。
母親が優しく諭しても、怒鳴り散らしても、あげくに泣きついても、彼女の意志は揺るがなかった。おもちゃにもケーキにも飛びつかず、かたくなに首を横に振った。困り果てたかつての妻は、最終的に弁護士を立て、力ずくで奪おうとした。しかし子供の意志を優先するという家裁の慣例に、彼女の母性は太刀打ちできなかった。
「また先輩そんなこと言って、あたしのこと、からかうんだから。浮気する勇気なんてないくせに」
ころころと楽しそうな娘の声をBGMに、忠政は冷蔵庫を開く。食欲なんて無いから、缶ビールを一つ。プルトップを引いて、立ったまま口をつけた。捜査が一区切りつくまでは、ビールを一杯だけと決めている。大好きな焼酎は事件解決後のご褒美だ。娘の掃除したリビングで、娘の選んだソファに座り、苦い麦汁をすする。
忠政と別れて二年後、かつての妻は再婚した。相手は歯科医、佳奈のかかりつけだった。
――笑わせるぜ。忠政はビールを口に含む。
待てど暮らせど帰ってこない夫に見切りをつけたのは仕方ない。しかし、その空虚さを埋めるために手を出したのが、娘の主治医とはお手軽すぎる。言わなくても解っていた、別れる前から関係があったことぐらい。立川署ゆずりの魔法ってやつだ。それ以来、忠政は歯医者が大っ嫌いになった。
「それじゃ、また明日ね。うちの父さん、いま帰ってきたんだけど、飢えたハイエナみたいになってると思うの」
ビールが変な場所に入り、忠政はむせる。
「うん、うん――、わかってる」佳奈の声は、急に真剣味を帯びた。「放課後に、弓道部の部室で――。当たり前じゃん、誰にも言わないよ」
それじゃ、また明日ね。佳奈は元気よく電話を切り、しばらくすると部屋から出てきた。
「晩ご飯、食べちゃった?」
仕事姿のままソファに寝そべっているのも、親として決まりが悪い。忠政は頭をかきながら立ち上がる。天井の蛍光灯が一本、切れかけていた。ときどき発作を起こしたように点滅する。
「気にしなくていい、子供は寝る時間だ」
「ポトフ、作ってみたの」
娘はそう告げて、コンロの前に立つ。サトコたちに今日、夕食誘われたんだ――と、鍋をかき回しながら言う。財布の中身が足りなくて一緒に行けなかったこと、本当なら夕食のあとに、みんなでテスト勉強をする予定だったこと。またあの話かと、忠政は頭が痛くなる。
「なんと言われようが、小遣いは増やさねえよ」
恨みがましそうな目で忠政を見て、佳奈は火を止めた。
「だったら、アルバイト増やしてもいいでしょ? あたし、バイトは週に二回までなんて決まりのある家、他に知らないよ。門限だって早いし、まともに稼げる仕事なんて無いんだから」
「それでいいじゃねえか」言い争うのも面倒で、忠政はビールをあおる。「だいたいな、子供が夜遅くまで遊び歩くのを許したら、ろくなことにならねえんだよ」
雨に濡れた乃渡俊一の姿、開いた瞳孔と、ぬかるんだ砂利。
「あんなのは、夜遊びできるほどの金を、てめえのガキに持たせてるのが悪いんだ」
この程度の酒では酔わない。けれど今日の一日を思い出すと、頭の芯のあたりが熱くなる。あの高校の連中、クラスメイトが死んでも涙一つ流さなかった冷静なガキども。
「何の話? あたし、夜遊びした覚えなんてない」
父さんこそ、夜遅くまで本当に仕事が忙しいんだね。声を精一杯低くして、佳奈は言う。
「どういう意味だ、それ。親に向かって」
忠政はビールを流し台に置いた。アルミ缶の底が、銀色の板にぶつかる。にぶい音が鳴った。
「べつに。でも、こんな時だけ父親づらしないでよ。ろくに娘と会話もしてないくせに」
「俺は、お前を食わせるために仕事してんだよ」
