デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

やっぱり「若者論」よりも「大人論」のほうが必要だと思います。

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承前どう考えても若者論より「大人論」のほうが必要です
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120120/1327071261




※子供のころはカキが苦手でした。いまでは大好物。





先日の「きのこVSたけのこ」のエントリーより:

「無関係な理由づけ」は意外と多い。たとえば「○○発電は安全だ、なぜなら自動車事故のほうが危険だからだ」という主張をしばしば見かける。しかし、どうして自動車事故と比較しなければならないのだろう。「バンジージャンプは安全だ、なぜならスカイダイビングのほうが危険だからだ」と主張するようなものだ。相対的に安全だからといって、絶対的な安全性までは証明できない。


この部分に対して、こんな反論をいただいた。

自動車との比較は、○○発電の安全性を主張するためのものではない。「身近な危険と比較してこんなにもリスクが低いのだから大騒ぎするべきではない」ということを主張しているのだ。


おっしゃる通りだ。「比較」では、絶対的な安全性を証明できない。リスクの大小を示しているだけだ。そしてリスクを判断するときには、メリットについても考察する必要がある。走行中のトラックの前に飛び出す人は滅多にいない。なぜなら、スリルから得られる快感が、死傷のリスクに見合わないからだ。けれどトラックの前に飛び出すことでプロポーズに成功するのなら、リスクテイクの価値がある。「僕は死にましぇん! あなたが好きだから!」
雨の日に傘をさすのは、風邪をひくリスクが怖いからだ。小学生男子が毎朝自宅でトイレを済ませるのは、学校の同級生から「う●こ」と呼ばれるリスクが怖いからだ。海産物の美味しさがわからない人は、生ガキを絶対に口にしない。メリットが無ければ、人はどんな小さなリスクでも避ける。
したがって「○○発電は自動車事故よりも安全だ」という主張は、○○発電のメリットが自動車と同じかそれ以上だと思っている人にしか通用しない。「○○発電」のメリットが分からない人には意味がない。
逆に言えば、「○○発電と自動車との比較」に納得してしまう人は、○○発電のメリットを信じている人:つまり「○○発電がなければ日本の産業界が競争力を失う」という“えらい人たち”の主張を信用している人だけなのだ。
「○○発電と自動車事故との比較」の説得力は、聞く人によりけりだ。「人による」としか言いようがない。



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       ◆




「人によりけり」と言うのなら、「じゃあお前はどうなんだ」という話になる。
私は「○○発電」の賛成派でも反対派でもない。というか、ぶっちゃけ些細な問題だと思っている。「○○発電」に賛成? 反対? 小せえな、あまりにも小せえよ。私たちはもっと大きな視野でモノゴトを考えるべきだ。



スマートグリッドによる分散発電の実現:これこそ私たちが目指すべき未来像だ。



現在の集約型発電には三つのデメリットがある。
一つは災害リスク。発電所周辺で災害があった際に、電力供給の途絶と深刻な電力不足に見舞われる。これは東日本大震災で現実のものになった。
もう一つはエネルギーのロスの大きさ。送電線は長くなればなるほど、失われる電力も大きくなる。集約型発電では大型発電所を僻地に作らざるをえないため、都市部までの送電線で膨大なエネルギーが失われる。これはコスト的にも環境的にも非効率だ。
そして最後の一つは電気料金の高騰。集約型発電を行う電力会社は地域の独占企業になりやすく、価格競争が生じない。その結果、電気料金はどこまでも吊り上がっていく。事実、日本の電気料金は世界でも最高レベルに高額だ。
これら集約型発電の欠点は、発電方式が火力だろうと水力だろうと同じだ。集約型の発電は20世紀の遺物なのだ。次の100年のために、私たちは分散型発電を実現しなければならない。
分散型発電とは、小規模な発電設備を消費地のそばに併設する方式をいう。有名どころでは六本木ヒルズコジェネレーション設備が思い当たる。六本木ヒルズでは「電力の地産地消」を行っており、排熱を給湯や空調に利用することでエネルギーのロスを最小限にしている。震災直後の電力不足の時には、周辺自治体へと電気を「出荷」していた。商用ビルではまだ珍しいけれど、大規模な製造工場などではすでに当たり前になっている技術だ。
このような分散型の発電設備をネットワーク状に結び、電力需要に合わせて電気を融通しあう――。それがスマートグリッドだ。情報技術の進歩が続く現在、技術的なハードルはもはや無いも同然。経済的にも優れているのは明らかで、実現を阻んでいるのは政治的な理由だけである。
スマートグリッドには三つの利点がある。
一つは災害に強いこと。発電設備をネットワーク状に結ぶことで、どこか一か所でトラブルが生じた際にも電力供給の途絶や電力不足が生じづらくなる。たとえば電話回線は震災の直後にパンクした。代わりにツイッターなどのSNSが連絡手段として大活躍した地震よりも「バルス」が怖いってどういうことだ)。ネットワークは簡単には落ちないのだ。
もう一つはエネルギー効率が良いこと。一般的に、発電設備は小規模になるほど効率が悪くなる。投入した燃料に対して得られる電力が減る。ではスマートグリッドでエネルギー効率が良くなるとはどういうことだろう。
六本木ヒルズの例を見ればわかるように、電力の地産地消をすれば今まで捨てていた熱エネルギーが利用可能になる。そしてなにより、人類がいつまでも火力頼みだとは思えない。遠くへと視野を向けよう。スマートグリッドが実現すれば、「不安定だ」とされていた風力・太陽光・地熱などの自然エネルギーを安定的に活用できる。気象条件による供給量の変動を、細やかな需給調整で補えるからだ。言うまでもなく、これらの燃料はタダ。さらに50年後、100年後にまで視野を広げれば、たとえば各家庭から排出された生ごみを発酵させ、得られたメタンや水素で燃料電池を動かすという「電力の自給自足」が可能になるかもしれない。そしてもちろん、こういう「家庭用燃料電池」もネットワークにつながっているのだ。スマートグリッドが究極まで進めば、光熱費は「人件費」だけになる。
最後の一つは、電気料金の低価格化だ。遠い未来に発電コストが著しく低くなることは分かった。しかしそれまで待たなくていい。わずかでも電力供給が分散されれば、電気料金は確実に安くなる。日本の電気料金が世界最高に高いのは、電気の質がいいからではない東京電力よりも関西電力のほうがスピーカーの音質が良くなるなんてオカルトだ)。誰が作ろうと電気は電気でしかない。言うまでもなく、地域独占企業が供給しているからこそ電気料金は高いのだ。発電が分散すると、それだけ電力供給者が増える。供給者の増加は競争を招き、価格を最適化――低下させる。神の見えざる手、万歳! そうですよね、池田●夫センセ? 市場競争があらゆるモノの価格を低下させることは、(その良し悪しは別として)あのマルクスでさえも認めていた。曲げようのない真実だ。供給者が増えれば価格は安くなる。電力も例外ではない。
超未来型の発電をいきなり実現させることは不可能だが、分散化がわずかに進むだけでも充分に意味がある。電力供給の競争により電気料金が下がり、日本の製造業・情報産業・あらゆる分野に恵沢をもたらす。日本の発展を阻害しているのは重厚長大な寡占企業だ。彼らが利権を保持しようと躍起になっているからこそ、この国の産業は莫大なダメージを受けている。大阪では橋本市長が「体制維新」を掲げて絶大な支持を得た。しかし本当に体制を改革しなければいけないのは政治の世界ではない。馴れ合いにまみれた経済の世界だ。
つーか、ここは電車のなかじゃねえんだ。
さっさと席を空けろよ、クソジジイ。




