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「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

ランジーン×コード:アナザーストーリー/美しく青きブギーマン

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このラノ!文庫『ランジーン×コード』シリーズの二次創作小説です。原作を知らない方にも読んでいただけるよう書いたつもりです。
※版元とは一切関係ありません。








『美しく青きブギーマン Rootport著




     一


成田空港の第二ターミナルは見送りの人で混み合っていた。滝田たつねはベンチに腰掛けて、白い床をじっと見ている。外は雨だ。濡れた靴が灰色の足跡を作る。キャリーケースに引き延ばされて、汚れた線が幾本も描かれる。
「ねえ、キツネ。大丈夫? ずっと黙っているけど」
隣に座った少女が、顔をのぞき込んでくる。キツネ――滝田たつねのニックネームだ。本名から「た」の音を抜くとキツネになる。お気に入りのあだ名。
「うん、大丈夫だよ。かなで……」
キツネが答えると相手は微笑を浮かべた。「らしくないなぁ」と、キツネの頭をぽんぽんと叩く。言葉が上手く出てこなくて、キツネは叩かれるがままになっていた。
樋口奏(ひぐち・かなで)は中学の頃の同級生だ。高校生になった今も毎日のようにメールをして、時間を見つけては一緒に遊んでいた。髪も瞳も、服装さえも真っ黒で、白磁のようなほっぺたを際立たせている。リボンやフリルのたっぷりついたスカート。首元のチョーカーはキツネからのプレゼントだ。
発着時刻のアナウンスに混じって、室内楽の柔らかな音色が聞こえてくる。
何かのイベントだろうか。ターミナルの片隅に即席のステージが設けられていた。クインテットがピアノやヴァイオリンを響かせ、飛行機を待つ人々の耳を楽しませている。キツネの知らない曲だ。
ドヴォルザークのピアノ五重奏第二番」と、奏がつぶやく。「ヴィオラのチューニングがあまり良くないな」
絶対音感を持つ彼女の耳には、この綺麗な旋律も違って聞こえるのだろう。今日の別れが二人にとって違う意味を持つように――。奏の夢を応援したい。だけど同時に彼女と離れたくない、独占してずっと一緒にいたい、そんな感情がキツネを引き裂こうとする。(笑顔で送り出さなくちゃ)と自分に言い聞かせて、なんとか表情を保っている。
「――なにか、考え事?」
いつまでも黙っているキツネに奏が言った。
「うん、ちょっと……」とキツネは答える。
口を開いたら、そこから感情が噴き出してしまいそう。穴の開いた風船みたいに、自分はダメになってしまう。だから、うまく、言葉がでない。
これで最後かも知れないのに。
「あ、あのさ――」無理やり話題をひねり出す。「もしも、魔法が……。奏の才能を、他の誰かにコピーできる魔法があるとして、奏は、どうする?」
音楽のセンス、知識、そして絶対音感。そういうモノを他人に分け与えることができたなら。そんな魔法があったら、奏はどうするだろう。その魔法をキツネにもかけてくれるだろうか。
奏はひじを抱くような仕草をして「難しいな」と答えた。
「もしも、そんな魔法があれば、あ□しと一緒に行けるのに――。そんなことを考えているんだろう」
図星をつかれて、キツネはぐっと言いよどむ。うつむきがちに「違うの」と言った。魔法なんて子供じみたもの、いくらなんでも信じていない。こんな考えを持ってしまったのには理由がある。ちょっとした事件のせいで、キツネはずっと考えていた。
「つい最近、ちょっとしぃ事件に巻き込まれてね――」


     二


一週間ほど前のことだ。
キツネはクレーンゲームの筺体に景品のぬいぐるみを補充していた。だらしない顔つきのクマを慎重に並べていく。足もとにはプラスチックのかごが置かれ、ぬいぐるみが山盛りになっている。背後のメダルゲームがジャラジャラとやかましい音を立てていた。
大型スーパーのゲームコーナーだ。いわゆる「郊外型」と呼ばれる巨大な商業施設で、地上五階建ての売り場は連日、家族連れで賑わっている。砂糖菓子に群がるアリのように、子供たちがゲーム機にかじりついていた。キツネは三日前からここでアルバイトを始めた。


「□き□□つね、さんですね」と面接官は言った。四十歳ぐらいの小太りな男で、濃紺のエプロンを身につけている。この店のユニフォームだ。禿げあがったおでこの汗を拭きながら「何曜日に来られるの?」と訊いた。
「えっと、弓道部の練習は月曜日が全員参加なので、ワシは――」
キツネの一人称に男は目を丸くした。履歴書に目を落として「ああ」とつぶやく。
「そうか、君には聞こえない音があるんだね」
実際には聞こえないわけではない。
幼い頃に精密検査を受けたけれど、耳の機能には異常が見つからなかった。鼓膜ではきちんと聞き取っていても、キツネの脳みそは「た」の音を認識できないのだ。文字としては読めるし、書くことだってできる。だけど、どうしても「た」の音が分からない。だから上手く発音できないし、キツネの「わたし」という言葉は、他の人には「ワシ」と聞こえるらしい。
「まあ、いいや。品出しとか景品の補充ぐらいならできるでしょう。さっそく明日から来てくれるかな」
面接官の言葉にキツネの顔がパッと輝く。キツネはクラスの委員とか班長とか、そういう仕事をせずにはいられないタイプだ。誰かから必要とされるのは嬉しい。たとえ時給の安いアルバイトだとしても。
「だけど」と男は口を濁す。「お客様の相手はしなくていいからね。もしもお客様に声をかけられ□ら、すぐに他のス□ッフを呼びなさい」
「どうしてですか。ワシはちゃんと――」
「うん。君が仕事をできないとは思っていないよ。しっかりしている子みたいだし、真面目に働いてくれると思う」
そこまで言って男は目をそらした。あぶらぎった頬を太い指で掻きながら、ばつが悪そうに続ける。
「だけど君は、言葉を正確には聴きとれないんだろう。それが原因で、お客様とどんなトラブルになるかわからない。お客様のご意見を誤解してしまうかもしれない」
キツネは思わず言い返しそうになった。
いったい何年、この聴覚とともに生きてきたと思っているんだ。日常会話に支障が出ることなんて、ほとんどない。だけど――。
キツネは口をぱくぱくさせる。
だけど、聞き取れない音があるのは事実だ。(お客様は神様です)どこかで聞いたセリフが脳裏をよぎる。面接官の冷たい言葉も、現場の監督者としては当然だろう。彼に悪気はない。
キツネは小さくくちびるを噛んで、「はい」と答えるしかなかった。


そして今、キツネはぬいぐるみを積み上げている。クレーンゲームのエリアは見通しが悪い。背の高い筺体が所狭しと並び、通路を圧迫している。ちょっとした迷路だ。てかてかと明滅する照明がまるで迷宮みたい。
ふっと気を緩めた瞬間だった。
ゲーム機の間から現れた小さな影が、すぅっとキツネに近づいた。落ちそうで落ちない景品の積み方を研究するのにキツネは夢中で、足もとのカゴから注意をそらしていた。
そして、ぬいぐるみを奪われた。
相手はクマを抱きしめると一気に駆け出した。小学校低学年ぐらいの女の子。ポニーテールが、背中でぽんぽんと跳ねる。
「――ちょっと!」
すぐさま追いかけようとして、キツネはハッと立ちすくむ。景品をカゴごと筺体に押し込んで鍵をかける。(お客様の相手は――)上司の声を思い出したけど、かまうものか。
キツネが走り出した時には、すでに万引き少女の姿は見えなかった。
クレーンゲームの通路をすり抜け、メダルゲームを横目に見ながら、キツネはゲームコーナーの外に出る。隣のおもちゃ売り場、雑貨コーナー。トイレや駐車場の位置を示す案内板――。そしてエスカレーターに向かって走る少女の姿を見つけた。
「待ちなさい!」
一声叫んでキツネは床を蹴る。これでも体育の成績はいいほうだ。あっという間に距離を詰めて、万引き犯の肩に手をかけた。
ぐらり、と少女が揺れる。
キツネにひっぱられて、いとも簡単にバランスを崩した。(いけない――)コンマ何秒にも満たないわずかな時間、キツネは血の気が引く。(ここで怪我でもさせぇら――)心臓のあたりがサァっと冷たくなる。両腕をつき出して飛びかかる。
間一髪、キツネは相手を抱きとめた。
膝をしたたかに打ちつけて、キツネは顔を歪める。逃げようとして暴れるはずだ――そう思ったけれど、万引き犯は無抵抗だった。泣くでもなく、怒るでもなく、ただ静かに笑みを浮かべている。
クマを抱いたまま立ち上がり、キツネから一歩、離れる。あっけに取られて、その様子を眺めていた。そんなキツネにぺこりと頭を下げると、彼女は口を開いた。
「ぁぁぁああああぁああ」
赤ん坊の泣き声のような音が、少女の口から漏れる。表情は張りつけたような笑顔のまま――。キツネはすぐに気づいた。
この子は、コトモノだ。