いつの間にこんな、おませさんになりやがった。誰のおかげでここまで育ったと思っていやがる。てめえのケツも拭けねえガキのくせして――。いくつもの言葉が浮かんだが、どれも口にしなかった。躾(しつけ)と称して赤ん坊を殴り殺した男を、忠政は知っている。こんな生意気になるぐらいなら、尻でも叩いて育てれば良かったのだろうか。あの事件のせいで怖じ気づいて、できなかった。
「まともなオヤジじゃなくて悪かったな、俺だって残念だと思ってんだよ、自分がカタギの父親じゃねえってことを。ほとんど家にいねえし、家じゃこうして酒飲んでるしよ。佳奈の大好きな『先輩』とやらは、もっと優しく話を聞いてくれるんだろうけどな、俺はガキとは違って忙しい――」
佳奈の表情が、さっと強ばる。
「なんで、先輩の話が出てくるの」両手を握りしめ、華奢な体で仁王立ちをする。「全然、関係ないじゃん、先輩は」
いいや関係ある、疲れた神経細胞は些細なことで熱を持つ。
「人間ってのは、変えられちまうんだよ、男なんかが出来るとな」
自分の好きな誰か、自分を肯定してくれる誰か。そういう相手が現れると、人は世界が狭くなる。相手の言葉がすべてで、他は何もいらなくなる。例えば、家族も、娘も、甲斐性なしの夫も。子供相手に、なにムキになってやがる――胸の片隅には、冷静なもう一人の忠政がいる。しかし火の点いた神経は、簡単には収まらない。
「十七、八の男なんてな、真剣に女のことなんか考えちゃいねえよ。ただ、ヤりてえだけのガキだ。まともに相手を信じて、痛い目みるのは佳奈、お前だ」
佳奈は目を見開いて、顔を真っ赤に染めていた。握りしめたこぶしが、小さく震えている。
「なんで父さんに、そんなこと言われなくちゃなんないの。先輩のこと、知りもしないくせに。あたしがどうして先輩と付き合ってるか、聞こうともしないくせに。あたし――」
佳奈は小さく息を吸った。
「――母さんの気持ち、解った気がする」
そう言い捨てて、彼女はきびすを返した。飛び込むように自室に消える。扉を閉じる音が耳に刺さった。
わからねえなあ……。忠政は頭をかく。娘が真剣なのは知っているし、電話を盗み聞いた限りでは、いたって健全なおつきあいをしているようだ。解らないのは自分のことだ。いつまで経ってもバカな親のまま。腹を痛めたわけではないけれど、血の繋がった娘じゃねえか。もっとマシな親子喧嘩はできねえのか――。
ふと思い立って、携帯電話を取り出した。
「俺だ。お疲れさん、遅くに悪いな」
仕事の話は、娘に聞かせたくない。忠政は声をひそめる。
「いや、ちょっと頼みたいことがあってな。――ああ、そうだ。何とか努力してくれるとありがてえ」
娘の部屋から、iTuneをつけたのだろう、音楽が流れてくる。薄暗いリビングに漏れ出して、疲れた中年男を包んでいく。軽やかなポップスの旋律。
「――親って、報われねぇな」
電話を切る直前、思わずぼやいた。相手は大声で笑った。こんちくしょう、相手を間違えた。
「それじゃ、よろしく頼む」
ため息まじりに電話を切り、台所に目を向ける。
娘の作ったポトフを、鍋ごとテーブルに置いて、つついた。
かなしくなるほど美味だった。



     ◆



強烈なタールの臭気が、男たちから漂っている。眠たい頭を大量のカフェインとニコチンで叩き起こし、立川署の大会議室に目を血走らせた連中が集う。死体発見から二日目の朝、三回目の捜査会議だ。
「夜通しの聞き込みにより、目撃証言が一件得られました。現場近くの焼肉店で働く、アルバイト店員です」
張りのある声が部屋に響く。現場となった公園のすぐそばには大きな交差点があり、チェーンの焼肉屋が店を構えている。やたら広々とした清潔な店で、忠政はかえって居心地が悪かった。開店当初に食べ放題キャンペーンをやっており、佳奈と二人で食べにいったのだ。娘の食いっぷりに、ただただ唖然としたのを覚えている。
「そのアルバイト店員の話では、現場から立ち去る男の姿を見た、とのことでした」
