デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

スケール感の違いを理解すれば誰とでも会話ができる/尺度の差に現れる個性

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現世人類(ホモ=サピエンス)は過去に三回の大躍進を経験しており、1度目は五万年前ごろの氷河期のさなか、2度目は一万年前の農耕革命、3度目は4000年前の法典の発明だ――というエントリーを書いたところ(→こちら)、活版印刷の発明はどうなの?というご指摘をいただいた。


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活版印刷は1400年代中頃にドイツの技術者J.グーテンベルクにより発明された。それ以前、書物は手書きの写本がほとんどで、一部の知識階級に独占されていた。田舎では“文盲の牧師”なんてのも珍しくなかったらしい。聖書が読めないのにどうやって説法をしていたんだろう。ともかく活版印刷の発明により書物はあらゆる人の手に渡るようになり、イタリアン・ルネサンス宗教改革産業革命と続く大きな歴史の流れの端緒となった。活版印刷は過去4000年の歴史のなかで、もっとも偉大な発明の一つと言っていい。
しかし視点を広げてみるとどうか。過去25万年には、より大きな変化を人類は経験している。歴史や文明の変化という言葉では足りない、“ヒトの生態”が変わってしまうほどの変化だ。


たとえば現在の言語の起源は、現生人類が“出アフリカ”を果たした10万年前〜5万年前ごろにさかのぼる。また、7万年前から1万年前までは最終氷期が地球を雪で覆っていたが、人類が衣服を身につけるようになったのはこの頃だ。それ以前の人類は裸で生活していた。
言語を持たず、衣服も着ないのであれば、人間は“毛の薄いサル”でしかない。毛の薄いサルが言葉を話し、衣服を身につけるようになった――これを大躍進といわずして何と呼べばいいだろう。
一万年前の農耕革命も同様だ。それまでの狩猟・採集を中心とした獲得経済から、農耕・牧畜による生産経済へと移行した。ヒト以外でこのような生産活動を行う動物としては、ハキリアリの例が有名だろう。彼らは蟻塚の中に木の葉を集め、キノコの仲間を“栽培”することが知られている。生産活動はヒトだけに特別な行動ではない。とはいえ珍しい例であることは間違いなく、獲得経済から生産経済への移行は、まさに“生態の変化”と形容するにふさわしい。二回目の大躍進である。
さて、同じように生産活動を行うヒトとハキリアリだが、その社会には大きな違いがある。アリの社会は、一匹のメスから生まれた働き蟻により構成される大きな一つの家族だ。アリだけではない。群れで生活する動物は多いが、そのほとんどは濃い血縁関係で結ばれた親戚縁者の集まりだ。家族的な単位で縄張りを作って生活している。
ところがヒトの群れはこうした縄張りの壁を取り払い、より大きな社会を作った。これは生態の変化だ。この変化を支えたのは文字の発達と法典の発明だった。
たとえば、もしも狼の群れがある日とつぜん群れの枠組みを取り払い、巨大な社会を作ったとしたら――動物学者たちはとんでもない異常事態として記録するだろう。
ヒトはそれをやってのけた。
だからこそ法典の発明(に象徴される国家の誕生)は、三回目の大躍進なのだ。


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以後の4000年間、人間の社会体制はさまざまな変化を遂げてきた。しかし生態の変化と呼べるほどの変化は経験していない。生産活動をせずに社会を統治する“支配者”層と、生産活動にいそしむ“被支配者”層がいて、それらを支える無賃労働者――奴隷がいる。この構造は過去4000年間で変わっていない。
古代ギリシャでは“貴族”たちが都市国家を支配していたが、彼らは他国からの侵略を防ぐ戦闘集団だった。やくざの親分たちが自分たちのシマを守る代わりに手下からアガリを受け取っていたのだ。その後、生産活動に従事する平民たちがチカラをつけてギリシャ民主制が誕生するのはご存じの通り。この社会を支えたのは敗戦国の住民――奴隷という名の無賃労働者たちだった。以後、貴族・王族による支配の時代が長く続く。血縁による統治の時代だ。
現在では世界の多くの国で、資本主義化と民主化とが達成された。しかし“支配者”“被支配者”“奴隷”の構造は変わっていない。中世の血縁による統治から、カネ持ちによる統治へと、支配者層の首がすげ変わっただけだ。
中世の頃は、たとえカネがなくとも家柄さえよければ社会への影響力を持つことができた。たとえばイタリアン・ルネサンスを先導したメディチ家の場合、絶世期はロレンツォ=メディチの代であり、華々しいフィレンツェの文化をはぐくんだ。が、当時のメディチ家は財政的にはすでに落ち目にだったという。当時はカネ以上に家柄が大事だった。
しかし民主化により血筋の縛りが無くなると、社会は、より直接的・具体的影響力のあるもの――カネのチカラに左右されるようになった。民主化と資本主義化は両輪となって、支配層の入れ替わりをもたらした。
また歴史の影で、奴隷制度は通奏低音のように人々の暮らしを支えていた。大航海時代とその後のヨーロッパ列強諸国の繁栄をもたらしたのは、植民地での奴隷労働である。奴隷制度そのものは南北戦争の終結により無くなった。が、それで無賃労働がこの世から消えたわけではない。そう、家内労働だ。先進諸国の高度成長を支えた専業主婦は、20世紀の幸せな奴隷である。
有史以来4000年間、社会構造は大きな変化を遂げた。が、それらは“生態の変化”まではもたらさなかった。土地に基づく“国家”のなかで、家族的な群れではなく、より大きな社会を作って生活する――この4000年間、ヒトは同じ生態を維持してきた。


