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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

知識ゼロから学ぶ簿記のきほん(4)/カオル先輩のこたえ

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※中高生・就活生・簿記を勉強しないまま大人になってしまった社会人の方に向けた記事です!
※間違い等お気づきの点があればご教授ください。




第1回:知識ゼロから学ぶ簿記のきほん/おこづかい帳と簿記はなにが違うのか


前回:知識ゼロから学ぶ簿記のきほん(3)/売掛金のゆくえ
次回:知識ゼロから学ぶ簿記のきほん Ep.02 (1)/なぜ任天堂は“赤字”でも倒産しないの?




       ◆ ◆ ◆




油断した――。
貸方ケイリは苦々しい気持ちを噛みしめた。十字架みたいな謎の器具に、はりつけにされている。手錠をかけられた手首が、だんだん痛くなってきた。なんだろう、この器具。こんなハズじゃなかったのに……。
「兄者、この小娘どうします?」
「うろたえるな弟者、若い娘の利用価値は高い。換金する方法などいくらでもある」
「あの陶芸部もまんまと騙せましたしね、やっぱり――」
「「さすがだよな俺たちって」」
黒いスーツにサングラスのベタベタな悪役姿。もしくは宇宙人討伐隊。よく似た背格好だけど、少しだけ身長の高いほうが「兄者」のようだ。
立川南口の雑居ビルの一室だった。教室の半分ぐらいの広さの部屋に、二台のスチール机とパソコン、そしてこの謎の器具が詰め込まれている。男二人は椅子に“後ろ前”に座り、にたにたとケイリの顔を眺めている。
「こんなことをして、タダで済むと思ってるのかしら」
大声を出してもムダなのは分かっていた。上下の階は空室だし、立川の南口はいつも騒がしい。悲鳴は届かないだろう。
「兄者、小娘がなにか吠えています」
「あわてるな弟者。ときに娘、お前は処女か?」
「なっ――!」
「処女はいい。なにしろ高く売れる。アメリカにロシア、中国にインド、イギリス――。億万長者は世界中にいる。そしてカネ持ちは十中八九、変態だ。日本人で、未成年で、処女。間違いなくストップ高の値段がつくぞ、誇るがいい」
怒りのあまり、ケイリは頭の中が真っ白になった。どんなに高い値段がついても、そのカネが自分のモノにならなければ意味がない――って、そうじゃない。“そんなこと”をさせられるために生まれてきたわけじゃない。
「バ、バカいってんじゃないわよ。できるわけないでしょ、人身売買なんて」
「娘、お前は育ちがいいのだな」と兄者。
「こいつ世間知らずですね」と弟者。
「需要と供給はこの世の原理。欲しがる人がいる限り――」
「それを売るルートもあるんですよね! そういうルートを知っているなんて」
「「やっぱり、さすがだよな俺たちって!」」
「やかましいわ!」
そろばんがあれば殴りつけているところだ。ツッコミを入れながらも、ほんとうは息が苦しくなっていた。二人のヤバさがだんだんと分かってきたからだ。もしかしたら彼らのいうとおり、自分は売り飛ばされてしまうのかもしれない。ひどいよ、そんなのってないよ――。
柄にもなく弱気になる。まだやりたいことがたくさんあるのに。
伝えたい気持ちだって、あるのに。
「そうと決まれば、商品写真を準備しなければ」
「カメラですね! ささ、これをどうぞ!」
一眼レフのレンズが向けられる。身動きのとれないケイリに、何度もフラッシュが浴びせられる。屈辱だった。兄者は夢中になってシャッターを切る。ケイリはただ、うつむいていた。
「……兄者」
不意に、弟者がつぶやく。
「……兄者、パソコンを見てください」
「それどころではない、弟者」
「兄者、俺たちのオークションが止められています」
「あんな粘土細工よりもこっちのほうが高く売れるぞ、弟者!」
兄者はいまにも笑い出しそうな口調で続けた。
「ハサミを出せ、弟者よ」
「合点承知」
弟者は跳ねるようにパソコンから離れた。スチール机からハサミを取り出すと、ゆらり、ゆらりとケイリに近づいてくる。
「……なにするつもり?」
大きな裁ちバサミだ。
「商品写真の撮影に決まっておろう、小娘よ」
「パッケージだけ撮って、中身を写さないなんてあり得ませんよね!」
「生まれたままの姿も撮影しておかなければ」
どっと冷や汗が出た。人身売買の話がどこまで本当かは分からない。けれど、裸を撮られたらおしまいだ。デジカメのデータはどこからネットに流出するか分からない。コピペされ拡散され、未来永劫、残り続ける。そんなの絶対にイヤ――。
ハルちゃんの警告を聞いておくべきだった。脳みそは空っぽでも、あいつはいちおう男だ。あいつが一緒だったら、こんなことにはならなかった。ケイリは恨みがましい視線をスチール机に向ける。そろばんが無造作に放り出されている。
弟者がケイリの前に立ちはだかる。
「兄者、どこから切りましょう」
「怪我だけはさせるなよ」
ケイリは調査室を出るときに、「借方シワケと行く」と言った。その言葉を、ハルちゃんは信じているみたいだった。だからハルちゃんは、このピンチに気付かないはずだ。可能性があるとしたらシワケだ。教室から飛び出したとき、ケイリは「調査室に行ってて」と言った。あの言葉にあいつが従ってくれれば、ケイリが一人で行動していることに気づき、この事態にも思い至るだろう。
――だけど。
ケイリは絶望的な気持ちに包まれる。
彼はケイリに莫大な借金をしている。あいつにしてみれば、ケイリがいなくなったほうがトクなのだ。ケイリがどこか遠くに売り飛ばされてしまったほうがいいのだ。人を信じてはダメだ、そしてお金は嘘をつかない。だからあいつは、ここに来ない……。
「それじゃ、胸のあたりからいきましょうか」
「おう。ズバっといけ、ズバッと」
完全にモノとして扱われていた。弟者がハサミを開く。それだけで「シャキ」と涼しげな音が鳴る。冷たい刃がケイリのほほに触れ、ゆっくりと下に降りていく。



