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『あの花』は岡田磨里さんが『けいおん!』を書こうとした結果なのではないか、という仮説。

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「C」第2巻<Blu-ray>【初回限定生産版】

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『C』のシリーズ構成が完璧すぎて舌を巻く。陰鬱な日常からとんでもないコトに巻き込まれていく序盤、そして伏線を張りながら謎を膨らませる前半。そういう伏線を回収しながらクライマックスに向けて盛り上げていく後半――。王道な展開は、優れているからこそ王道たりうる。やっぱり面白いや。
その一方で、『あの花』の展開がいまいち腑に落ちない。
たしかに毎回うるっとするし面白い。面白いのだけど……なんだか毎週同じものを見せられているような気がするのだ。『C』のような王道展開がフレンチのフルコースなら、こちらは金太郎飴みたいな印象。どこを切っても、似たようなシーンが続いていく。
力不足の脚本家はしばしばこういうミスを犯す。例えば邦画界の【検閲削除】さんや【自主規制】さんとか。似たりよったりのシーンを垂れ流しにする。
が、岡田磨里さんは天才だ。とらドラ!』も『放浪息子』も『GOSICK』も、盛り上げドコロを押さえた堅実な展開だった。つまり、これは「わざと」やっているはずなのだ。
(ちなみに『フラクタル』は未見です。山本カントクごめんなさい)


     ◆


感動とは「感情の振れ幅」である。登場人物たちの感情の揺れ動きであり、彼らに感情移入している観客の心情の揺れ幅でもある。小説、マンガ、演劇、映像。あらゆる物語芸術は「感情の振れ幅」によって観客を喜ば(entertain)せる。ところが、『あの花』の場合はこの振れ方がいつも同じ方向・同じ振幅なのだ。※これは俺の感受性に問題があるのかも知れないけれど。



あの花』では毎回、「平常心」から「寂しさ、切なさ、悔恨」といった感情へと振れる。しかも振れ幅がほぼ一定だ。だからこそ既視感を覚えるし、なんだか金太郎飴とかポケモンかまぼこみたいな印象を受けるのだ。


こういった「振れ幅」は、大きければ大きいほど感情の動き(=感動)も大きくなる。したがって:
「平常心」→「喜び」よりも、
「悲しみ」→「喜び」のほうが感動は大きい。
だからバトル物の主人公は、敵の必殺技を一度は受けるのだね。
「やったか!?」→「ばかな!直撃したはずだ!ぐ、ぐわぁぁああ!」
ってのはありがちな展開で、この時の観客の感情は次の通り。
(ええ!?主人公死んじゃったの?)→(よかった主人公生きてた!!)
このパターンでは観客の感情をいちどネガティブに振ることで、敵を倒したときの爽快感を高めているのだ。
このようにネガティブな感情とポジティブな感情を交互に提供するのが、娯楽作品の常套手段だった。こういった「感情の振れ」は各シーンごとといったミクロな部分だけでなく、2時間の映画全体、シリーズ全体といったマクロな視点でも論点となりうる。
映画であればシリアスなシーンの間にコメディシーンが放りこまれるし、TVシリーズなら一回を丸々つかった「ギャグ回」があったりする。いずれにせよ色合いの違う感情から感情へと揺れ動かすのがキホンになっているようだ。


