デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

誰にでもわかることの大切さ

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こちらのピクトグラムは、言わずと知れた非常口のマークだ。もともとこのマークを作ったのは日本人で、そこから世界に広まった……という話を聞いたことがある。「日本発祥」という説は都市伝説かも知れないけれど、このマークが世界中で使われているのは確かだ。その国の言語を知らなくても、この絵を見れば何となく脱出口っぽく見える。イラストが言語の壁を越える好例だろう。


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先日のエントリーで「100万人が面白いと言った作品のほうが、少数の“えらい人”が面白いと言った作品よりも、面白さの確度が高い」と書いた。(元記事はこちら)すると「売れた作品しか面白くないという考え方は間違っている」という意見を頂戴した。
ご指摘のとおり、売れなかったマイナーな作品であっても、ある人にとっては大切な忘れられない作品かもしれない。売れない=面白くないという考え方は間違っているし、私が先日のエントリーで主張したかったことともずれる。
「面白さ」は主観的な感情なので、本来は売り上げやその他諸々の作品の外部領域とは無関係だ。あなたが面白いと感じた作品は、間違いなく面白い。それは誰にも否定できないし、否定されてはいけない。しかし、そういった主観的な感情を、さも普遍的な真実であるかのように語るのはどうだろうか。少人数のごく個人的な感想を、権威化するのはいかがなものか。張り子の虎は、きちんと「張り子だ!」と批判されるべきだ。
マイナーだけど好きでたまらないモノは誰にでもある。かつて私は大暮維人魔人〜DEVIL〜』というマンガが大好きだったのだが、あっという間に終わってしまって悲しかった。またマイナーと呼ぶには有名すぎるけれど、ゲーム『パンツァードラグーン』シリーズを私は愛している。サントラや設定資料集を買いあさる程度には熱を入れている。『パンドラ』シリーズはかなりの本数が売れた名作だけど、ドラクエやFFと比べれば大したことはない。それでも私にとってはスーパーマリオよりもテトリスよりも「面白い」作品だ。「面白さ」はどこまでも主観的な感情なのだ。
ところが、この主観的な感想を一般的なものとして主張するなら話は別だ。人の命に重軽がないように、人の主観にも「偉い・卑しい」はないはずだ。にもかかわらず、ある人の感じた「面白さ」だけが尊重されるなんておかしい。平たくいえばやっているコトは同じオタクなのにお前らだけ権威化されているなんてズルイのである。
とくにアカデミックな場で発言するのであれば、その内容はできる限り一般的・普遍的でなければならない。それが“理性的な”論考の条件だ。そのためには、主観的な感情である「面白い」を、客観的な数値に変換しなければいけない。そして“人数”ほど合理的な――客観的かつ観測しやすい数値を、私は他に知らない。
なにかの面白さを語るなら、その感想が全員に伝わると思ってはいけない。たとえば私は以前から「桜庭一樹の描く少女性とは、男女の非対称な関係性に生じる『守られたい願望』である」と指摘している。が、この意見が普遍的なものだとはこれっぽっちも思っていない。100人いたら30人程度にしか同意してもらえないと思っているし、もしも半分以上の人にうなずいてもらえたら御の字だ。こういう「同意してもらえる範囲・割合」を意識しなければ、ファミレスでキモオタがくだを巻いているのと変わらない。くだを巻くだけならいいけれど、それが権威化されて金儲けの道具になるのは見るに堪えない。主観を語るのが即座に悪いことだとは思わないけれど、「何パーセントの人から共感を得られるか」は常に考慮するべきだろう。


だから本当は、問題の建て方そのものを問い直すべきなのだ。批評家の多くは「その作品はなぜ面白い(と私は感じた)のか」という問題設定から思考をスタートする。しかし本当なら「その作品がみんなの心を掴んだのはなぜか」という疑問から考え始めるべきなのだ。それがヒトを理解するための第一歩になる。
文学が創作物を介して「人とは何か」を問い直す学問であるかぎり、問題の建て方にも注意しなければいけない。


非常口のピクトグラムが世界中で使われるようになったのは、言葉の壁を越えて誰の目にも明らかなメッセージを与えてくれるからだ。「誰にでも通じること」は本当はすごく尊い。逆に、自分の言葉だけしか話さず、その言葉を理解できない人間を排斥するのは、傲慢で幼稚な態度だと言うよりほかない。







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