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もう二度と読みたくない本10冊

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ある事情で「愛読書」と「もう二度と読みたくない本」をそれぞれ10冊ずつ選ぶことになった。愛読書編はすでに書いた(→こちら)。今回はその後編。読みたくない本のほうが、選ぶのが難しかった。本当に学ぶところのなかった本はそもそも記憶に残らない。そのため二度と“読みたくない”ではなくて“読まない”のだ。忘れちゃうから。
だからここでは、一読しただけでは面白さを理解できなかった本や、一読でだいたい読書の目的を果たせてしまった本をあげたい。ここに名前があるからって駄作というワケではなく、むしろ一癖も二癖もある良著たちだ。





1・橋爪大三郎『はじめての構造主義

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)


2・森田正人『文系にもわかる量子論

文系にもわかる量子論 (講談社現代新書)

文系にもわかる量子論 (講談社現代新書)


3・伊藤真伊藤真の日本一わかりやすい憲法入門』

伊藤真の日本一わかりやすい憲法入門

伊藤真の日本一わかりやすい憲法入門


新書の限界を感じた3冊。何かを学ぶつもりなら、素直に教科書を開いたほうが効率がいい。新書ではどうしても「はしょる」部分があり、それが理解の妨げになる(こともある)。たとえば「生物と無生物のあいだ」を本気で学びたいのなら、Molecular Biology of the Cellあたりを読んだほうがいい。


参照)一人で読めて大抵のことは載っている教科書 -読書猿Classic: between / beyond readers
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-65.html
※高校生〜大学学部生ぐらいにオススメの教科書がずらり。この人マジで何者なんだろ……。


私の中では、新書は「まったく新しい分野に踏み込むときの第一歩」という位置づけだ。その業界の常識を作った人物・書籍・論文が紹介されているため、「次になにを読めばいいか」がすぐに分かる。逆にいえば、すでに予備知識のある分野では、こういうリファレンス的な使用目的を果たせず、満足な情報を得られない。
それでも何か知らないことを知りたくなったら、本屋の新書コーナーに足を運んでしまうんだけどね! とくに、調査にもとづく「時事ネタ系ノンフィクション」は新書の強みだ。教科書では速報的な情報をカバーできない。




4・『サクッとうかる』シリーズ

サクッとうかる日商2級商業簿記テキスト

サクッとうかる日商2級商業簿記テキスト


5・『新スーパー過去問ゼミ2・会計学

公務員試験 新スーパー過去問ゼミ2 会計学[改訂版]

公務員試験 新スーパー過去問ゼミ2 会計学[改訂版]


「経理」はヒトのする仕事ではない。あぁ言ってしまった(笑)
貨幣が電子化された100年後には無くなる仕事だし、1000年後には貨幣制度そのものが残っているか分からない。だから仕事上の必要にかられなければ、この二冊も読まなかった。
社会人になるまで会計のカの字も知らなかった私は、手っ取り早く知識を吸収するために公務員試験の参考書を選んだ。教養レベルの知識ならこれで充分だ。本気モードで勉強するなら上述のような教科書を選ぶべきだろう。しかし「他人の作った数字をこねくり回しておまんま食べる」という仕事に納得できず、いまいち本気になれなかった。ルール通りに数字を管理する? コンピューターにやらせりゃあいいじゃん……。
会計学人智の結晶だ。かのゲーテも『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』という小説のなかで「人間精神の生んだもっとも美しい発明品の一つ」と述べている。複式簿記の誕生はルネサンス期のイタリアにさかのぼる。ヴェニスの商人たちは活発な経済活動を発達させ、そろばんしかない時代に「間違いなく数字を管理する方法」を編み出した。それが簿記だ。
しかし電算機の発達した現代、数字の管理は飛躍的に簡単になった。中世の、筆算に使う紙が高価だから地面で計算していた時代とは違うのだ。コンピューターは今後ますますハイスペックになり、数字の管理はさらに簡単になっていくだろう。時代の流れから言って、会計の仕事はどんどんヒトの手を離れる傾向にある。にもかかわらず、いまでも「数字の管理」の専門職が存在するのはなぜだろう。それは会計制度が複雑怪奇で、専門知識を要するからだ。じゃあ、嫌がらせのように難しい会計制度をデザインしているのは誰か:会計士たちである。なんというマッチポンプだろう。会計なんてもっとシンプルにできるはずだが、会計士と税理士の職を守るためにあえて複雑なまま放置されている。
――なんて文句を垂れつつも、まあ。会計学はこれからも勉強しなくちゃいけないんだろうなぁ。。。今はまだそういう時代だもんなぁ。。。仕事もあるしなぁ。。。




6・森博嗣『S&M』シリーズ

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)


小説に求めるものは人それぞれ違う。私の場合、登場人物に感情移入してそのキャラの経験を追体験するのが小説の楽しみ方だった。こういう楽しみ方をする読者を相手にすると、「天才」を描くのは難しくなるようだ。そのキャラが人並み外れた頭脳を持つがゆえに、読者は感情移入しづらくなるからだ。例えばホームズ・シリーズでは、ワトソンという感情移入しやすいキャラを語り手にすることでこの問題を解決している。ところが森作品では、しばしば「天才だけしか登場しない」ことがよくある。大金持ちであったり特殊な習慣を持っていたりと、どの人物も感情移入を拒むような描かれ方をしている。
以前、はてな匿名ダイヤリーの記事で、一般文芸とライトノベルとの違いを分析したものを見かけた。(ほってんとりにもなっていたのだが、ざっと検索しただけじゃ見つけられなかった)/いわく一般文芸では登場人物に感情移入させるのが普通であり、一方、ライトノベルでは特徴豊かなキャラクターを登場させ、彼らの活躍を「外から眺めて楽しむ」のが普通だそうだ。もちろん例外も多々あるはずだが、この意見に私もおおむね同意だ。
森作品のキャラクター造形は、どちらかといえばライトノベル的だといえる。それに気付かず(それまでの読書経験にもとづいて)私は一般文芸として楽しもうとしてしまった。そのためキャラクターに感情移入できずに「置いてけぼり感」を覚えたのだ。どんな作品にも、それをいちばん楽しめる「楽しみ方」がある。それを教えてくれたのは私が小学六年生の時に刊行された『すべてがFになる』だった。
言うまでもないけど、ミステリーとしてはどの作品も一流。
なお、著者の作品で私がいちばん好きなのは『女王の百年密室』だ。登場人物のアイデンティティが問い直される結末では、「キャラを外から眺めさせる」という彼の筆致がみごとに活かされていた。