逆にいえば「平常心」を起点として、そこから別の感情へと振るのは“難しい”。
赤い画面が急に青に変わったら驚くが、無色が青に染まっても驚きは小さい。平常心を維持したままお話を転がすなんて、たとえば80年代〜90年代のハリウッド娯楽作品なら、まずありえなかった。ところが現代日本では、「平常心」を堅持した作品たちが一つのジャンルとして成立している。
そう、「日常系」だ。
昭和的な娯楽作品が感情の大きな揺れによって観客を非日常に連れ出すものだったのに対し、現代の日常系は、むしろ振れ幅の小ささに安心を覚えさせるような作りになっている。長引く不況とパックスアメリカーナの終焉が私たちの日常を喪失させたことからうんぬんかんぬん……といった社会学っぽい分析はM台先生や東●紀さんに任せるとして、大流行した「日常系」とは、つまり「感情の振れ幅が小さい娯楽作品群だった」という点に注目したい。
その反面、岡田磨里さんが今まで携わってきた作品たちは、感情の振れ幅が大きな典型的娯楽作品だった。わりと平坦なストーリーのはずの『放浪息子』ですら、物語演出には「大きな感情の揺れ」が利用されていた。すっげー楽しい場面の直後に、ぐさりと傷つけられるセリフを言われたり。あるいはストーリー全体を通して主人公には彼女ができてジェンダーが確立し、あるいはケンカしていた二人は仲直りしたりする。これは「日常系」の特徴である平常心から平常心へと渡り歩くような形式ではない。
ところが『あの花』では、各キャラクターはそれぞれの平常心を保とうと努力する。それぞれの「日常」を守ろうとする。ところが、その「日常」めんまの死という過去によって傷を負ったままだ。だからめんまとの過去を回想するたびに「切なさ・悔恨」といった感情に振れる。
「平常心」→「切なさ・悔恨」
この揺れをひたすら繰り返しているのだ。
つまり、『あの花』は岡田磨里さんが「日常系」を描こうとした結果なのではないかな。
岡田磨里さんの作家性の中心には、「切なさ・悔恨」といったやるせない感情がある。一般には「鬱展開」なんて呼ばれる「負の感情」が、岡田磨里さんは大好きなのだ。『とらドラ!』にはハートフルボッコにされて俺はしばらく立ち直れなかったし、『放浪息子』では毎回あまりの切なさに身もだえしていた。『ローゼンメイデン』で水銀燈に「乳酸菌とってるぅ?」と言わせたのはダテじゃない。(ローゼンのあの回もやるせない展開だった)
そういう作家性を持った脚本家が、日常系の文脈をふまえて「感情の振れ幅が小さい」作品を作るとどうなるか: 『あの花』になるのだ。


     ◆


ここからは余談だけど、「日常系」を描かせたらピカイチなのは花田十輝さんだと思っている。これは完全に好みの問題だね。
生徒会の一存』では、あまりの内容の無さにひたすら驚かされた(褒めてる)し、『けいおん』では「花田回は神回」なんて言葉もささやかれていた。現在放映中の『Steins; Gate』はド派手な展開が売りの古典的娯楽作だけど、日常パートの面白さはさすがの一言。ストーリー的にはほとんど進展しない回でも、キャラクターがただ喋っているだけで面白いんだよね。花田さんが脚本に携わった作品は。


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花田さんがすばらしいセンスをお持ちなのは間違いないのだけど、「才能」の一言で片づけるのではなく、もうちょっとつっこんで考えてみたい。花田さんに限らず、天才的な脚本家は各キャラクターに対する理解度がものすごく高いのだ。
キャラクターに対する理解度とは、そのキャラの喜怒哀楽を完全に理解していることを指す。たとえば「喜び」という感情を一つとっても、そのキャラがどういう時にどんな原因で喜ぶのか、その喜びをどのように表現するのか。また声の色は? 仕草は? 表情は? ――これらの内容を詳細に理解していなければ、面白い物語は作れない。
とくに「日常系」の場合はストーリー的な派手さに劣るため、キャラクターの魅力をあますところなく利用する必要がある。ていうか、各登場人物への理解を深めようとしない脚本家なんていないだろう。なかでも花田十輝さんはとくに理解が深く、また魅力を引き出すための発想が豊かなのだ。
だから下のような表を準備して、各キャラクターがどんな理由でどんな感情になり、それをどう表現するのか、花田さんならすらすらと書き込めるんだろうな。





俺もちょびっと試してみたけれど、各キャラクターが「カブっていない」のがすごい。当たり前だけど、やっぱりすごい。
これは脚本家だけでなくて原作者のうまさでもあるけど、それぞれ個性的で魅力的なキャラクターになっている。とくに「バンド組んでいる女子高生」という同じクラスタに属しているはずのけいおん部員たちに「微妙な違い」をつけて個性化・差別化を図っているのは見事だ。
キャラを立てるのに苦手意識をお持ちのワナビ諸君は、こういう表を作ってオリジナルキャラに対する理解を深めてみるといいかもね。と、自戒をこめつつ。






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