デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

困難な時代? いいえ、新しい時代です。

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr




ジュラ紀の恐竜たちが言いました。
「君たちの時代は寒くて大変だね」
氷河期のマンモスが答えます。
「あなたたちの時代は暑くて大変でしたね」




50歳〜60歳くらいのオジサマたちに言わせると、私たちがこれから生きる時代は「困難な時代」なのだという。
たしかに戦争の恐怖は遠いものになったが、いまの平和は一時的なものかも知れない。世界経済は爆弾を抱えた状態だ。自然災害に襲われる可能性だってある。グローバル化により多様な価値観が流入し、幸せになるための道筋が――つまり「物語」が見えなくなった。将来は不透明なのに、どういう生き方をすべきかの指針がない。「いい学校を出ていい会社に入る」だとか、「ノマドな人材になって国際的に活躍する」だとか、今までの「物語」が通用しなくなった。そういう物語が多くの人にとって実現不可能だということに、私たちは気がついた。
未来が見えないのに、頼るべき羅針盤がない。だから不安だ。困難な時代だ――。
と、オジサマたちは言う。


だけど、従うべき物語がないということは、どんな生き方をしてもいいということだ。
未来は真っ暗なのではなく、真っ白なのだ。私たちは好きな未来をそこに描ける。羅針盤なんて渋滞のもと。あらゆる物語がチカラを失った今だからこそ、私たちはゼロから「新しい時代」を創造できる。古い物語しか知らない人は、先の見えない不安な時代だと感じるのだろう。私たちは物語そのものを創りなおせばいい。
若い世代にはカネも能力もないが「未来」だけはある。
オジサマたちには想像もつかない未来を、私たちは創ろう。




       ◆




いま、国家や企業が「共同体」としての機能を失っている。あらゆる問題を“自己責任”で解決するにはカネが必要だ。が、そんな「強い個人」になれるのは、ごく一部の人たちだけだ。ヒトは一人では生きられない。私たちの多くは、国家や企業に代わる新たな帰属先を見つけなければいけない。
――という話を、以前にも書いた。


「あした死ぬかもしれない時代」に生存率を高める方法/共同体を取り戻すには……?
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20110920/1316523695


加えて、現在では新聞やテレビなどのマスメディアが急速にチカラを無くしている。スポンサーの意向には逆らえず、記者たちの馴れ合いがマスコミの政府広告化を招いた。大手報道機関が信頼できなくなった結果、言論のプラットフォームが無くなりつつある。
国家、企業、マスメディア。こういう「大きなモノ」の崩壊を目の当たりにすると、昭和20年代〜30年代生まれの方々は暗澹たる気持ちになるらしい。いままで信じていた「物語」が通用しなくなり、どうすればいいのか分からないのだろう。


若い世代を見くびるな。
今までの物語が通用しないなら、新しい物語を作ればいい。




       ◆




1.企業が頼れないなら、自分で稼げばいい。
企業が私たちを守ってくれないのなら、個人商として稼げばいい。
別に「みんな起業家になってバリバリ働け」と言いたいわけではない。
むしろ日本人は働きすぎなので、もっとのんびりすべき。退屈は創造性の土壌になる。現在、日本の1人あたりGDPは目も当てられないほど低いが、これは日本人が非生産的な仕事で忙殺されているからだ。日本人がもっとのんびりとヒマを持てあますようになれば、この国の生産性は飛躍的に高まるはずだ。


「とりとめのない夢想」と創造性
http://bit.ly/uu6AlF
※退屈はクリエイティブな発想を育む。


あらゆる労働問題の根源は、労働者側に稼ぐ能力がないことが原因だ。「日本の労働環境は劣悪だ、サービス残業は忌むべきだ」と言いながら「だけど雇ってください」と言うしかない。このチカラの差が日本人を非生産的な「労道」に縛りつけている。多くの日本人は親元を離れても経済的に自立できず、企業に依存している。
金額はわずかでもいい、1人ひとりが稼げるようになれば状況は劇的に改善するはずだ。
各人が個人商として自分1人の糊口をしのげるようになれば、雇用者側から無茶なことをいわれたときに「そんなん言うなら辞めます」と言い返すことができる。万が一リストラされた時の保険にもなる。日本人一人ひとりの経済的自立は、ストライキよりも遙かに根本的な解決策だ。