7・ブコウスキー『勝手に生きろ!』

勝手に生きろ! (河出文庫)

勝手に生きろ! (河出文庫)

自虐ネタ・コメディとして楽しんだのは以前にも書いたとおりだ。
(※こちらの記事を参照:オタクのいと高う降りたるを/すべての文学はコメディである、かも。
上記S&Mシリーズと同じく、楽しみ方をきちんと知らなければ楽しめないということを再確認させてくれた作品。刊行当時の米国の風俗・流行をきちんと調べたうえでもう一度読み直したい。(あれ? 二度と読みたくないはずじゃ……)




8・伊坂幸太郎『重力ピエロ』

重力ピエロ (新潮文庫)

重力ピエロ (新潮文庫)


(エンタメ的に失敗している例・1)
この作品は「連続放火犯を捜す」というメインプロットの背後に、「特殊な経歴をもつ人物を家族が受け入れる」といサブプロットを持っている。だからこそ、「レイプされた妻を父親が受け入れる過程」を、きちんと描くべきだった。「神様に聞いた」という一言で済ますのは、作家として逃げている――と批判されてもしかたないだろう。
なぜ伊坂幸太郎は「父の心情の変化」を詳細に書かなかったのだろう:彼の作品の魅力は「息もつかせぬストーリーテリング」にある。父親が妻を受容する過程を描くと、どうしても冗長になると判断したのかもしれない。彼の美学が「まだるっこしいシーン」を書かせなかったのではないだろうか。
伊坂幸太郎は、作品のエンタメ色が強くなればなるほど輝く作家だ。とくに『グラスホッパー』のスピード感はすばらしいと思う。




9・村上春樹1Q84

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1


(エンタメ的に失敗している例・2)
的外れな書評だと分かったうえで書きます。(だってこの作品、エンタメじゃないからね!)
刊行直後から「村上春樹がエンタメを志向に!」と話題になった本作。しかしエンタメ作品として評価するとかなりヤバイ。伏線の処理がまずいし、登場人物の行動にも説得力がない。
ミステリーテイストな書き出しから物語が始まるのは彼の作品の特徴だが、今まではすぐに“春樹ワールド”とでも呼ぶべき魅惑的な世界感へと読者を引きずりこんでいた。が、本作では(ときに行き当たりばったりですらある)彼の自由な物語展開を抑えて、あえて最後までパラレルワールド・サスペンスとして描こうとしている。
この作品では、「天吾の世界」と「青豆の世界」とが微妙にズレている。しかもどちらの世界も読者の属する「現実の世界」ではない。つまり読者は三つのパラレルワールド(現実・天吾・青豆)を意識しながら読むことになる。エンタメを志向するならば、読者に「三つの世界がありますよ」と解りやすく伝えるべきだった。そうしなければ、「天吾の世界と青豆の世界がパラレルワールドになってしまったのは伏線を処理しきれなかったからだ」と判断されてもしかたがない。作者の力量が足りないために、二つの世界がきちんと統一できずに分裂してしまった――ようにすら見える。(あの村上春樹が力量不足? まさか!)
また登場人物の行動にも説得力が弱い。なぜその人物がその行動を取るのか明示されない部分がいくつも見受けられ、そのたびに読者は「これはフィクションである」と再認識させられる。2巻の終盤、天吾がなんとなく駅に行って理由もなく「父に会いたい!」と自覚するシーンでは失笑を禁じ得なかった。あぁ、やっぱり春樹先生はこうでなくちゃ!
驚くほどリアルで生々しい文章は、さすがの一言。著者の作品では『ねじまき鳥クロニクル』の生きたままヒトの皮を剥ぐシーンがトラウマ。しばらく夜の寝付きが悪くなった(笑)





10・広辞苑

広辞苑 第六版 (普通版)

広辞苑 第六版 (普通版)


ある大学でイスラム教についての講義を行うことになった。講師としてイラン人の牧師を呼んだのだが、彼はコーランを持ち歩いていなかったという。不信心だったのではない。一言一句漏らさずコーランの内容を暗記していたため、持ち歩く必要がなかったのだ。
やっべ、超かっこいい! こういう人間離れした記憶力って厨二心をくすぐる!
辞書は、文章を書く人間にとっての聖典だ。そういえば三島由紀夫の愛読書は国語辞典だった、なんて逸話を聞いたことがある。都市伝説っぽいけど本当なのかな。この話を真に受けた高校時代の私は、広辞苑・第五版の通読に挑戦した。や行の途中までは読破できたけれど、あと一歩のところで心が折れてしまった。
辞書の内容を丸暗記できれば、もう二度と広辞苑を開く必要もない。それぐらいの国語力が欲しいなぁ。そういう意味で広辞苑はもう二度と読みたくないネ、もっと賢くなりたいネ!