     三


悪天候のため、どの便にも遅れが出ているらしい。成田空港の客たちは疲れた表情で電光掲示板を見上げている。
「コトモノねぇ……」と樋口奏が言う。「特別なコトバによって脳みそに影響を受けている人間のこと、だよね。実をいうと、いまだに信じられない」
今から三十年近く前、「遺言詞(いげんし)」という特殊なコトバの存在が明らかになった。そのコトバを理解し、発話できるようになった者は、現実の「認識」が変わる。脳神経のネットワークが変質し、感覚が極端に鋭敏化したり、常人では理解できない世界観を持つようになったりする。遺言詞がどのようなメカニズムで脳を改変しているのか、詳しいことはまだ解っていない。
「ワシと友達なのに――?」
キツネが「た」の音を認識できないのも遺言詞の影響だった。遺言詞には様々なタイプがあり、発現のしかたも人それぞれだ。キツネの遺言詞には、「タヌキ」というお茶目な名前が付けられてしまった。
「キツネと友達だからこそ、だよ」と友人は口もとを緩める。「ちょっと世の中の見え方が違うからといって、キツネはどこにでもいる普通の女の子じゃんか。コトモノなんて化け物っぽい呼び名は、あ□しは好きになれない」
第一、世界の見え方は一人ひとり違う。「白」という言葉で表現される色が、他の人の目にも同じ色として見えているとは限らない。そう言って奏は快活に笑った。
コトモノとは、遺言詞の影響を受けた人のことだ。コトバのケモノ――。かつては蔑称だった呼び名が、いつの間にか一般名詞として定着していた。
「……ありがとう」
何と返事をすればいいかわからず、キツネはつぶやく。奏が続きをうながした。
「それで、その子の家族はどうだっ□の? その子がコトモノなら、同じ遺言詞の発話者と一緒に暮らしているんじゃないかな」
キツネはうなずく。
「その子の二歳年上のお姉さんも、行動や顔つきがそっくりだっぁ」
遺言詞には「伝播する」という性質がある。血のつながりとは無関係だ。コトバを聞かされているうちに、そのコトバを理解できるようになってしまう。そうなれば、聞かされた側の人間もコトモノになる。遺伝子が生物の体を乗り物として広まっていくように、遺言詞は人間の脳を容れ物として伝播していく。まるで遺伝子のような振る舞いをするコトバなのだ。だから英語圏では「言葉」を表すlangと、「遺伝子」という意味のgeneを組み合わせて、Langene(ランジーン)と呼ばれている。
コトモノと一緒に生活していれば、それだけ遺言詞と接する機会も多く、コトモノとなりやすくなる。
ターミナルの隅っこで、ピアノ五重奏が二曲目の演奏を始めた。やはりキツネの知らない曲だ。短調のゆったりとしたメロディ。物憂げなコードが空間を満たしていく。
キツネは口を開いた。
「だけど、その子の場合、ちょっと家庭事情がフクザツでね……」


     四


万引き少女の母親は、がりがりに痩せていた。
「ちょっと鈴優(れいゆ)! いいかげんにしなさい!」
スーパーの事務室だ。六畳ほどの広さにスチール机や複合コピー機、書棚などが押し込められ、床にはチラシが散らばっている。キツネは少女を保護してすぐに、上司に引き渡した。バイトの面接官を務めた、あのハゲの中年男性だ。彼と少女と三人で、母親の到着を待っていた。
「これで何度目だと思ってんのよ!」
上司はおでこの汗を拭きながら、賞味期限の切れた2Lペットボトルの緑茶を紙コップに注ごうとしていた。怒鳴りこんできた母親の剣幕に、危うくこぼしそうになる。とっさにキツネが紙コップを押さえて事なきを得た。
「ほんとに、あん□ってヤツは――」
枯れ木のようなカラダのどこに、こんな大声を出すエネルギーがあるのだろう。色あせたジーンズに飾り気のないグレーのパーカー。ぶら下げた買い物袋には、やぶれた穴を修繕した跡がある。彼女はキツネを押しのけると、肌荒れしたほっぺたを火照らせて娘につめ寄った。母親から怒鳴られても、少女はニコニコと笑ってばかりいる。
万引き少女の持っていた小銭入れには保険証のコピーが入っていた。だから身元がすぐに分かった。吉野鈴優、八歳。母親の梢(こずえ)は三十一歳だと書かれていたが、もっと老けこんで見える。梢は近所の中小企業で契約社員として働いているらしい。彼女が被保険者となって娘二人を扶養しているのだから、母子家庭なのだろう。
梢は背後に目を向けると、吠えた。
「来華(らいか)! あん□も、さっさと入ってきなさい!」
呼ばれた少女はドアの影に隠れるようにして、事務室の様子をうかがっていた。母親が叫んでも動こうとしない。梢は聞えよがしに舌打ちすると、大股でドアに近づいた。キツネは慌てて道を開ける。梢は少女の手首を掴み、室内に引きずり込む。
バタンと大きな音を立てて、事務所の扉が閉まった。
梢は下の娘に向き直ると、ふたたび声を荒げる。
「いつも言っているわよね、人のモノを勝手に持っていっちゃいけないって。そんなぬいぐるみの、どこが大事だっていうのッ!」
鈴優はいまだにクマを抱きしめている。キツネや上司が取りあげようとしても、決して離さなかった。
「まあ、まあ、お母さん――」
上司がねこなで声を出す。激昂する梢の相手は彼に任せて、キツネは姉の来華に歩み寄った。彼女も妹と同じように満面の笑みを浮かべている。(これは、もしかしぃら――)キツネは膝を折って、目線の高さを合わせる。
「あの子のお姉ちゃん?」
来華はこくりとうなずいた。そして、ゆっくりと口を開く。
「ああぁぁあぁ」
赤ん坊のような声。(――やっぱり)キツネは目を伏せて立ち上がる。背後ではハゲ頭が、必死で梢をなだめている。
「……そこまで怒らないであげてくださいよ。当店でも、ここは配慮して、ね、警察とか、そういう粗っぽいことは考えていませんから」
愛想笑いを浮かべながら、彼は鈴優に手をのばす。
「ほら、この子は普通の子じゃあ、ないわけですし――」
彼女の頭をなでようとしたら、母親が悲鳴を上げた。
「うちの子に触らないでッ!」
梢は鬼の形相で男の腕を振り払う。パシッと肉のぶつかる音がして、時間が少しだけ止まった。
叩かれた右手を中途半端に浮かべたまま、上司はぽかんと口を開ける。キツネは両手で口を押さえ、梢の後頭部を見ていた。姉妹は笑みを絶やさない。上司のおでこから、一筋の汗が滑り落ちる。
そして時間が動き始めた。
梢は居住まいを正し、腰を折った。深々と頭を下げて「申し訳ございません……」とつぶやく。
「いやぁ、えっと……」上司はうろたえて、ぼりぼりとほっぺたをかく。
「そのぬいぐるみのお代なら、支払います。一度、気に入ってしまったら、絶対に手放さないんです」
「お母さん、どうか頭を上げてください」
「本当に申し訳ありません――ッ!」
梢のあごから首にかけて、筋肉が強張った。震えそうになる語尾を、奥歯を食いしばってこらえている。上司が、助けを求めるような目でキツネを見た。だけど、こっちはただの高校生だ。そんな顔をされても困る。キツネが答えあぐねていたら、上司はため息を落とした。
「ホント、まいるよなぁ……」肩を落として上目遣いに梢を見る。「いいですよ。それなら、お代は結構ですよ。どうやら不良品のようですし……」
そういうお子さんを持つと大変ですね、と付け加えて、彼は肩をすくめた。目を凝らして見ると、たしかにクマのぬいぐるみは糸がほつれ、タグが外れかけていた。
姉の来華が、鈴優に近寄る。二人は笑顔のまま見つめ合うと、口を開いた。
「ぁあぁぁあ」
「ああぁあぁ」
赤ん坊の泣き声のような耳障りな音。母親の梢は頭を上げようとしない。
耳を塞ぎたくなるのを、キツネは必死でこらえた。