――たすけてよ、借方シワケ(あのバカ)



がたん、と明かりが消えた。
部屋の外は夕暮れだ、室内が暗いオレンジ色に染まる。
「な、なにごとでしょう。兄者!」
「さわぐな弟者、ただの停電だ。ブレーカーが落ちたのだろう」
兄者はカメラを降ろすと、ふん、と鼻を鳴らした。
「少し見てくる。お前はこの小娘を見張っていろ」
「御意」
兄者がドアの向こうに消え、ケイリは弟者と二人、部屋に残された。のど元につきつけられたハサミのせいで、心臓が壊れそうなくらい速く打っている。今のうちに、どうにか切り抜けなくちゃ――。男二人が相手では逃げ切れなくても、一人だけならなんとかなる、かも。まずは手錠を外すように、うまく言いくるめて――。
「ねえ、あんた――」
「黙れ小娘」
バッサリだった。(とりつく島もないわ)とケイリは毒づく。
拘束されたままではどうしようもなかった。そろばんさえ手にできれば、こんなやつらぶっ飛ばしてやるのに……。早くしないと兄者が帰ってきてしまう。
しかし兄者は戻ってこなかった。
最初は錯覚だと思った。緊張のせいで、時間の流れをゆっくり感じているのではないかと思った。ケイリは心のなかで(いち、にい、さん……)と数をかぞえてみる。それでも兄者は戻ってこない。ただブレーカーを上げにいっただけなのに。
ケイリのカウントが六〇を超えたころ、ようやく弟者も異変に気付いた。
「……兄者ぁ?」
ドアの外に向かって呼びかける。しかし返事はない。
「これはおかしいですね」
独り言を漏らし、弟者はドアに近づいた。はさみが離れて、ケイリはホッと息をつく。
弟者がドアノブを握ろうとした、その時。
「カネに惑いし哀れな影よ――」
澄みきった冷たい声。
「与信を傷つけ貶(おとし)めて」
弟者は、びくりと立ちすくむ。
「債務に溺るる業(ごう)の魂(たま)
ドアがすうっと開いた。



