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なぜ福島のコメを食べなければいけないのか/日本人の「責任」と「権利」

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被災地の農産物をめぐって、日本人の心が二つに引き裂かれている。
汚染を恐れる気持ちがある一方で、被災地の作物を避けるのは「風評被害」だ、けが人に鞭打つような恥ずべき行為だ――という空気が漂っている。病気や死を恐れるのはヒトとして当然だ。が、「不正義なことはしたくない」という気持ちも私たちは持っている。こうして私たちの心は矛盾を抱え、東北の農産物を食べるべきか――食べる責任があるかどうか、わからなくなってしまう。
この矛盾が個人の心に収まっているうちはいい。が、個人の葛藤は行動の差となり、人間関係に暗い影を落とす。


レインマンになった嫁と暮らす
http://anond.hatelabo.jp/20111115103802


こちらの記事では、汚染を極端に恐れる妻と、彼女をうまく説得できない夫の困惑が記されている。夫婦、親子、友人関係――。心の矛盾が原因で、衝突を避けられないこともあるだろう。白黒つけるのが苦手で本質的な議論ができない。そんな日本人にとって、これは強烈なストレスだ。汚染を恐れる人を「放射脳」と罵り、恐れない人を「リスクを過小評価した自殺志願者」だと嘲笑う。心の矛盾はあっという間に、いがみ合いに変わる。本来なら手をたずさえて解決すべき問題なのに、私たちは簡単に分断されてしまう。


農家の婿のブログ
http://ameblo.jp/noukanomuko/


現地で農業にとりくむ人の声――悲鳴のような声を聞くと、私たちの良心が痛む。応援しなければ、と素朴に思う。しかし一方で、やはり汚染は怖い。そこで煙草や交通事故のリスクと比較して、私たちは安心しようとする。
だが、タバコを比較対象にするには、そもそもタバコのリスクを正しく理解していなければいけない。私たちは本当にタバコの危険性を熟知しているのだろうか。私たちのうち、いったい何人が呼吸器科の医者並みの知識を持っているのか。


放射能とタバコのリスク比較はよい手段ではない
http://d.hatena.ne.jp/Lhankor_Mhy/20111117/1321535886


こちらの記事では、煙草が“身近”だから安心しているだけではないか、と問題提起している。



汚染のリスクを正しく評価するためには、二つの能力が必要だ。ひとつは正しい科学知識、そしてもう一つは優れたリスク計算能力だ。簡単に言えば、物理学と農学の博士号を持つ保険屋でなければ、汚染のほんとうの怖さは測れない。そんな人材はごく稀だ。ほとんどすべての日本人は、リスクを正確に把握できないまま汚染と付き合っていかなければならない。
私たちは専門知識もすぐれた頭脳も持たない、ずぶの素人だ。
凡人たる私たちは、どうやってこの問題に向き合えばいいのだろう。




     ◆ ◆ ◆




つい最近、丸山眞男『日本の思想』を再読した。この本を初めて読んだのは高校生の頃で、当時から単細胞だった私は強烈な影響を受けた。この本のなかに『「である」ことと「する」こと』という章があり、私たちの持つ「権利」の性質を説いている。


日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)


民法144条以下には「時効」が定められている。
人からカネを借りて10年間取り立てがなければ、借金を帳消しにしていい。他人の土地に勝手に家を建てて20年間立ち退きを要求されなければ、その土地を自分のものにしていい。これが民法の定める「時効」だ。
もちろんカネを貸した側の人は“債権”を持っていたし、土地の持ち主は“所有権”を持っていた。しかし取り立てをせず、立ち退きを要求しなかった――つまり権利を主張しなかった。その結果、権利そのものが無くなってしまったのだ。債権者であるなら、債権者としての行動をする必要がある。土地の所有者という立場に安心して何もしなければ、所有権を失って当然だ。



権利の上に眠るものは保護しない:これが民法の思想だ。



「○○である」という立場は○○らしい行動をすることで初めて実現される――これはなにも「権利」に限った話ではない。「上司である」という立場にふんぞり返って上司らしい行動を取らなければ、部下は誰もついてこない。「夫婦である」という立場に安心して夫婦らしい行動をしなければ、それは離婚に繋がる。「友だちである」という立場に甘えていれば、すぐに友情にヒビが入る。私たちの「○○である」ことは、何か行動を「する」ことで初めて実現される。
少なくとも現代の社会は、そういう思想のもとに運営されてきた。だからこそ民法には「時効」がある。