     五


「その子は間違いなく“ブギーマン”だな」武藤吾朗は即答した。「数あるコトモノの中でも、とくに古くから知られている種類だよ」
食堂の白いテーブルを挟んで向き合っていた。明かりは最小限で、二人は薄闇に囲まれている。壁かけ時計に目を向ければ、時刻は二十三時。消灯時間はとっくに過ぎていた。
「ロゴのコトモノ・マニアも、こういう時だけは役立つわね」
キツネが言うと、武藤吾朗――ロゴは苦笑した。おでこの古傷を隠すため、いつも赤いバンダナを巻いている。黙っていればそれなりにカッコイイ顔なのに、口を開けばコトモノ、コトモノ、コトモノ――。極度の遺言詞オタクなのだ。それが原因で、いつも変な事件に巻き込まれている。心配するこっちの身にもなってほしい。
「マニアっていうか――僕の性格のすごく深い部分が関係しているから……」
そう漏らして、ロゴは自分の左手をなでた。実をいえば彼自身もコトモノだ。他のコトモノを感知してその遺言詞を記述するという、かなり特殊な能力を持っている。彼は自分のコトモノに「ダリ」という名前を付けていた。ロゴの身体感覚としては、左手に宿った別人格として自分のコトモノを認識しているらしい。
「そのブギーマンって日本には多いの?」
キツネが訊くと、ロゴは首を振った。
「いいや、知名度のわりに人数はそんなに多くない。僕もまだ直接会っ□ことはないよ。だけど遺言詞の存在を世間に知らしめ□コトモノの一種だ」
ロゴはテーブルにひじをついて身を乗り出す。そして熱っぽく語り始めた。


三十年近く前になる。アメリカのニューオーリンズで、赤ん坊や幼児が次々に連れ去られるという事件が発生した。買い物や散歩の途中の、ちょっと目を放したすきに、子供がベビーカーから消えてしまう。もしもこの事件が日本で起こっていたら、「神隠し」と呼ばれていただろう。それだけ犯人の手口はあざやかだった。
「いつまでも捕まらない犯人のことを、人々は“ブギーマン”と呼んだ」
ブギーマン?」
英語圏のおとぎ話に出てくる“人さらい”のことだよ」
子供をしつけるためのお化けだ。米国や英国の親たちは、幼い子供を叱るときにブギーマンの名前を使う。いたずらをやめないとブギーマンが出るぞ。早く眠らない子はブギーマンに連れて行かれるぞ――。どんな姿をしているのかも分からない謎の男。それがブギーマンだ。
ある犯罪専門家は、幼児性愛者(ペドフィリア)の二十代男性が犯人だろうと言った。またある心理学者は、社会的地位の高い四十歳過ぎの未婚女性が怪しいと言った。警察が犯人像すらつかめずにいる間にも、被害はどんどん拡大していった。行方不明の赤ん坊は二十名を超し、事件現場はニューオーリンズと隣接するジェファーソン郡やセントバーナード郡にまで広まった。
単独犯としてはあまりにも数が多い。警察はようやく複数犯説に思い至った。
「それでも捜査は難航し、解決の糸口は見つからなかっ□。何しろ当時は、まだコトモノの存在があまり知られていない時代だからね――」
事件を解決に導いたのは一本の電話だ。
ニューオーリンズの中心部から少し離れた場所に、レイク・ヴューと呼ばれる高級住宅街がある。広々とした芝生に平屋建ての家屋が建ち並んだ、いかにもアメリカの郊外らしい街並みだ。その一角のマーシャル・フォッシュ・ストリートと呼ばれる場所で最近、妙にたくさんの子供の姿を見かけるようになった――。事件との関連を疑った近隣住民が通報した。
そして十世帯二十余名が誘拐の罪で逮捕された。
彼らはみんな人当たりのよさそうな笑顔を浮かべ、口からは赤ん坊の泣き声のような音を発していた。
「歴史上、いちばん古い詞族の一つだ」
コトモノはしばしば同じ種類で集まり、組織や集落を作る。それを詞族という。誘拐犯と目された人々は、遺言詞の影響で常人とはかけ離れた現実認識・行動様式を持っていた。ブギーマンという呼び名が、そのままコトモノである彼らの名前になった。
ブギーマンには四つの特徴がある。まず、いつでも笑顔を浮かべていること。他人の警戒心を解かせるような穏やかな表情をしている。そして二つ目は、赤ん坊のような声を発すること。ブギーマン同士はあの声でコミュニケーションを取っているらしい。だけど、あの声がどんな文法を持っているのかまだ解読されていない。さらに三つ目、絶対に他人を傷つけない」
連れ去られた子供たちは、みんな無傷のまま見つかった。それどころか誘拐される以前よりも健康状態がよくなった子供さえいた。キツネが鈴優を捕まえた時も同じだ。彼女はまったく抵抗しなかった。あの時、肩にかけた手に、キツネはたいしてチカラを込めていない。だけど鈴優は壊れたヤジロベエみたいに、簡単にバランスを崩した。
もしも抵抗すれば、相手を負傷させるかもしれない。他人を傷つけたくないから、されるがままになってしまう。
「最後に四つ目、傷ついている誰かを見逃さない――」
ニューオーリンズの事件はその後、意外な展開を見せる。被害者たちは、いずれもケースワーカーから「要注意」とされている家庭の子供だった。児童虐待の疑いがある、あるいは実際に虐待を受けて保護された過去を持つ子供たちだった。
「人間は誰でも庇護欲を持っている。自分より弱い存在を見つければ、手助けしようって気持ちが生まれる。そういう欲求を僕らは生まれながらに持っている」
母性とか愛情とか友情とか、色々な呼び名がある。けれど根本的な部分は一緒だ。
ブギーマンはそういう庇護欲が暴走しているんだ」
コトモノになると現実認識が変わるだけではない。種類にもよるが、信じられないほど感覚が鋭敏になる場合もある。子供の顔や腕についた小さな傷、親を見るときの怯えた視線――。普通の人なら見逃すようなわずかな虐待の兆候を、ブギーマンたちはするどく見抜く。
「――あ」とキツネは声を漏らした。「そういえば、あのぬいぐるみも……」
糸がほつれてタグが外れかかっていた。いわば傷ついた状態だったのだ。大人のブギーマンが幼い子供たちを連れ去ったように、鈴優はあのぬいぐるみを「守るべき対象」として認識し、持ち去った。
「正直なところ一般家庭で育てるのはすごく難しいと思う、その姉妹」とロゴは言った。片手を広げて薄暗い食堂を指し示す。「本当なら、こういう場所に預けるほうがいいと思うんだ。姉妹二人にとっても、親にとっても」
ここは「くるみの家」という施設だ。コトモノの子供たちを集めて、専門的なケアをしながら育てている。キツネやロゴはこの施設の最年長だ。たくさんのコトモノと出会い、その生き方を間近で見てきた。
滝田たつねや武藤吾朗のようなコトモノならばまだいい。普通の人間とも意思疎通を図れるし、社会生活を営める。だがブギーマンのように、一般人とのコミュニケーションが取れないコトモノも存在する。遺言詞の発見から四半世紀以上が過ぎた今でも、そういうコトモノが人間社会に適応するのは不可能に近い。
コトモノには、コトモノの生態系がある。人間の枠組みに押し込めようとすること自体、無理があるのだ。
ロゴが片手を上げて指示した先には、食堂の入口があった。スライド式の扉が、するりと開く。
「――ロゴにい?」
銀髪碧眼の少女が、片目をこすりながら入ってきた。華奢なカラダをパジャマで包み、いつものツインテールも降ろしている。
「なんだ、由沙美。こんな時間に」
時計の針は二十三時三十分を指していた。由沙美が「ふぁ」とあくびをする。彼女につられてロゴもあくびをした。キツネにも伝染りそうになって、慌てて口を押さえる。
この子と喋るとき、ロゴは口調が柔らかくなる。本人は気づいていないみたいだけど、声からトゲが抜ける。(ロリコン吾朗――)とキツネは胸の中で毒づく。中学校に上がっているかどうかも怪しい年齢の女の子に、こんなにデレデレして。
「歯磨きするのを忘れ□の……」
寝ぼけているのだろう。いつもよりも舌足らずな言葉で、由沙美が言う。こんなにあどけない彼女だが、その脳みそには、「ムジカ」という名の別人格が眠っている。他のコトモノの遺言詞を詠唱できるという、極めて珍しいタイプのコトモノだ。
ムジカが目覚めると、言葉遣いも表情もまるで別人になる。由沙美自身は「ムジカも私の一部分」だと言うけれど、すぐには信じられなかった。
「それなら歯を磨いて、さっさと寝ろよ。もう遅い。僕らもそろそろ、部屋に引きあげるから」
ロゴの言葉に、由沙美はぷぅっとほっぺたを膨らませる。
「いじわる」
「へ?」
「洗面所……暗くてこわい」
ああ、これは完全に眠気のせいだな――キツネはむっつりと目を細めて閉口した。
いつもの由沙美なら、こんな甘えたことは言わない。「しょうがねえな」と立ち上がるロゴもロゴだ。相手はもう小さな子供じゃないのに。
(そっか――)
食堂を後にする二人の背中を見送りながら、キツネは思った。由沙美は小さな子供じゃない。
(だから、よけいに心配なのか)