「いっぺん、破産(と)んでみる?」



魂ごと債権回収されちゃいそうな、ハルちゃんのセリフだった。



       ◆



男に近づけないハルちゃんの代わりに、俺は部屋に飛び込んだ。
「――ケイリさん!」
「シワケ!」
って、これ、どういう状況だ?
「いやぁ、この子には弊社のぶら下がり健康器具をね、試用してもらっているんですよ」
すかさず黒いスーツの男が言う。
「みなさん、この子のお友だちですか?」
「デマこいてんじゃねえ! なにが健康器具だ、どうみてもSMプ●イで使うX字架じゃんか」
男子高校生のエロ知識をなめるな!
「……えす……えむ?」
なぜかケイリさんの顔が真っ赤になっていく。後から部屋に入ってきたカオルさんも、うっすらと頬を染めている。
「いや、そんなことは……」
食い下がる黒スーツに、ハルちゃんが言い放った。
「いつでも通報できる」
手のひらにはiSphere。電話器の立体映像が宙に浮かんでいた。その隣にはカメラのアイコンも表示されている。
「写真も撮った、未成年拉致監禁の証拠写真。きちんと保存してある……わたしのケイリ生写真コレクションに
物騒っていうか、それアウトじゃね?
「いいから、早く手錠を外して」
男は「やれやれ」と首を振ると、ハサミを降ろした。机の引き出しから鍵を取り出すと、こちらに投げてよこす。
「今回の件で私が得るべき教訓は、カネになるものはさっさと現金化してしまえ、ということか」
ハルちゃんは俺の手から鍵をもぎ取る。あれ、男に近づけないんじゃなかったの? 目にもとまらぬ速さでケイリさんに駆けより、いましめを解いた。
「よくもやってくれたわね……」
手首をさすりながらケイリさんは言う。ハルちゃんはぴたりとケイリさんの背後に張りついた。
「そう怒るな、小娘。そろばんは返してやる。売れ残った茶碗も持って行け」
「当然だわ! ていうかキャラが変わりすぎよ」
「本性を現した、と言ってほしい。茶碗はほとんど売れてしまったけれど、残りは、ほら、そこの金庫だ。いい値がつくのを待ったせいで、売るタイミングを逃した」
おかげで“晩夏”は無事だった。男は窓際の金庫を指さす。みんなの視線が一瞬、金庫に集まった。
「今回の件でお前たちが得るべき教訓は、金づるからは目を離すな、ということか。――さらばだ」
その一瞬をついて、男はカオルさんをつき飛ばした。「ふぇぇ」と尻餅をつくカオルさん。男はドアに突進した。
「待ちなさい!」
ケイリさんがそろばんを投げる。が、男は体当たりするように扉を開けると、部屋の外へと消えた。
「なにボーッとしてんのよ! さっさと追いかけなさいよ!」
ケイリさんが叫ぶ。
「いいや、その必要はないよ」
「バカいわないで。あいつからはまだ売掛金を回収できていないよ? すでにほとんどの茶碗が売れてしまったとあいつは言っていたわ。なら、そのぶんの商品代はきちんと払ってもらわないと――」
「そうだね」
ケイリさんは地団駄を踏む。
「だったら、早く追いかけて捕まえなくちゃ!」
「だから、その必要はないんだ」
「?」
「もう一人の男、どうなったと思う?」
「!」
建物の外から、野太い叫び声が聞こえた。
『な、なんだよお前ら――!』
ケイリさんは弾かれたように窓に飛びつき、ブラインドを上げる。
「そんな、まさか――」
「何でも屋部で、俺は色々な部活のお手伝いをしてきた。安い時給で運動部のユニフォームを直したり、映画研究会の大道具を運んだり。お小遣いが欲しかったのはもちろんだけど、それ以上に、仕事を通じて色々な人と知りあえるのが楽しかった」
「ウソでしょ……一体いくら払ったら、こんな……」
「お金じゃないよ。ケイリさんのピンチを伝えたら、みんなすぐに集まってくれた」
屈強な男たちが建物を取り囲んでいた。
サッカー、野球、バスケ……。典型的な運動部だけじゃない。柔道や空手、テコンドー。映画研究会のスタントチームは、黄色いジャージにヌンチャクを装備している。筋骨隆々の男子高校生たちが、スーツの二人を取り押さえていた。
俺は窓を開ける。
「みんな、ありがとー! ケイリさんは無事だー!」
男たちがこぶしをふり上げる。
――うおおぉぉぉおおお!!
雄叫びが立川駅南口にこだました。
「そっちも怪我とか、してねーかー?」
――うおおぉぉぉおおお!!
よくわからないけれど、全員無事、というコトらしい。一件落着だ。
青ざめるハルちゃんをしり目に、俺たちはホッと胸をなで下ろした。