       ◆




震災の前、たとえば中国では日本製の粉ミルクが人気を集めていた。かの国の食品安全性に問題があることは、国民自身がいちばんよくわかっている。安心安全な日本製の粉ミルクが重宝され、お土産としていちばん喜ばれた。乳製品だけではない。日本は水産業が発達しているし、農業ならば高付加価値製品で世界と勝負しようとしていた。
しかし。
震災の直後、中国への日本製食品の輸入が禁止された。一年近く経ってようやく解除されたけれど、売上はまったく回復していない。新興国の食品業界という巨大な市場を、日本は一夜にして失った。これから伸びるはずだった市場だ。20年、30年つき合っていくはずだった市場だ。その損失はいったい何兆円、何京円だろう。中国の食品業界はほんの一例にすぎない。日本の工業技術は世界トップレベル――そんな信頼も地に落ちた。
識者がどんなに安全を訴えても、信用されなければ意味がない。「安全だ! 安全だ! 安全だ!」どんなに声高に叫んでもモノは売れないし、不安を取り除くことはできない。被災者は地元に戻れない。それでも一部の人々は言う:「安全だと言ってるだろ! 信じろよバカめ!」しかし相手をバカにする態度では、人の心は動かない。
この記事で紹介した「スマートグリッド構想」は、私のオリジナルではない。
小学生のころ読んだ本には、すでに登場していた。いまから20年近く前に、すでにあった考え方なのだ。にもかかわらず当時の大人たちは無思考・無関心をつらぬき、結果として事故が起きた。私たちの未来が毀損された。取り返しようのない大損害だ。当時の自称「大人」だった人々に、私は憎しみに近い怒りを覚える。
なにが大人だ、恥を知れ。
現在、ノマドな生き方が注目を集めている。住む場所を選ばず、国や企業に頼らずに、自分のチカラで生きていく――そんな生き方に、若い世代の多くの人が憧れている。つまり彼らは、もう「期待していない」のだ。国も企業も生まれた土地も、何一つ「よくなる」ことはないだろう。日本はもうダメだ。そんな諦念が彼らを突き動かしている。

「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
 ――村上龍希望の国エクソダス

いまの日本は終わってる。
















 ――それで、いいの?















たしかに私たちの年上世代は禍根を残した。
人口増加による経済発展を自分の手柄だと思い込んで、のんきに浮かれていた。自分が生きている間さえ幸せならいいという考え方で、消費生活を謳歌してきた。だけど本当にそれでいいの? 私たちもそんな大人になってしまって、いいの?
いまの子供たち。
生まれたばかりの姪や甥。
そしてまだ見ぬ子・孫たち。
私たちの「この国はもうダメだ」という絶望を、年下の世代に味あわせてはいけない。この時代の過去ログを読んだ100年後、1000年後の人々から「こいつらのせいで」と言われてはいけない。未来は私たちの手で創らなければいけないのだ。



人間にとって最大の罪は、想像力の欠如だ。
他者に対する想像力、社会に対する想像力、そして未来に対する想像力。そういう想像力の不足が、あらゆる不幸のみなもとだ。想像力の欠如は、ただそれだけで罪深い。将来に想いを馳せるのは人間だけに許された行為であり、未来へと想像力を働かせないのは、つまり人間性の放棄である。
「○○発電に賛成か反対か」――そんなの小さな問題だ。50年後には過去のものになっている議論だし、過去のものにしなければならない。集約型発電の時代は間違いなく終わる。しかし「いつ終わらせるか」は、私たち次第なのだ。
豊かな想像力を身につけるのに年齢は関係ない。人はいくつからでも、本当の大人になれる。「今がよければそれでいい」そんな想像力の欠如が、この国から希望を失わせた。それを再び取り戻すために、私たちは未来を想いたい。



これからの時代に想像力を働かせられる人。
それが「大人」の条件だから。





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