気が付くと個人事業主が凄い勢いで減少している件
http://kousyoublog.jp/?eid=2235


かつては「雇われない生き方」が当たり前だった。それがいつの間にか「働く=雇われる」という形式が定着してしまった。上記の記事でも「失業対策として法人への就職支援ばかりではなく個人事業開業支援にチカラを入れたほうがいいのではないか」と指摘している。
世の中の仕事の数は変えられる。仕事がないなら、仕事を作ればいい。失業者がいきなり事業を始めるのは難しいだろうが、たとえば「サラリーマンが副業からスタートして将来的に本業化する」というストーリーなら現実味がある。そうやって空いた席に、現在の失業者が座るのだ。
日本人の「個人商」化を果たすためには、最低でも簿記の知識ぐらいは小中学生のうちに身につけておきたい。学校教育に期待できないのなら、親世代の責任として教えるべきだろう。日本では、簿記は商学系の専門科目だと思われがちだ。しかしこのブログでは何度も何度も書いているが、簿記には500年以上の歴史があり、初等教育に組み込まれていた例は枚挙にいとまがない。「読み・書き・そろばん」というが、日本ではなぜか「そろばん」から簿記が抜け落ち、単なる算数だけになってしまった。
シマウマは草をはみ、ライオンは肉を食べ、ヒトはカネを稼いで生きている。
簿記を教わらない日本人は、狩りを教わらない獅子の子なのだ。飢えて当然だ。




2.国家が頼れないなら、仲間と助け合えばいい。
1991年のソ連崩壊により冷戦構造が解消され、世界は「大きな物語」を失ったと言われている。すべてのヒトは国家に帰属しており、国家を守ることが個人の安全と幸せにつながる:そういう物語が通用しなくなった。
奇しくも同時期に日本ではバブル経済が崩壊し、企業の終身雇用制度が揺らいだ。「いい学校を出て、いい会社に入る」という日本独自の「大きな物語」は、今から20年も前に失われた。「国家にも企業にも帰属できない」という状況がとっくの昔に生まれていた。
その後の20年は過酷そのものだった。
かろうじて帰属できた企業に必死でしがみつくか、どこにも帰属せずに生きていける強い個人になるか――。私たちは二者択一を迫られた。「企業」と「強い個人」を優遇することが社会全体の利益になると信じられ、そういう政策が次々に打ち出された。しかし景気が好転しても庶民の生活は楽にならず、社会の閉塞感は強まるばかりだった。
そしてリーマンショックをきっかけに幻想が暴かれた。
「企業」の利益は必ずしも社会全体には行き渡らず、また「強い個人」はほんの一握りの人々だ。カネもコネも経験もない人たちは、弱い個人のままグローバル化した世界と直面していた。「強い個人」という幻の裏側で、たくさんのチカラのない若者が放置された。再分配は政府の役割だとされているが、日本のそれは最悪レベルだと明かされた。
しかし「大企業による経済牽引」「強い個人としてノマド化する」という物語がハリボテだと暴露されても、それに代わる物語を私たちは持っておらず、嘘っぱちの神話にすがるしかなかった。
少なくとも去年までは。
2011年、国内では東日本大震災が起こった。強い個人はカネで共同体の機能を代替しているが、それは平常時に限った話だ。あらゆるシステムが停止する緊急時には、どんなカネ持ちも貧乏人も、等しく「個人」として協力しなければ生き残れない。寺の檀家仲間のような旧来のコミュニティが残っている地域ほど、非常時の「協力」がスムーズだった。私たちは「共同体」の必要性を再発見した。
また国外では様々な政変が起こり、弱い個人でも手を携えれば偉業を成し遂げられることを証明した。個人の「つながり」はチカラそのものなのだと、私たちは学んだ。
企業にしがみつく必要も、強い個人になる必要もない。そのことを私たちは去年一年間で学んだ。
大事なのは周囲の仲間たちとの協力体制を整備しておくことだ。



都市部ではルームシェアなどを通じた「ご近所づきあい」が復活している。
所属企業や出身地などによらない新しい共同体が都心で生まれつつある。私の友人には、同じマンションに住む同世代と醤油の貸し借りをするような人間関係を作っている人も少なくない。
面白いのは、1人での作業を好むクリエイターたちですら、若い世代では「近場の仲間」を大切にする傾向があることだ。わりと有名なところでは、池袋を中心にしたライトノベル作家のコミュニティが好例だろう。企業や職業の壁を越えた21世紀型のムラ社会が生まれている。
私の夢想する未来では、個人商となった日本人がそういう新しい共同体を生活の場としている。経済的に自立した個人の相互扶助の社会――未来型のギルド社会だ。
中世のギルドは職業別の既得権保持組織という側面が強かった。が、未来型のギルドでは職業や企業によらず、一緒に生活して心地いい人間たちで構成されている。その点ではギルドというよりも、ネットゲームのパーティに近いかもしれない。自活できる人間同士の緩やかな連帯。それが将来の私たちの生き方だ。