俺たちは地上に降りた。モーセが海を切り開くように、ケイリさんの前の男たちが道をあける。まさに男道。そのつき当たりには、スーツの二人がうつぶせで組み伏せられている。
「お、お前らの目的はなんだ! いったい何がしたくて、こんな真似を……」
「ケイリ、まだ伝えてなかったの?」
「ええ、言いそびれていたわ」
ハルちゃんはケイリさんの腕をひしっと掴んでいる。ケイリさんと一緒なら、男への接近距離を縮めることができるらしい。
いまいましげに男たちは言った。
「お前ら、いったい何者だ――!?」
ケイリさんとハルちゃん、そして俺の声がぴたりと重なる。
「「「なかよし銀行・調査室です!」」」
――スチャ。
「債権回収しにきたわ」



       ◆



しっかりと売掛金を回収したあと、男二人は警察に引き渡された。陶芸部の一件は初犯ではなく、余罪はたっぷりとありそうだ。“晩夏”を取り戻すこともできた。事件は解決し、俺たちはもとの日常へと戻った――。



重たい扉を開けて、調査室に入る。
「待っていたわ」
ケイリさんが立ち上がり、すたすたと近づいてくる。俺の前で仁王立ちした。こうやって見下ろすと、やっぱり小っこいよなぁ……。
「これ!」
と、右手をつきつける。
「なにこれ?」
ケイリさんから渡されたのは、大きな鍵だった。ずしりと手のひらに沈みこむ。俺が来るまで握りしめていたのか、ほんのりと温かかった。
「特殊合金で作られた複製不可能な鍵よ。スペアキーはないから、絶対になくさないでね」
「だから、一体どこの鍵だよ」
ケイリさんは、ふん、と短いため息をつく。
「金庫よ、なかよし銀行調査室の」
「――ぶっ!?」
「金庫には数億円相当の証券や現金が入っているわ。その管理をあなたに任せる」
「ちょ! え!?」
「言っておくけど、横領でもしようものなら命はないと思いなさい」
「ま、待ってよケイリさん。どういうつもり?」
「だって、あんたが……」
ケイリさんは肩をすぼめる。
「あんたが人を信じろって言うから……。だから、あんたを信じることにしたの。この鍵はその証拠」
「だけど……。そんな……」
――スチャ。
ケイリさんはそろばんを握った。
「いい? お金っていうのは信用の証なの。一万円札はどうして一万円の価値を持つのか考えてごらんなさい。あんな紙切れを商品と交換できるのはなぜかしら」
「高級な紙が使われているからだろ」
「違うわ。たしかに一万円札には特殊な和紙が使われているけれど、それでも一枚印刷するのに一万円もかからない。みんなが一万円だと信じているから、一万円札は一万円なの」
「それじゃ、みんなが信じなくなったら――?」
「一万円の価値は無くなって、ただの紙切れになるでしょうね」
なんだか不思議だ。
「たとえば、まだお金が発明される前の原始時代のことを想像してみて。あんたは山で狩猟採集生活をしていて、あたしはふもとで野菜を作っていたとする。あんたは野菜が食べたいし、あたしは肉が必要よ。あんたとあたしは肉と野菜とを物々交換していた――と、しましょう」
「肉が必要、ねぇ……」
「どこ見てんのよ、怒るわよ。――でもある日、あんたは狩りに失敗して肉を取れなかった。その日のうちに何か食べなければ飢えて死んでしまう。そしたら、どうする?」
「土下座する、ケイリさんに。野菜を譲ってくださいって」
「そうね。あたしも鬼じゃないから野菜を渡してあげるわ。だけどタダじゃない、次回の取引のときに、この野菜のぶんの肉も渡すように要求するはずよ」
まあ、そうだろう。ケイリさんに「無償」という言葉は似合わない。
「だけどよく考えてみて? あんたに野菜を渡すのは、次回その“借り”を返してもらえると信用しているからよね。あんたが信用のない人間だったら、野菜を渡すことはできない」