     六


翌日。
「こいつは――」
建物を見上げて、ロゴが息を漏らす。キツネが続けた。
「――古いね」
木造二階建てのアパートだ。戦前から建っていると言われても信じてしまいそうなほど、おんぼろの建物だった。外壁のペンキははがれ落ち、黒ずんだ板材がのぞいている。アパートを囲むブロック塀も、ところどころ欠けて丸みを帯びていた。
駅から徒歩二十分、足もとのアスファルトはひび割れて雑草が伸びている。道路沿いに並んだネコよけのペットボトルは、中身がうっすらと緑色に染まっている。壁には十年近く前の選挙ポスターが貼られ、雨と日光で真っ白に色あせていた。
「ねえ、本当に行くの?」
「当たり前だろ、せっかくここまで来□んだ」
迷いなく答えて、ロゴは門扉を押した。錆びた蝶つがいが耳障りな音を立てる。キツネも後に続く。こいつのコトモノ・バカも、ここまで来ればいっそ潔い。


昨晩、由沙美を部屋まで送ったあと、ロゴは「やっぱり放っておけない」と言った。こいつのロリコンも、ついに行きつくところまでいったか。キツネが呆れていたら、彼は「ブギーマンのことが」とつけ足した。
――やっぱり専門の施設じゃないと育てるのは無理だよ。
――子供と意思疎通できないことが親にとってはものすごいストレスになるらしい。
――そういうストレスが親にどんな行動を取らせるのか、キツネだって分かるだろ。
――だから一度、話をしにいこう。
そして今、二人はぐらつく階段を上っている。一歩進むたびにアパート全体がぎしぎしと音を立てる。階段を踏み抜いてしまいそうで肝を冷やした。
「だけど、昨日の今日だよ?」ロゴの背中に呼び掛ける。「こんなに慌てなくてもいいんじゃないかな」
振り返らずに彼は答えた。
「いいや、善は急げだ。なにか事故があってからじゃ、遅いだろ」
「でも、すぐに納得してくれるとは思えないんだけど」
子供がコトモノになっても多くの親は手放したがらない。施設や詞族には頼らず、自力で育てようとする。かつて由沙美の保護者もそうだった。お互いに不幸だと分かっていても、親たちは無理やり一緒に生きていこうとする。まして母子家庭なら、なおさらだろう。娘二人と離れたら、母親の梢は一人ぼっちになってしまう。彼女の気持ちを思い浮べると頭がくらくらした。キツネには梢の心情がうまく想像できなかった。
「どうだろう、説得できるとすれば――」一軒ずつ部屋番号を確かめながらロゴは答える。「ニューオーリンズの事件の顛末を教えてあげればいいと思うんだ。ブギーマンにさらわれ□子供のうち六割ぐらいが、その後、自分自身もブギーマンになっ□」
一緒に生活していれば、それだけ遺言詞に触れる機会も増える。親から離れてブギーマンに育てられるうちに、彼らの『言葉』を理解してしまったのだろう。
「一緒に暮らし続ければ親のあな□もブギーマンになりますよ、って言えば、このままじゃまずいと思ってくれるんじゃないかな。……えっと、二○三号室だよな?」
開放型の廊下は天然のうぐいす張りになっていた。歩調に合わせて、床板が悲鳴を上げる。まるで昭和にタイムスリップしたみたいだ。各部屋のドアの横には洗濯機が並んでいる。二槽式なんて初めて見た。
ロゴが呼び鈴に指を伸ばす。
「ちょっと待って」キツネは彼の袖口をつかんだ。「ワシが押すから」
この気持ちは、自分でもうまく説明できない。何と言うか、ケジメ、のような気がした。鈴優と出会い、彼女を捕まえたのはキツネだ。ロゴに任せるのは、うまく言えないけれど「横取りされている」みたいな気がするのだ。コトモノに関する事件があれば、このバンダナ男はいつでも首を突っ込む。悪い病気だと思って今まで放っておいた。だけど今回だけは別だ。
「……まあ、いいけど」
肩をすくめると、ロゴは呼び鈴から一歩横にずれてドアの正面に立った。代わりにキツネが呼び鈴と向かい合う。片手を胸に置いて、ちょっとだけ深呼吸。そして右の人差し指を伸ばし――。
キツネがボタンを押したのと同時に、ドアが内側から開いた。
ものすごい勢いで扉が開き、梢が血相を変えて飛び出した。ロゴが後ろに吹っ飛んで、わずかに遅れて、室内から「ピンポーン」という音が響く。キツネは熱いものを触ったみたいに指を離し、ロゴに飛び付いた。
「――ロゴ! 平気?」
「ああ、なんとか」鼻をさすりながら、ふらふらと立ち上がった。「俺よりも――そんなことより――」
彼の視線を追いかけて、キツネは振り向く。開け放たれたドアから部屋の奥が見えた。ドアにすがりつくようにして立っている梢と、玄関のあがりかまちに腰掛けた鈴優。その奥の六畳一間で、窓辺で体育座りをしている来華――。順番に視線を向け、最終的に靴を履こうとする鈴優に目を止めた。
キツネは息を飲む。
「あれが来華ちゃん?」
こんな時でもロゴは場違いなことを言う。キツネは鈴優を凝視する。
「違うのよ……」
梢の震える声が聞こえた。だけどキツネは目を離せなかった。靴のかかとに指をつっこんでいる鈴優の腕は、青黒いあざでまだら模様になっている。靴のマジックテープを締め直し、ニコニコと立ち上がる。そのほっぺたにはひっかき傷。
「違うの……」
銃でも突きつけられたみたいに、梢は一歩、二歩、後ずさりした。鈴優の隣にしゃがみ込んで、おびえた表情で二人を見上げる。得体の知れない化け物から娘を隠そうとするように、鈴優を抱きしめる。
「だから、違うの……!」
かすれた声で梢は叫んだ。
キツネは立ちすくむ。(そんな――)手遅れだなんて。