この4000年間のことを、私は“加速の時代”だと考えている。知識の共有が進み、人類の文化・文明がめざましい速さで発展した。その中で活版印刷の発明は、確かに注目に値する変曲点だ。ちょうどロケットが1段目のエンジンを切り離すのに似ている。2段目のエンジンに点火して、軽くなった機体を一気に加速させる――その火口になったのがグーテンベルグの活版印刷の発明だ。
そして今まさにヒトは大気圏外へと脱出しようとしている。


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歴史のどこを“大きな変化のあった時”とするかは、その人の価値観による。“過去三回の大躍進”は、そのうちの一説に過ぎない。午前零時になっても今日と明日の境目が見えないように、歴史の変曲点には色がついていない。
過去4000年の歴史だけに着目すれば、“大躍進”と呼ぶべき事件は他にもたくさんあるだろう。ゲルマン民族の大移動だとか、鎌倉幕府の成立、フランス革命大政奉還――歴史にはたくさんの変曲点がある。
ところが45億年の生命の歴史から見れば、どれも些末な変化でしかない。22億年前の真核生物の誕生や、6億年前の多細胞生物の誕生――25万年の現世人類の歴史なんて、ほんの一瞬のできごとだ。人類には地球環境を変えるチカラがあると言うが、うぬぼれてはいけない。この星の大気に酸素をもたらしたのは先カンブリア時代のシアノバクテリアだが、当時の彼らに比べれば、人類が地球環境に対して持てる影響力など、たかが知れている。


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このような価値観の違いが、スケール感の違いだ。
「人類の歴史」という言葉を聞いた時に、直近4000年のことを思い浮かべるか、それとも数百万年に思いを馳せるかの違いだ。このスケール感がズレていると、しばしば会話が成り立たなくなる。
こうしたスケール感の違いは、なにも歴史の話に限ったものではない。


たとえば「金銭感覚」ならどうだろう。
小学生の頃の私は1万円あれば何でもできると思っていた。お小遣いは毎月学年÷2×1,000円で、ミニ四駆の部品のぼったくりな価格設定に泣かされていた。社会人になった今、1万円では何にもできないと知った。
あるいは6億円という金額を思い浮かべてほしい。一般人からすれば想像を絶するような大金だ。中小企業の社長なら“我が社の年商”だと感じるだろう。そして一部上場企業の財務担当者なら、「毎月そのぐらいの額の伝票を切ってるわー」と返事をするはず、たぶん。/また、日本の犯罪史上6億円は強盗の最高金額だ。この強盗事件のニュースを聞いたとき、「とんでもない事件が起こったね!」と私が言ったら、親友のMは「大した額じゃなくね?」と返事をした。じつは彼は米国テキサス州ダラスの出身で、6億円ぐらいの強盗では驚かないのだ。テキサスこえー。


あるいは「時間感覚」ならば:子供のころは一日がすごく長かったが、大人になった今はあっという間に過ぎていく。同じ社会人でもサラリーマンとフリーランスでは時間に対する価値観がぜんぜん違うし、フリーターニートなら、なおさらだ。
こういう例は枚挙にいとまがない。
「1アンペアと100Vのどちらに恐怖心を覚えるかで、その人が理系かどうか分かる」と豪語する友人もいる。


つまり「どのようなスケール感を持っているか」は、その人のバックグラウンドを示しているのだ。
会話の通じない人と出会ったら、まずは相手のことをよく理解しなさい――と、よく言われる。しかし具体的にどのような点に着目すればその人のことを理解できるのか、あまり教えてもらえない。
しかし、相手の「スケール感」を知ることは、その人を理解する第一歩になりうる。また誤解の原因が(相手が分からず屋なのではなく)スケール感のズレによるものだった――なんてコトも少なくない。会話が噛み合わない時は、まずは互いのスケール感を確認することから始めるといい。


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以上、とてつもなく長い前置きとありきたりな結論をもって今回のエントリーを締めたいと思います。お読みいただき、ありがとうございました。まあ本題よりも余談が長くなるのはよくあるコトなんですが。








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