「ええ! それじゃ狩りに失敗した俺はどうすれば……」
「死ぬしかないわね」
「ひどい!」
「こんな感じで、原始時代には“信用”があらゆる取引の根底に流れていたはずよ。肉や野菜の生産高は日によって違う。交換できるモノがいつも充分にあるとは限らない。だから“信用”してもらうしかない。貨幣経済が生まれる以前は、“信用”が経済を動かしていた」
「なるほど」
「そしてお金は、この“信用”を代替するものなの。あんたが狩りに失敗して肉を持っていなくても、お金さえ持っていれば、あたしから野菜を買うことができるでしょう。そしてあんたから受け取ったお金で、あたしは次回の取引では肉を多めに買える。お金は信用を可視化したモノなのよ。『お金=信用』だと言ってもいいわ」
「そんなもんかなぁ……」
「そうなの。だって今でも、信用はお金に換えられるもの。信用のある人は、銀行からお金を貸してもらったり、株券を発行して株主からお金を集めることができる。信用のある人のところにお金が集まって、そうでない人はどんどん貧乏になっていく。いまの貨幣経済は、そういう仕組みでできているの」
だから――、とケイリさんは俺を見つめる。
「お金は信用の証なの。あんたは、あたしを助けに来てくれた。だからあんたのことを、あたしは信用してみるわ………………ちょっとだけ
「ダメだよ、ケイリさん。この鍵は受け取れない」
俺はケイリさんのちっちゃな手のひらに、大きな鍵を押し戻した。
「……どうして……?」
「こんな大切な鍵、俺が持っていていいモノじゃない」
「だ、だって……! あんたが人を信用しろって言うからっ! 信じられそうな人は、あんたぐらいしかいないから……っ!」
「それでも受け取れないよ」
「なんで? まさか、現金を渡せって言ってるの?」
俺はぶんぶんと首を振った。
「めっそうもない!」
「じゃあどうして……。……もしかして、あたしじゃ、ダメ? あたしからの信用なんて要らない?」
なぜか泣き出しそうな顔になる。
「違うよ。ケイリさんが俺を信じると言ってくれた、それだけで充分だ。証拠なんていらない」
「で、でも、それじゃ、どうやってあたしの気持ちを証明したら――?」
「証明なんてしなくていい。たしかにケイリさんの言うとおり、お金は“信用”を可視化したものなんだと思う。信用のある人にはお金が集まるというのも、本当だと思う。だけどさ――」
ケイリさんはうつむいてしまう。俺は続けた。
「こんなコトをしないで欲しい。金庫の鍵を、信用の証だなんて言わないでほしい。お金を使って、俺の信用を買い取ろうとするな」
「あたし、そんなつもりじゃ――!」
「わかってるよ。ケイリさんはいつものクセが出ただけだ」
細い指先を包むようにして、鍵を握らせた。
「ケイリさんの言うとおり、信用や信頼はお金に換えることができるんだろう。だけど、ほんとうの信頼を、お金で買い戻すことはできないんだ」
そしてほんとうの信頼があれば、お金が無くても人は動く。運動部の男たちのように。
「……それでも、あたしはお金を信じてる」
うつむいたまま、ケイリさんはつぶやいた。
「本当はあんたにも『人を信じる』なんて甘いことを、言ってほしくない」
「それなら、お金を信じているケイリさんのことを、俺は信じるよ」
ケイリさんは手をふりほどくように鍵を受け取ると、くるりと背を向けた。そのまま窓際まで小走りに逃げてしまう。
「……そんなのズルい……」
ケイリさんの小さな肩が、さらに小さく震えていた。
背後から見ても分かるぐらい大きく、ケイリさんは息を吸う。
そして、ゆっくりと吐き出す。
「あのね。あたし、言うことがあるの」
「?」
「言わなくちゃいけないことが、あるの」
ケイリさんの様子がおかしい! なんだ、これ?
「あ、あたしは、あんたのことが――」