バイト店員は休憩時間に煙草を吸うため、店の駐車場に出た。そして駐車場からは、公園の裏口が見える。目撃証言を聞き出した若い警察官は、徹夜明けの顔に自信をみなぎらせている。
「現場から立ち去った男ですが、薄暗さのため背格好までは判然としません。しかしスーツやカジュアルウェアではなく、スポーティな格好をしていたようです。目撃者の言葉をそのまま借りれば、黒のスウェットのような何か、だそうです」
男は公園から出たあと日野橋を渡ったという。多摩川の向こう岸――、つまり日野市へと歩いていったのだ。「時間はどうだ!」という野次が飛ぶ。
「焼肉店のタイムカードに、休憩時間がきちんと記録されていました」
休憩が時給に入らないとは、ずいぶんケチな店だ。
「記録された休憩時間は、十時三〇分から四〇分までの十分間です。このアルバイト店員の目撃した人物を犯人だと仮定すれば、犯行時刻はさらに絞り込めます」
脳細胞が活性化していくのを感じる。警察手帳に殴り書きでメモを取る。若い警察官は一礼して退場した。それに続いて、忠政の同僚である九係の人間が壇上に立つ。
「鑑識課から今朝早くに連絡を受けましてね、出たそうです、足跡の分析結果」
会議室が、にわかにざわめく。
「大手メーカーの作るテニスシューズでした。写真をお願いします」
会議室の巨大スクリーンに靴の画像が表示された。白地にYをデフォルメしたブランドのロゴが入っている。
「ですが、これは大量生産の廉価品だそうで、最近ではスーパーで安売りにされているとのことです。靴底の磨耗具合などには特徴があるため、現場に足跡を残した靴の照合は可能だと見られています。が、これの販売経路から持ち主を特定するのはほぼ不可能といっていいでしょう」
使い込むほどに靴底はすり減り、一つひとつ違う模様となる。人間の指紋と一緒だ。もし現場に残された足跡とまったく同じ靴底のシューズが出てきたなら、その持ち主には警察署までご同行願うことになる。霧雨だったは幸運だ。豪雨でも快晴でも、ハッキリした足跡は残らなかったはずだ。
続いての報告者は、忠政の隣に座っていた大男だ。
「昨晩の会議での内容と重なりますが、捜査中で参加できなかった方もいるので繰り返しご報告いたします。被害者・乃渡俊一が中学一年生の頃の話ですが――、彼の姉・当時十八歳が交通事故で死亡しています。当時の捜査資料、また公判資料などを参照しましたが、彼女の死に事件性はありません」
彼の担当は、被害者の家族だ。
「また、乃渡俊一は小学六年生の五月に万引きで補導されています。立川署の少年課に、彼を覚えている者がいました。五年以上前の事件ですので資料は残されていません。しかし両親の話も照らし合わせたところ、確認を取れました」
報告を読み上げる表情には、巨体に似合わぬ歯がゆさが見え隠れしている。同じような気持ちを忠政も抱いていた。どれだけ洗い出しても、乃渡には殺される理由が見つからない。にわかに信じがたいほど、彼は清廉潔白な生き方をしていたようだ。憎まれるとしても眼鏡テニスプレイヤーの竹原に逆恨みされるぐらいのもので、何も出てこない。くそ、本当に物取りの通り魔だってのか、だとしたら骨折り仕事だ。
最後に諏訪がのっそりと前へ出た。昨夜は一睡もしていないのだろう、呪いの指輪を手にしたホビットのごとくやつれている。
「今後の捜査方針ですが、やはり二通りの真相を想定したうえで行いたいと思います」
普段の汚い口ぶりを聞いているぶん、たまの丁寧語が滑稽に見える。
「一つは、通り魔的犯行である可能性。これは捜査の初期段階から考えられていたことですね。現場、および被害者の状況から、この可能性が高いと判断されました」
乃渡俊一の身にまとっていた衣服は、明らかに物色された痕跡があった。しかしそれでいて、財布が残されていた。財布以上に魅力的な金品でも持ち歩いていたのだろうか。
「そしてもう一つは、怨恨犯の可能性です」