     七


病院のロビーは老人で溢れていた。みんな茶色っぽい服を着て、黒いベンチに座っている。まるで電線にとまるスズメだ。キツネとロゴは野鳥の群れに混ざったセキセイインコのように肩身が狭かった。自然と声が小さくなる。
「どうなるのかな、これから」
「さあ。まだ二人の検査も終わっていないし」
キツネが真剣に訊いているのに、ロゴは壁の一点をぼんやりと眺めてばかりいる。それが歯がゆかった。
「コトモノかどうかを判別する脳波測定も、あの二人はまだ受けてないんでしょう?」
「らしいな。だけど今は怪我の治療のほうが先だ」
親の無理解や貧困のせいで、専門医からコトモノだという診断を受けずに放置されてしまう。そういう子供が後を絶たない。
「大丈夫だよ」壁に向かってロゴが言う。「打撲は腕や脚に集中していて、頭は無事なんだろう。それなら平気」
鈴優の遺言詞は平気、という意味だ。このコトモノ狂いめ、いくら脳みそが無事だといっても殴られたのは事実だ。腫れ上がった少女の手足を見ても、胸が痛まなかったのだろうか。キツネはこぶしを握る。
「あんな小さな子が、すりこぎで殴られぇんだよ? しかも妹の鈴優ちゃんだけが……」
ロゴが鼻を鳴らす。
「よくある話じゃないか。兄弟や姉妹の誰か一人にだけ虐待が集中する」
「そういう意味じゃなくて!」
「さっき医者から聞い□よ。鈴優ちゃんがブギーマンにさらわれ□のは一年ぐらい前のことだってさ」
彼女は一ヶ月ほど行方不明となり、秩父にあるブギーマンの集落で発見、保護された。梢のもとに戻ってきた時には、すでにブギーマンになっていた。
「その時点では、姉の来華ちゃんはまだ普通の女の子だっ□。もしも鈴優ちゃんと暮らしていなければ、あんなふうにはならなかっ□だろうね。この子さえいなければ――。あの母親がそういう気持ちになるのも仕方ないだろう。もともと情緒不安定な人だというし」
梢には児童相談所に通報された過去があった。担任教師は鈴優の不自然な怪我に気付いていた。虐待の兆候があったからこそ、ブギーマンは鈴優をさらったのだ。そしてブギーマンとなって帰ってきた鈴優は、前にも増して手のかかる子供になっていた。
キツネは言葉を失う。
「まあ、これで良いんじゃないの? コトモノと人間とが共存するには、あきらめが必要な時もある――」
「あきらめだなんて、そんな……」
言いながら、キツネは自分の胸に手をあててしまう。コトモノにとっては、血を分けた遺伝上の親よりも、『言葉』を授けてくれた遺言詞の親のほうが大切だ。キツネだってそれは同じだった。だけどロゴみたいに割り切れないのだ。たしかに子供を殴る親は最低かもしれない。だけど殴らずに暮らせる方法もあったのではないか。梢の孤独を思うと、キツネは胸が痛くなる。そして誰の味方をすればいいのか分からなくなる。
「いっそのこと梢さんもブギーマンになっちゃえば、良かっぁのかな……」
つぶやくと、ロゴは呆れたようにため息をついた。
「僕らにとっての『言葉』は、そんなに安っぽいものじゃないだろ。よっぽどの理由でも無いかぎり、そうやすやすと誰かに遺言詞を授けちゃダメだ」
――まして人間なんか都合で。
独り言のようなつぶやきを、キツネは聞き逃さなかった。
「ロゴ!」思わず立ち上がる。「それ、本気で言ってるの?」
梢の都合なんか知ったことではない。このバンダナ野郎は、そう言ったのだ。
コトモノのことになると周りが見えなくなる男だと前から思っていた。だけど、まさかここまでひどいとは。子供が殴られるのは「よっぽどの理由」にはならないというのか。この世界のどこに、傷つけたくて子供に危害を加える母親がいるだろう。
「そういう親もいるんだよ」
キツネの気持ちを見透かしたように、ロゴはつぶやく。壁に視線を向けたまま、おでこのバンダナをなでていた。
「もちろんケース・バイ・ケースだけど……。あの親子の場合は、離れて暮らしたほうがお互いの□めだ。子供と一緒に暮らさないほうがいい。そういう親もいるんだ」
手のひらに爪が食い込むほど、両手をにぎり締めていた。ロゴの達観した、人をバカにしたような態度が気に入らない。だけど反論を見つけることもできない。
「僕らコトモノが暮らすには、この社会はまだまだ幼稚すぎる」
吐き出すようにつぶやいて、ロゴはこちらを見た。その目が「こんな簡単ことも分からないの?」と言っているみたいで、キツネは我慢できなかった。
「――このアホロゴ!」
一声叫んで、彼に背を向ける。ここが病院だということも忘れて、キツネは廊下を走った。出口まで一直線。急がなくちゃ。足を止めたら、悔し涙が溢れそうだから。ロゴに言い負かされたからじゃない。あいつの冷たいセリフのせいでもない。ただ、昔を思い出してしまったから――。
この社会は、まだまだ幼稚すぎる。あの頃のキツネにそっくりだ。


     八


中学生の頃、滝田たつねはいつも何かに怯えていた。
当時から負けん気が強くて、売られたケンカはぜんぶ買ってしまう。そんな性格をしていた。そういうキャラを作っていなければ、不安に押しつぶされそうだった。威勢のいい減らず口を叩きながら、内心では、雪原に取り残された子狐みたいに震えていた。
音楽室の壁に白いスクリーンが降ろされる。
それを囲むように椅子を並べ、中学生の男女が座る。プロジェクターが黒々とした宇宙空間を映し出し、厳かな旋律が始まる。ゆったりと回転する宇宙ステーションと、白く輝くシャトル。BGMはヨハン・シュトラウス・二世「美しく青きドナウ」――。
映画音楽を鑑賞するという授業だった。キューブリック監督『二〇〇一年宇宙の旅』の有名すぎるワンシーンが、キツネの前に広がる。星空の黒さと地球の青さ、そして宇宙船の白。無駄な色彩を排したストイックな映像に、キツネは吸い込まれそうになる。後ろの席の男子さえいなければ――。
(なあ、四組の沢尻さんって知ってる?)
(ああ、あの「ビッチ沢尻」だろ)
 頭のゆるい男三人組が、ひそひそと言葉を交わしていた。キツネは無視しようと努めたけれど、意識の外に追い払うことができない。
(あいつ、ヤッてるらしいぜ)
(何を?)
(決まってんだろ。エンコーだよ、エンコー)
背後から聞こえる含み笑いに、キツネの血圧が上がっていく。キツネは沢尻という女子生徒と面識があった。たしかに髪を明るく染めているし、スカートは学年の誰よりも短い。だけど、それは少女マンガのキャラクターに憧れているだけで、根は真面目な子だ。彼氏を持ったこともないという。男たちの言葉は事実無根の妄言だった。
(うわさによると)得意になってバカは続ける。(一発三万円で誰でもヤらせてくれるらしいぜ。お前、頼んでみろよ。それぐらいのカネ持ってるだろ)
(はーぁ? あんなクソビッチのユルマンに誰が三万も払うかよ。願い下げだっつーの)
(だよな!)
くすくすと笑い声が上がる。キツネは眉間にしわを寄せて、息を整えていた。そうしないと爆発しそうだったから。ドナウ川のメロディに必死で耳を傾ける。
男たちの会話は、どんな女が好みかという話題に移った。キツネも知っている名前が次々にあがる。あの子は胸が小さすぎる、あの子は体つきがエロいけれど、顔が両津勘吉みたいだ――。ひどい暴言が飛び交う。
(じゃあ、□き□は――?)
(ばか、聞こえるって!)
(大丈夫だよ)男はくつくつと喉を鳴らす。(あいつ、耳がおかしいんだろ。自分の名前を呼ばれても、聞き取れねーんだってさ)
(あいつは……ありえねーだろ。女としてカウントできねーよ)
(女性ホルモンが狂ってんじゃねーの? 男みてえに、すぐケンカするじゃん)
(すぐに吠えるし、どっちかといえばイヌだよな――)
キツネというよりも。
「静かにしなさいよ!」
気付いた時には、立ち上がっていた。椅子が倒れる。あんたたち、いいかげんにしなさい――。そう言おうとしてキツネは口ごもる。「あんたたち」が、うまく発音できない。
男子三人は、ニタニタと口を歪めた。
「ほら、また吠えている」
クラスメイトの視線が突き刺さった。キツネは顔を真っ赤にして言い返す。
「じ、授業に集中できないでしょう!」
黒板には「自習」の文字があり、音楽の教師はいない。無意識のうちに大人の姿を探して助けを求めている。そんな自分が情けなくて、恥ずかしかった。
「おい、お前ら、聞い□か?」三人のうちのリーダー格が舌なめずりをする。小動物を追いつめる肉食獣みたいに。「こいつ、音楽に集中してえんだってさ。笑っちまうよな、そんな耳をしているくせに」
取り巻きの二人が、ぶっと吹き出した。腹を抱えて笑いながら、片方が言う。
「そっかぁ。キツネちゃんは音楽が好きなのか。――分かるよキツネちゃんの気持ち。集中して聴いていれば、いつか、その耳が治るかもしれないもんね」
だからお前ら、笑ったら可哀想だろう。
大爆笑しながら男三人で小突きあう。キツネは仁王立ちして肩を震わせていた。怒りで頭が真っ白になりそう。他のクラスメイトは知らんぷりをしている。面倒に巻き込まれたくないのだ。
(――くぅばれ)
キツネは心の中で呪詛をつむぐ。
(くぅばれ。こんなやつら、みんな、くぅばれ――)
小さくくちびるを噛んで、うつむくしかなかった。
「そのくらいにしときな」
氷のようなメゾ・ソプラノに男三人が顔を曇らせる。しかし誰よりも驚いたのはキツネだ。こんな時は、みんな無視を決め込むはずなのに――。声の主は教室の隅っこで、脚を組んで座っていた。
「その子の耳と、あん□らがうるさいことと、何の関係も無いだろう。いいから黙れ」
黒曜石みたいな瞳と、漆を流したような黒髪。そして抜けるように白い肌。樋口奏の声には有無を言わせぬ迫力があった。
リーダー格の男は舌打ちを響かせると、椅子を思いっきり蹴った。キツネは身をすくめる。だが奏は身じろぎ一つしなかった。粗大ゴミを見るような目で、男どもを睥睨(へいげい)している。
「――行くぞ」
足を踏みならして彼は教室から出て行った。取り巻き二人が後に続く。
「まじうぜー」
「醒めるわー」
ぶつぶつとつぶやきながら、肩を揺らして廊下に消えた。クラスメイトたちは息を殺して彼らの背中を見送った。残されたのは倒れた椅子が二脚に、誰も聴いていない「美しく青きドナウ」――。キツネだけが奏を見つめている。
奏は目を閉じ、口もとを引き締めていた。