と、ケータイが鳴った。



ポケットをぱたぱたと叩くケイリさん。
「あ、ごめん。これ俺の」
「け、ケータイぐらい切っておきなさいよっ! 人が大事な話をしようとしているときに!」
ここは映画館かよ。ふり向いたケイリさんは、なぜか顔を耳まで真っ赤にしていた。ケイリさんって、ほんと血が昇りやすいよなぁ。
「そう怒るなってば――」
と、画面に目を落として俺は絶句した。
「……ごめん……用事が、できた……」
カオルさんからのメールだった。
「用事って?」
「ごめんケイリさん! 続きはまた今度聞くから!」
俺はきびすを返して、調査室から飛び出す。
「――ちょ、ちょっとぉ!」
ケイリさんの声にも足を止めない。
メールのタイトルは『返事がしたい』だった。



       ◆



カオルさんは昇降口で待っていた。あがりかまちに腰掛けて、体育座りをしている。俺の姿を見つけると、にこりと笑った。
「……お、お待たせしました」
「ううん。うちもいま来たとこ」
いやでも鼓動が早くなる。こんなシチュエーションは初めてだった。カオルさんは立ち上がると、俺の手を取った。心臓が跳ね上がる。
「こっち」
一階のすみっこへと俺を引っ張っていく。
「ど、どこに――?」
校舎一階の東、ふだん生徒があまり立ち寄らない場所へと近づいていく。節電のために蛍光灯も外されていて、昼間だというのに薄暗い。カオルさんは無言のまま、俺を男子トイレへと連れ込む。い、いったい何をするつもりなんですかセンパイっ!
「うちもな、色々と考えててん」
俺のほうに向き直って、カオルさんは言った。
「あんなこと男の子に言われたんは初めてやったし、どないしょぉ思って……」
マジっすか?
「せやけど、嬉しかった。うちは男の子やのに、あんなに真剣に向き合ってくれはって。シワケくんやったら、いいかなって思った」





―――は?