       ◆




汚染された農産物について、被災地の自己責任を唱える人がいる。
事故のリスクがあることは以前から分かっていたはずだ。にもかかわらず誘致して、今まで補助金を受け取ってきた。だから実際に事故が起きて汚染が広がったとしても、それは誘致した被災地の責任だ。被災地の住人ではない自分には関係ない――これが被災地責任論だ。
この被災地責任論は、そのまま「被災地の作物を食べない理由」に転用される。被災地の農業・漁業が風評被害にあったとしても、それは被災地の責任だ、と。
ヒトは追いつめられると、開きなおる生き物だ。
マスメディアにせよネット上の識者にせよ、声高に「風評被害」を訴える。しかし一方で、汚染を恐れる気持ちは誰にでもある。とくに小さな子供を持つ親たちの不安たるや、筆舌に尽くしがたいだろう。わずかでも汚染のリスクがあれば、子供たちには食べさせたくない。しかし、被災地の作物を避けるのは「よくないコト」だとテレビは言う。自分と世間――二つの価値観に挟まれて、開きなおるしかなくなる。自分は被災地の作物を避けるけど、なにが悪いの? 悪いのは自分じゃない、あいつらだ!


だけど、少し待ってほしい。
私たちは本当に、被災地に対して責任を負っていないのだろうか。
事故から半年以上が過ぎ、様々な事実が明るみに出た。ずさんな管理、いい加減な基準、そして噴飯モノのあんぜん神話――。それらを調査・検証する「権利」を、私たちは持っていたはずだ。
では私たちは、その権利をきちんと行使していただろうか。
政府と企業に任せっぱなしにして、彼らの口にする「神話」を信じこんでいた。疑いのまなざしを向けるのは一部の“反対派”に任せてきた。ほんの少しずつでもいい、私たち一人一人が「監視する権利」を行使していれば、事故は起こらなかったかも知れない。けれど私たちはそれをしなかった。電力に支えられた都市生活を謳歌しながら、権利の上に惰眠をむさぼっていた。



そして事故は現実のものになった。



行使すべき権利を私たちは放棄して、その結果、事故がおこった。「私の責任じゃない」なんて言う“権利”は、私たちにはない。私たち一人一人に(多かれ少なかれ)事故の責任がある。この国は民主主義国で、私たちは選挙権と言論の自由を持っていた。しかし、私たちはそれらを使いこなせなかった。「難しいことは考えたくない!」と、耳をふさぎ、目を閉ざしてきた。


権利の上に眠るものは保護するに値しない。
事故の責任。
被災地を助ける責任。
日本国民すべてが、その責任を負っている。




       ◆




問題は「責任の果たしかた」だ。
被災地の農産物を食べることだけが、「責任の果たしかた」ではない。なにより、事故に対する責任の大きさは人によって違う。自分の負った責任の「大きさ」を見極めることが重要だ。負った責任の大きさによって、果たすべきものの大きさも変わる。義援金を贈る、ボランティアに参加する、避難した人を受け入れる――等々、責任の取りかたには様々な方法がある。
だから被災地の作物を食べたくないなら食べなくてもいいし、逆に応援の気持ちを示すのにいちばんだと思うなら、ぜひ食べてほしい。



あなたは、あなたができる方法で責任を果たせばいいのだ。



地震と事故は、この国に大きな傷跡を残した。時間が経つにつれ印象が薄れていくけれど、当時の不安を、心細さを、怒りを、私たちが忘れることはないだろう。震災の直後こそ、助け合う日本人の姿が世界中から礼賛された。しかし、今の私たちはどうだろう。ちょっとした考え方の違い、行動の違い、そんな些細なことでいがみ合い、罵詈雑言をぶつけ合っている。あの時の連帯と協力は、どこに行ってしまったのか。
言うまでもないが、震災はまだ終わっていない。
被災地の復興はまだ始まったばかりだし、事故の処理は終わっていない。気に入らない相手とも協力しなければ解決できないぐらい、この震災の影響は深刻だ。
なにより、いちばん大きな責任を負っている人たちが、まだきちんと責任を果たしていない。彼らが最後まで責任を取るかどうか――それを監視することも、私たちの果たすべき責任だ。


権利の上に眠るのは、もうやめよう。
つまらないことでいがみ合うのは、もうやめよう。
そして、震災直後の恐怖と不安を覚えていよう。
いちばん責任のある人たちのことを、覚えていよう。


私たちには、その権利があるから。









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