放課後の下駄箱で、キツネは彼女を呼び止めた。
「あ、あのさ――」
樋口奏は外履きを取り出そうとしていた。耳からはイヤホンの白いコードが伸びている。その片方を外して、彼女はキツネを睨んだ。
「何?」
きつい視線に怖じ気づきそうになる。クラスは同じだけれど、まだ言葉を交わしたことはなかった。自分を奮い立たせて、キツネはがばりと頭を下げる。
「さっきはありがとう!」
彼女のすらりとした脚が視界に入る。つま先がキツネのほうを向いた。
キツネは恐る恐る、頭を上げる。
「別にいいよ、そういうの」
そっけない返事。外履きを指にぶら下げて、もの珍しそうにこちらを見ている。
「だけど、さっきワシのことを」助けて、じゃなくて。「援護してくれぇから……」
奏は目をそらした。
「胸くそ悪いやつらを放っておけないだけ。あん□の味方をしてやっ□つもりはない」
突き放すような態度にちょっとだけカチンと来た。だけど相手は恩人だ。いつものように突っかかるわけにはいかない。キツネが言葉を探していたら、奏が先に口を開いた。
「あん□、一人で帰るの?」
奏は靴を、ぽんっと足もとに落とす。
「そうだけど……?」
いつも一緒に帰っている友だちは、委員会やら部活動やらで都合が合わなかった。
奏は靴を履き、つま先でトントンと地面を叩いてかかとを揃えた。そしてキツネに目を向ける。
「なら、一緒に帰ろう。ちょっとつき合ってよ」
ふっと頬をほころばせる。きつい目つきや男のような喋り方とは裏腹に、甘いお菓子みたいな笑顔だった。


帰り道、会話はほとんど無かった。
奏は昇降口から出るとすぐ、イヤホンを耳につっこんでしまった。早足で、ぐんぐん進んでいく。無口な彼女をキツネはひたすら追いかけた。そうしているうちに、街のなかでも、とくにお金持ちが住んでいる地域に入った。東京では珍しい庭付き一戸建てが建ち並び、ガレージにはベンツやアウディが停まっている。
キョロキョロと目を丸くするキツネとは対照的に、奏の足取りに迷いはない。
ひときわ目を引くコンクリート打ちっ放しの建物。三階建ての家屋そのものが、現代美術の作品みたいだ。高い塀のところどころに防犯カメラがある。いったいどんな人が住んでいるのだろう――と思っていたら、奏はその家の玄関で足を止めた。門扉に近づくとカードキーをかざし、傍らのパネルに暗証番号を打ち込む。
「――どうぞ?」
口をぽかんと開けたキツネに、奏が小首をかしげる。慌てて口を閉じ、キツネは彼女の家に上がった。
「ごめんね、少しちらかってて」そう言いながら、奏はイヤホンを外す。
玄関だけでも、弓道の巻き藁を使った練習ができそうな広さがある。フローリングの廊下にはちり一つ落ちていない。これで「ちらかっている」のだとしたら、くるみの家は彼女の目にどう映るのだろう。巨大台風が通り抜けた後のような惨状に見えるだろうか。たしかに同居している子供たちは、どの子も竜巻みたいにやんちゃだけど。
「こっち」
廊下の中ほどに階段がある。奏に手招きされて、キツネは地下に降りた。


天井まで届くような巨大なスピーカー。壁には波打ったスポンジのようなものが貼られている。床は御影石だ。三十畳はありそうな贅沢な地下スタジオだった。グランドピアノが一脚と、茶色い革張りのソファ。「楽にしてくれ」と言われたけれど、キツネは完全に雰囲気に飲まれてしまった。ソファの上で背筋を伸ばし、膝を揃えている。オーディオ機器の前にしゃがんでいる奏の背中を眺めていた。
奏が立ち上がり、キツネのそばに戻ってくる。
「始まるよ」
隣に腰を下ろして、すっと瞳を閉じる。「何が?」と整った横顔に訊こうとした。キツネが口を開くよりも先に、清澄な音色に包まれた。
管弦がゆったりとした旋律を歌い上げる。
イントロだけで分かった。さっきはきちんと聴けなかった「美しく青きドナウ」だ。何かを確かめるように、曲調が少しずつ力強くなっていく。胸を押しつぶされそうなフォルテから、一気にデクレッシェンド。静けさを取り戻したと思った矢先に、踊り出すような弦楽器の音が溢れる。
――あれ?
キツネは目を細めて、耳を澄ませた。
「さっきと、ちょっと違う」
奏がぴくりと反応する。
「どんなふうに?」
「なんていうか、さっきよりもほがらかな感じがする」
音楽室で聴いた「ドナウ」は荘厳で重々しい印象だった。冬の朝、オレンジ色の朝日を浴びて、もやを上げながら流れる大河。雪に包まれ、凛とした空気の中をたゆたう水面のイメージだった。だけど、こちらは違う。
「春が来て、両岸では野花が咲き乱れているみぃな感じがする。聴いているだけで、うきうきしてくるような――」
そこまで言って、キツネはほっぺたを両手で押さえた。なにキザなことを言っているのだろう。うっかり詩的な言葉を口走ってしまった。一人で赤面するキツネに、奏は優しく笑いかける。
「いい耳をしてる」
そして、くすくすと笑い始める。
「いや、本当に。□き□さん――えーっと――」
「キツネでいいよ」
「本当にキツネの言うとおりだよ。『二〇〇一年宇宙の旅』でBGMに使われている曲とは、指揮者も演奏している楽団も違うんだ。だから同じ曲でも表情が違う」
奏は人差し指でワルツのリズムを刻んでいる。
「いま流しているのはアンドレ・リュウ指揮、ヨハン・シュトラウス・オーケストラ演奏の『美しく青きドナウ』だ。このアンドレ・リュウって人はね、色々と型破りなことをしている指揮者なんだ。音楽は何よりもまず楽しくなければいけないというのが、彼の信念だそうだ」
テンポは普通より少し早めだし、音色はとにかく明るい。彼のコンサートでは、観客が立ち上がって踊り出すこともしばしばだという。奏は続けた。
「あ□しが絶対音感を持っていること、知っているだろ」
「うん、ピアノのコンクールでも賞を取っているらしいね」
学校でうわさになっていた。才能に恵まれた彼女に、他の生徒たちは距離を置いて接していた。彼女自身は、耳からイヤホンのコードをぶらさげて、いつも澄ました顔をしている。それが余計に、近寄りがたいオーラを生み出していた。
「なにか音を聞くとね、あ□しはグラスのイメージを思い浮かべてしまうんだ。タンブラーとかコリンズグラスっていうのかな。背が高くて、底の平らなグラスだよ。そのグラスには水が入っている」
「水?」
「そう。入っている水の量で音の高低が分かるんだ。あくまでもイメージだし、あ□しの頭の中で勝手に思い浮かべているだけなんだけどさ。――どんな音でも、そういうイメージを持ってしまう。水の色で音の種類が分かるし、良い音なら水は澄んでいて、濁っていれば悪い音」
「それじゃ、今も?」
「うん。オーケストラを聴くと、数え切れないほどのグラスが目の前を流れていくような映像が、頭に浮かぶんだ」
まるでジュース工場みたいだ、と奏は言った。膨大な数のボトルがベルトコンベアで流され、ものすごい勢いで中身を満たされていく。そのボトルをグラスに置き換えると、奏の頭に浮かぶ映像そっくりになるらしい。
「だけどリュウの音楽を聴いている時だけは、それを忘れられる。音程なんて気にせずに、心から音楽を楽しめるんだ」
うっとりと彼女は目を細める。
リュウ自身も腕の確かなヴァイオリニストだから、この曲も、ヴァイオリンを弾きながら指揮しているんだよ。信じられる? 目線とわずかな表情だけで、こんなにもオーケストラを歌わせることができるなんて」
そしてキツネに目を向ける。
「あ□しね、リュウみたいな音楽家になるのが夢なんだ。留学して、きちんと勉強して、指揮者になれればいいなって」
「なれるよ!」
キツネは前のめりになって即答した。自分でも驚くほど大きな声が出た。こちらの勢いに、奏があっけに取られた顔をする。また、やってしまった――。恥ずかしさで頬が熱くなる。取り繕おうと、必死で口を動かした。
「ワシは音楽とか、クラシックとか、あんまりよく分かんないけど――でも、きっとなれるよ! だって、かなでには才能があるし、それだけじゃなくて、目標にしている人も、ちゃんといるんだし――何になりぃのか分からないワシとは、大違いだから――」
どさくさに紛れて「かなで」と呼び捨てにしてしまった。ハッと気付いて、キツネはますます慌てる。
「だから――えっと――」
顔を赤くしたり青くしたりするキツネを見て、奏がついに吹き出した。気持ちのいい声で笑い、「ありがとう」と言った。
あたしたち――と言いかけて、彼女は言葉を改める。
「うちら、似ているのかもな」
キツネは、きょとんと奏を見る。頭をぽんぽんと叩かれた。
「あ□し、友だちが少ないんだ」何でもないことみたいに奏は言う。「よければ、これからも遊びに来てよ」
「も、もちろん!」
キツネは何度もうなずく。奏も満足げに微笑む。
「ああ、それと――。キツネの耳は、少しもおかしくないよ」真剣な顔つきになって続けた。「クラシックをよく聴いているわけでもないのに、指揮者の違いにすぐに気がついた。むしろ耳がいいほうだと思う。――あんなやつらの言うこと、気にしちゃダメだよ?」