「やから、うち――」
「ちょ、ちょっと待ったぁ!」
「?」
「――え? え?」
頭の中が真っ白になる。
「どないしたん?」
「さっきのセリフ、もう一度お願いします」
「……シワケくんやったら、いいかなって――」
「違います! その前!」
「あんなこと言われたんは初めて――」
「そ、その後!」
「うちは男の子やのに……?」
「それ、ど、ど、どーゆー意味ですか!?」
「どうって……。言ったままの意味やで。うち、男の子やねん」
つまりカオルさんは……カオルくんだったということ? 嘘だ、嘘だ、嘘だ! カオルくんが、先輩が男だったなんて、そんなの嘘だっ!!
口をぱくぱくさせる俺に、先輩は笑いかける。
ハンドボールの練習を付き合ってくれて、嬉しかったで」
あの日のことが脳裏によみがえった。

翌日。
五時間目の授業は自習だった。窓の外を見れば、緑色のジャージを着た男子たちハンドボールを練習している。生あくびを噛み殺しながら校庭を眺めていたら、声をかけられた。
「昨日の話の続きよ」


高校では普通、体育は男女別に行われる。先輩が女子なら、ハンドボールの練習なんてしないはず――。間違いない、火織先輩は男だ! だからこそハルちゃんに「男なんて絶滅すればいい」と言われたときも、しゅんとしていたのだ。う、裏切ったな! 僕の気持ちを裏切ったな! 父さんと同じに僕を裏切ったんだっ!! 驚きのあまり心の中で八つ当たりしてしまう。ていうか父さんって誰だ。
目を白黒させる俺の前で、先輩はジャージの前を開けた。男だと分かっていても、なんていうか、その、すんげー艶っぽい……。先輩はTシャツの裾に手をかけ――ぬぎっ!
「いやいやいや、『ぬぎっ!』って!」
たしかに男の体だった。
「カオルくん、やめてよ! どうしてだよ!」
「うちの大切なもの、シワケくんにあげる!!」
君がなにを言っているのか解らないよ、カオルくん!!
でも、こんなにキレイな人だったら男でもいいかも――と、一瞬だけ思ってしまう。
「好きやで!」
先輩は俺に飛びつく。あっと言う間に壁ぎわに押しつけられた。思いのほか力が強い! そりゃそうだ、だって男だもんなぁ……。
って、感心している場合じゃない。
「い、いや、俺はまだ心の準備が――。あっ、ダメです! そこは触っちゃ――!」
先輩から離れようとして、もみ合いになった。
「て……照れること……ないやん!」
「照れてる……わけ……じゃ……!」
男子トイレだ。タイル張りの床は、乾燥していても滑りやすい。
「「うわぁぁあ!」」
足を滑らせて、二人して転んだ。
「痛ってぇ――」
目を開けると、目の前に先輩の顔があった。先輩は仰向けに倒れて、俺のほうを見上げている。ほんと、うっとりするほどキレイだよなぁ……。押し倒すような格好のまま、つい見とれてしまった。
「シワケくん……」
先輩が甘やかな声を出す。そ、そんな声で囁かれたら、俺、もう――。
バァァアアン! という大音響とともに、トイレのドアが蹴り開けられた。
「シワケ、大丈夫!? いまの叫び声はいったい――」
ケイリさんだった。俺が急に飛び出したから、後をつけてきたのだろう。彼女は男子トイレの前で凍りついた。
状況を確認しよう。
半裸になった火織先輩、彼のうえに覆い被さっている俺。そして、そろばんを手にしたケイリさん。まずい、どう考えてもこの状況はマズすぎる。
「そう……だったのね……」
――スチャ。
ドアの閉まる音だった。ケイリさんは丁寧な手つきで男子トイレのドアを閉め、「見なかったこと」にした。
「ちょ、ま、待って!」
そろばんの一撃が飛んでこないほうが不安になる。
「誤解だ! ケイリさん、ケイリさぁーん!!」
こうして陶芸部の粉飾決算騒ぎは一件落着した。事件は解決し、俺たちはもとの日常に戻…………れるのかなぁ…………。






――『知識ゼロから学ぶ簿記のきほん』「Ep.01 “転売屋”編」<了>
   ※つづく、かも。








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