だとすれば、亡骸を物色した理由はなんだ。ヤジの一つでも飛ばしたくなるが、旧友の顔は潰さずに勘弁してやる。相手は刑事課長殿だ。
「現在までのところ、乃渡俊一を殺して喜ぶ人間が見えてきません。彼の家族・友人関係を引き続き調べていただきたいと思います。では管理官、詳しいご説明を――」
諏訪に代わり、彼より年下であろう管理官がマイクを掴む。
まず、日野警察署に協力を依頼すること。これは「犯人とおぼしき人物が日野橋を渡っていた」という目的証言を鑑みている。通り魔的な犯行を想定し、すでに多摩地区の至るところで捜査が始まっている。
続いて、乃渡俊一に直接関係のあった人間に対して引き続き捜査を行うこと。学校関係者や、彼の通っていた予備校の関係者が対象となる。犯人がその中にいるとしたら逃がすわけにはいかない。
さらに乃渡家の近隣住民に対する聞き込み。これは乃渡の母が専業主婦であることに依拠する。管理官は大真面目な顔で、「ご近所づきあいにまつわるイザコザ」を調べろと言った。
そして乃渡の父親がかつて浮気をしていた相手。昨夜の捜査会議で出てきたネタだ。報告した警察官は「望み薄」だと言ったが、彼女とその近辺についても人員を配して調べ上げる。
「いろいろと新しい物品が出てきて、状況はどんどん変わってきていますが――」
馬鹿を言うな、真相に近づいてる手ごたえなんて、ちっともねえ。
「当然、現場周辺での捜査は継続します。目撃者はもちろん、第一発見者への事情聴取も含めて、現場検証の続行をお願いします」
足跡とテニスシューズは、いわばジョーカーだ。管理官の語るところによれば、ある程度まで犯人の目星がついたところで礼状を取り、そいつの靴を押さえる腹積もりらしい。のろのろしているうちに靴を捨てられたらどうする、と忠政は思ったが、それに対する諏訪たちの答えは、「処分されぬよう、気をつけること」というものだった。まったく有能すぎる上司だ。しかし昨日の電話で、忠政のわがままを飲んでくれた相手だ。ここは彼らの采配に任せる。
「解散」の言葉とともに、男たちは席を立った。それぞれの相方と手を取り合い、会議室を出て行く。
――さて、俺も。
忠政は警察手帳を閉じ、腰を上げた。会議室の隅に倉島の姿を見つけたが、彼とは目配せを交わしただけで、二人とも別のドアから外に出た。



     ◆



言い過ぎたなぁ……。
英語の授業なんて、ぜんぜん耳に入ってこない。机の下にケータイを隠して、サトコとメールをしていたけれど、それにも一区切りついてしまった。手持ち無沙汰に、窓から空を眺めていたら、嫌なことを思い出した。
――お母さんの気持ち、解った気がする。
心にも無いことだった。言ってしまってから、自分の言葉に絶句した。正直なところ、すごく怖かった。父さんがどんな表情をするか。次の一言に何を言うのか。ぜんぜん想像できなくて、思わず部屋に逃げ込んでしまった。なんで、あんなこと言ったんだろう。考えたくもないのに、暇を持てあました脳みそは休んでくれない。昨日のやりとりが何度もリピートされる。
さっきから山下先生がこっちを見ている。三十そこそこの独身女性、うわさでは日曜日にも学校へ来ているらしい。男のニオイがしないから、サトコは「レズだ」って楽しそうに話していた。教科書を読むだけのつまらない授業だ。窓の外の湿った空を見ながら、彼女の執拗な視線を無視する。
お母さんの気持ちなんて、本当はぜんぜん解らない。
小学生のころは月に一度、お母さんと会う日が決められていた。そういう日は決まって都心の高そうなレストランに連れて行かれ、食べたくもないフランス料理を並べられた。そしてお母さんは口説き始める。「お父さん、あんまり家にいなくて寂しいでしょう」だとか、「あの人も、佳奈に会いたいと言ってるわ」だとか。月並みな言葉でしつこく誘ってきた。だけどフランス料理なんかより、父さんの作るカレーやおでんのほうがずっと好きだ。それは今でも変わらない。いちいち断るのが面倒になって、中学校に上がってからはお母さんとは会っていない。