     九


教科書、ノート、ペンケース。
勉強道具を片手に食堂のドアを開けたら、ロゴがいた。窓に寄りかかってケータイを耳に当てている。
(ヤバ――)
とっさに視線を反らそうとしたのに、ばっちり目が合ってしまう。気まずい沈黙。一秒にも満たないわずかな時間だけど、耐え難いほど長く感じる。いたたまれなくなって、キツネは目を伏せる。ロゴは電話に応えながら、顔を背けた。
「はい……はい……そうですか……」
真っ暗な窓に目を向ける。ロゴが敬語を使う相手。いったい誰だろう。
明日の小テストに備えて、英語の勉強をしたかった。ところが同室の子供たちが、わいわいとゲームを始めてしまったので、食堂に避難してきたのだ。よりにもよってケンカ中の相手と鉢合わせするなんて。(ケンカってよりも)逃げるのも癪なので、キツネは勉強道具をテーブルに投げ出す。(ワシが勝手に怒っているだけかな)わざと大きな音を立てて椅子に座った。
ロゴは何を考えているのだろう。教科書を開きながらキツネは思った。ページにはオー・ヘンリーの小説が載っている。それを目で追いかけながら、バンダナを巻いた後頭部をちらちらと見てしまう。恋人でもない相手なのに、こんなに気になる。ただの幼なじみなのに。好きでもなんでもないのに――。
バタバタと階段を駆け下りる音が聞こえた。
「こら、走っちゃダメ。転んじゃうよ」
由沙美の声が聞こえてくる。最近ではすっかりお姉さんになった。
騒がしい集団が食堂に入ってきた。子供たちはそれぞれのピル・ケースを手にしている。薬の時間だ。由沙美に追い立てられて、給水器の前に並ぶ。ロゴが電話を切った。
「由沙美、ちょっといいかな」
「なあに?」
手招きされて、由沙美はロゴに駆け寄る。部屋の隅で二人はひそひそと喋り始めた。子供たちが賑やかすぎて、会話の内容は分からない。
ロゴに呼びかけられると、由沙美の顔がパッと明るくなる。スキップするみたいな足どりになって、声だって少し高くなる。由沙美がロゴをどう想っているのか、キツネには一目瞭然だった。彼女の片想いを応援してあげなくちゃいけない立場なのに、相手がロゴだと思うと、なぜかちょっとだけ不愉快になる。くさくさした気分に襲われる。そんな自分が嫌だった。こんな気持ちになるぐらいなら、もっと鈍感になりたい。たとえば、あのバンダナ野郎みたいに。
ロゴは由沙美の気持ちも知らないで、いつも彼女を翻弄している。
二人の様子を眺めていたら、ロゴがこちらを見た。キツネは慌てて、教科書に視線を落とす。無視しようとしたのに、あろうことか彼はこちらに近づいてきた。
「なあ、キツネ」よどみない口調。「さっきはごめん」
先手を打たれて、キツネはうろたえる。そんなふうに言われたら、いつまでも怒っているこっちが子供みたいじゃないか。
「ワシこそ、その……ごめん……」
ロゴの後ろから由沙美が顔を覗かせて、(なにがあったの?)と言いたげな目をしている。年下の子にカッコ悪いところは見せられない。だけど気持ちの切り替えには時間がかかる。下手なことを言いたくなくて、キツネは黙りこくる。
「あの親子だけど、鈴優ちゃんに怪我をさせ□のは母親ではないかもしれない」
 ――梢さんが犯人じゃない? キツネは顔を上げた。
「どういうこと?」
「僕らがあの部屋を訪れる一時間ぐらい前に、近所の人が『争うような物音』を聞いているらしい。鈴優ちゃんはその時に怪我をし□んじゃないかって」
ロゴは今まで、両手にあまるほどの事件に巻き込まれてきた。そのおかげか、彼には警察官の知り合いがいる。先ほどの電話で捜査状況をリークしてもらったのだろう。
「ところがその時間、母親の梢は職場で仕事をしてい□んだ。タイムカードや同僚の証言、エレベーターの監視カメラ。あらゆるもので梢のアリバイが証明されている」
「だけど梢さんは自供しているんでしょう。鈴優ちゃんを殴っぁのは自分だと」
ロゴは首を振る。
「その証言は嘘だろうな。梢は仕事を終えて帰宅し、傷だらけの鈴優ちゃんを発見し□。そして病院につれていこうとし□ところに、偶然、僕らがやってき□のではないか。警察ではそう推理しているらしい」
しかし、だとすれば――。キツネは声を上げる。
「犯人は来華ちゃんだ、ってことになるじゃない!」
子供二人に留守番をさせるのだから、戸締まりはきちんとしていたはずだ。たとえば悪意のある第三者が訪ねて来たとしても、普通の人間とコミュニケーションを取ることのできないブギーマンはドアを開けないだろう。つまり二人のうちの怪我をしていないほう――姉の来華が、妹に暴力を振るったことになる。
「でも、どうして? だってブギーマンは――」
絶対に他人を傷つけない。ロゴの返事を待たず、キツネは畳みかける。
「もしかして遺言詞が突然変異した、とか……」
言いながら、自分の台詞に薄ら寒くなる。
子供を連れ去るという、社会的に問題のある行動を取りながら、ブギーマンたちは精神病院などに収監されずに済んでいる。それは、彼らが極めて穏和な詞族だからだ。さらった子供を傷つけることはないし、彼らの存在が知られてから、児童虐待の件数が減ったという統計もある。ブギーマンの存在が抑止力となり、親たちに虐待をためらわせるのだ。
だが遺言詞は時々、突然変異を起こす。
遺伝子がそうであるように、思いもよらぬ変化をしてコトモノの行動様式を変える。もしもブギーマンの遺言詞に、攻撃的になるという突然変異が生まれたとしたら――。
キツネは自分の肩を抱いた。
そういう突然変異が生じうるならば、世間はブギーマンを放置しておかないだろう。さらった子供を傷つけられるかもしれない。そうなるぐらいなら、今あるブギーマンの集落をすべて解体し、彼らを社会から隔離するはずだ。
事態はあまりにも重い。
「僕らはこれから病院にいく」
背後の由沙美と目配せして、ロゴは言った。あの姉妹はまだ行き先が決まっておらず、とりあえず今夜は病院に入院することになっていた。
「キツネも来るだろ?」
というか、なぜ由沙美がついてくるのだろう。あのアパートで、ロゴの袖口を引っ張った時の気持ちがよみがえる。(これは、ワシの事件なのに)だけど疑問は口にせず、キツネはうなずいた。
「もちろん、行くよ」
教科書を閉じて立ち上がる。
「コトモノ・マニアには任せられないもん」