3.マスメディアが頼れないなら、直接対話すればいい。
そもそもなぜ言論のプラットフォームが必要だったのかといえば、「大きな物語」を守るためだ。原子力空母が来ればそれを批判し、日本企業が海外でのシェア1位を獲得したら手放しで褒める。そういう分かりやすい「正義・不正義」を共有するために、言論のプラットフォームは利用されていた。
しかし本来、「正義」は限られた人たちだけで決めるものではない。その社会に参加するあらゆる人たちの総意として、正義や倫理は規定されるべきだ。「正しいこと」をマスメディアが決めていた時代のほうが異常であり、「マスコミが無ければ衆愚に陥る」というのは、庶民をバカにしたエリートたちの傲慢である。なにが「正義」かを決めるのは、私たち1人ひとりでなければならない。
そのために必要なことが2つある。1つは、あらゆる人たちが直接対話すること。もう1つは、対話の成果を共有することだ。すでに技術的な制約はない。
たとえばNATOタリバンの広報がツイッター上で口論するというニュースがあった。米国の同盟国である日本では、「敵側」の生の声を聞くことは滅多にない。しかし、つい数年前までは決して言葉を交わすはずのなかった人々が直接対話し、その結果が世界中に公開される時代になった。マスメディアによる偏向はチカラを失い、私たちはこの世界の多様さを、多様なまま学ぶことができるようになった。


【バカ発見器】NATOタリバンtwitterでケンカしててワロタ 「馬鹿」「なんだと?」「黙れや」
http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51679207.html


多様な世界で、なにを「正義」とするのか。
それを決めるのは“偉い人”ではないし、“賢い人”でもない。みんなの意思だ。より多くの人の共感と理解を得た思想・価値観・考え方が、新しい時代の正義になる。
発達したネット社会のなかで、あらゆる意見は「よりたくさんの人に理解される」ことを目標に生存競争をしている(かのように見える)。ヒトは本質的に愚かかもしれないが、邪悪ではない。少数者を極端に迫害するような「考え方」には、かならず反対意見が現れて邪悪な思想を淘汰する。ヒトはそういう歴史を歩んできた。でなければ民主主義など生まれない。未来では、この過程が高速化するだけだ。
マスメディアによる言論の画一化は、情報の「共有・拡散」ができない時代には便利だった。
しかし現在のマスメディアは役目を終えて、むしろ私たちの価値観のブラッシュアップを阻害する存在になっている。考え方の多様性を確保し、それらを選択にかけることが、今後の「正義」の作り方だ。言論のプラットフォームの喪失は、私たち人類が進歩した証拠だ。




       ◆




大阪の橋下市長が当選したのは、みんなが破壊を求めているからだと私は思う。
古い体制の破壊、習慣の破壊だ。施政者である以上、橋下市長は破壊した後に新しい社会を作ることを求められる。しかし、誰もが納得する社会を構築できるのは、全知全能の存在だけだ。そんな人間はいないし、強権を振りかざす人は少しずつ支持を失いながら、最後には陶器の破片を投げつけられて退陣することになる。だがそれでも破壊がなければ新しいモノは作れない――大阪の人たちは、そういう判断をしたのだろう。
強いリーダーにできるのは破壊だけだ。
新しい時代を創るのは、私たち一人ひとりだ。



いま、既存のあらゆる物語がチカラを失い、私たちは道しるべを失った状態にある。大きな物語に慣れ親しんできた人たちにとって、これは不安で仕方ない状況なのだろう。
けれど物語が壊れたのなら、新しい物語を作ればいい。
見くびらないでほしい、私たちにはそれができる。
あなたと、私と、みんなで作るのだ。
企業が頼りにならないのなら、個人で稼げばいい。国家が頼りにならないなら、仲間と助け合えばいい。マスメディアが頼りにならないなら、直接対話をすればいい。仕事に追われることなく、気の置けない仲間たちとのんびりと暮らし、世界中の人と言葉を交わす。そんな素晴らしい未来を創ることも不可能ではない。
このアイディアは一例にすぎない。不勉強な私がぼんやりと思い描く未来像だ。未来は勝手にやってくるものではなく、あなたと私が創り出すものだ。悲観や虚無主義は何も生まない。あなたが「理想の未来」を胸に持てば、世界は変わる。
未来は真っ暗ではなく、どこまでも真っ白だ。
好きな未来を描こう。




スチームボーイ メモリアルBOX [DVD]

スチームボーイ メモリアルBOX [DVD]

フューチャー・イズ・ワイルド

フューチャー・イズ・ワイルド



.