両親の話をすると、聞いた相手は決まって気まずい顔をする。苦笑いして別の話題へ無理やり移ったり、あるいは「ごめんね」と頭を下げる。そんな必要、ぜんぜん無いのに。そういう人が想像するほど、父さんとの二人暮らしは悲惨なものじゃない。安全のためと言って、クラスの誰よりも早くケータイを買ってもらった。小学生のころから調理実習ではいつも褒められたし、おなじ実習班のメンバーからは頼りにされた。放課後、友達を気がねなく家に呼べたし、一人になりたい時はソファを独り占めしてマンガを読みふけることができた。その気楽さが心地よかった。下校後に誰かが家で待ってるだなんて、想像するだけで息が詰まりそう。
山下先生の眼を盗んで、「早く会いたい」とメールした。送信ボタンを押してから、そういえば彼はいま体育の授業中だったと気づく。学年が違うと、授業の時間割もぜんぜん違う。弓道部の先輩で、すさまじく口の汚い人だ。一年生のころは怖くて、先輩に話しかけられるだけで冷や汗が出た。でも荒っぽい言葉とは裏腹に、彼はすごく真剣で、やさしい。卒業までに弓道三段を取ると宣言して、いつも遅くまで弓を引いている。
彼の汚い言葉遣いは、父さんに似ている――って言ったら、サトコは「ファザコン」だと笑った。だけど女の子なんて、みんなそんなものだと思う。サトコは誰かと付き合ったことが無いから解らないだけだ。
本当の親は、父さんだけ。人並みに反抗期もあったけれど、それもとっくに終わっている。だから今は素直にそう思える。頭は固いし、人の話は聞かないし、顔を見ると疲れているか酔っ払っているかのどちらかだけど、それでも、父さんの生き方はカッコいいと思う。なんて言えばいいんだろう、真っ直ぐに生きてきた人なんだな、って。だけど真っ直ぐ上を向いてるわけじゃなくて、ちょっと斜めに傾いているんだ。王道とはいえない方向なのに、曲がることを知らない。そういうところは、カッコいい。そういう生き方をしてみたいと思う。
だからこそ昨日はショックだった。
父さんから、あんなことを言われると思っていなかった。
――佳奈の大好きな「先輩」とやらは、もっと優しく話を聞いてくれるんだろうけどな。
心臓が冷えるって、ああいうことを言うのかな。血がのぼって頭がかあっと熱くなるのに、胸の辺りは凍えそうだった。とっさに言い返す言葉が見つからなくて、気づいたら、口にしていた。絶対に言っちゃいけないセリフを。
謝ったほうが、いいよなぁ……。
取り留めなく膨らむ思考を、チャイムの音にかき消された。取り繕うように開いていた教科書を、音を立てて閉じる。次の時間は日本史で、享保の改革について教わる予定。肺から教室の空気を追い出したくて、廊下に向かった。ドアから外に出ようとしたところで、声をかけられた。
「八木さん、ちょっといいかしら」
山下先生。いつになく目つきが険しい。授業中にぼけぇっとしていたのは申し訳ないけれど、そんなことで注意されたくない。隣の席の男子なんか、鼻ちょうちんをつけて爆睡していた。
「あなたにお話があるの。放課後でいいわ、私のところまで必ず来るように」
もともと何を考えているのか解らない先生だ。去年の秋から赴任してきて、勝手に風紀委員の「顧問教諭」に納まった。風紀委員は生徒会の組織だし、教師は干渉できないはずなのに。
まさか、あのことが……。
思い浮かんだのは、父さんの顔だった。もし、あれを知ったら、父さんは容赦なくこぶしを振り上げるだろう。最悪のタイミング。嫌な汗を首筋に感じながら、山下先生の後姿を見送った。





『ギムレットには早すぎて(3)』へ つづく。