     十


キツネたち三人を出迎えたのは、目つきの悪いおじさんだった。よれよれのコートに、ぼさぼさの頭。病院の玄関前で腕を組んで立っていた。赤いバンダナを見つけると、行く手を遮るように近づいてきた。
「おひさしぶりです、福地警部」
すかさずロゴが頭を下げる。つられてキツネも会釈した。
「わがままを聞いてくださり、ありがとうございます」
「アホか」関西弁のイントネーションでおじさんは応える。「上の言いつけやから、付きおうとるだけや。仕事やなかっ□ら、ガキの世話なんか誰がするか」
そしてロゴに人差し指を突きつける。
「さっきの電話で、真相だけ答えればよかっ□んや。それがわざわざ関係者を呼び出しよって――。これでもしお前の推理が違うて□ら、わかるな、どうなるか」
目をつり上げてすごんで見せる。関西弁の効果もあって、あまりの恐ろしさにキツネは由沙美と手を取り合った。ロゴは涼しい顔をしている。
「まあ、任せてくださいよ」なんて、いっぱしの名探偵みたいなセリフを吐き、ひょいひょいと病院のエントランスを登る。舌打ちする刑事さんを尻目に、ガラスの自動ドアを抜けた。キツネたちも後に続く。


病室は二人部屋だった。
窓際のベッドでは鈴優が上半身を起こして、ぼんやりと外を見ている。来華はその隣の丸椅子に腰掛けていた。部屋の隅にはパイプ椅子が並べられ、梢と、婦人警官が座っている。痩せぎすの母親はこの一日でさらにやつれてしまったようだ。
カーテンが開いていた。夜空には青白い星が一つ。
あれはたぶんベガだ。
底抜けに明るいあの星は、東京の夜景にも負けずに輝いている。
「さて、聞かせてもらおか」
パイプ椅子を乱暴に引いて、福地警部はどっかりと座った。彼のぞんざいな態度が、キツネはいまいち好きになれない。顔をしかめたら、ロゴに苦笑された。彼は部屋の中央に歩み出る。由沙美に目を向ければ、彼女はベッド横の来華をじっと見つめていた。
「ねえ、ロゴにい。あの子――」
「分かってるよ」
彼は背を向けたまま、由沙美に答える。キツネは居場所を決めかねて、入口の近くの適当な位置に突っ立っていた。幼い姉妹は相変わらずニコニコと笑っている。これから起こることにも興味なさそうに。
「ええと、まず最初に申し上げますが、梢さん」
名指しされた彼女は、ゆっくりと顔を上げる。まともな大人なら、たかが高校生の言葉なんかに耳を貸さない。ロゴの左腕に眠る能力を知らなければ、なおさらだ。けれど梢は憔悴しきっているのだろう。うつろな目で、バンダナ男を眺める。
「コトモノの子供を一般家庭で育てるのは、やはり無理があります。今回の一件で、よくお解りでしょうけれど……」
キツネが思わず口を挟みそうになったら、ロゴが一瞬だけ視線を投げた。ここは任せておけ、と表情が言っている。
「まず現実認識が大きく違いますから、意思疎通を図ることが難しい。さらに、コトモノは遺伝上の親よりも、遺言詞のつながりがある他の誰かを本当の親として見なします。これが親子のすれ違いを生み、不幸のもとになる。コトモノと人間が理解しあうのには、限界があるんです」
ロゴは諭すような口調で続けた。
「無理して一緒に暮らし続ければ、付随的な問題も生じます」
たとえばスーパーでぬいぐるみを盗んでしまったり――。コトモノにとっては当たり前の行動が、人間の親にとっては許しがたいこともある。コトモノと人間とが共存していくには、適切な理解と、適度な距離が必要なのだ。
梢は片手でおでこを押さえると、長い息を吐いた。
「どうして、こんなことに……」
ロゴが言った。
「鈴優ちゃんに怪我をさせ□のは、あな□ではありませんね」
上の娘が、妹に暴力をふるった――。そう気付いた母親は、どんな行動を取るべきだろう。キツネは頭を抱えたくなる。娘をかばうために、自分の虐待だと嘘をつく。もっと他に方法はなかったのだろうか。
「ええ、そうよ」言葉をポイ捨てするみたいに梢は答えた。「私じゃない」
道具を使えば、非力な少女でもあれぐらいの怪我を負わせることができる。鈴優は小学二年生、来華は四年生だ。すりこぎは充分な凶器になっただろう。
姉妹は窓際で、静かに笑っている。
「しかし、ここで一つ疑問があります」ロゴは声を低くする。「ブギーマンには、絶対に他者を傷つけないという特徴があります。僕らの持っている庇護欲を、他のどんな欲求よりも優先しているからです」
たとえ自分が傷つけられそうになっても反撃しない。それがブギーマンだ。
「ですが来華ちゃんは、鈴優ちゃんを傷つけてしまっ□」
室内にいる一人ひとりの顔を、ロゴは順番に見つめた。
「攻撃欲求は、庇護欲と相対するものです。この二つの欲求は、常に僕らの心の中でせめぎ合い、バランスを取ってます。ブギーマンは庇護欲が暴走しているだけでなく、攻撃欲求が消失しているとも言えるでしょう。つまり、ブギーマンは他人を“傷つけない”のではなく、“傷つけられない”のです。ブギーマンである限り、どんな突然変異をもってしても、他人への攻撃行動はありえません」
ロゴが左腕に宿した「ダリ」は、遺言詞を見抜き、記述する能力を持っている。
丸椅子に座った少女に、ロゴは歩み寄る。そして片膝をついて目線を合わせた。来華は赤いバンダナをちょっとだけ見上げた。笑顔はまったく乱れない。
「にもかかわらず君は、妹の鈴優ちゃんに怪我をおわせ□。なぜなら君はブギーマンではないからだ。いいや、そもそも――」
ロゴは相手をまっすぐに見据える。
「君はコトモノじゃないね」
笑顔は、そのままだった。
目を線のように細くし、口角はわずかに上を向いている。悩みなど無さそうな、多幸感に満ちた表情。来華は少しだけ口を開く。
「ぁ――あぁ――」
絞り出すような、ため息のような音をこぼした。ロゴが静かにつぶやく。
「そんなに妹のことが、好きだっ□の?」
来華の下がった目尻が、じわりと濡れた。みるみるうちに大きな雫へと膨らんで、ぽろりと頬を伝う。
「あ――ぁ、あ、あ□しは――」
彼女の「言葉」に、部屋にいた大人たちが息を飲む。
来華の顔が、くしゃくしゃと崩れていく。
「あ□しは、鈴優が、可哀想で――鈴優に、本当は、謝らなくちゃいけなくて――なのに鈴優は、鈴優はぁ――!」
続きは言葉にならなかった。獣のような嗚咽を上げて、来華は泣いた。
病院中に響き渡るような、大声だった。


吉野来華と鈴優は、もともと仲のいい姉妹だった。
仕事で遅くなることも多い母親と一緒に、つつましく暮らしていた。鈴優はどこに行くにも来華と一緒で、自分のクラスメイトよりも、姉の友人たちと遊ぶことのほうが多かった。いつも後ろをついてくる妹のことを、姉の来華も心から可愛がっていた。
可愛がらなくちゃいけない、と思った。
自分はお姉さんだから。一緒に留守番することも多いのだから。歳は二歳しか違わないけれど、鈴優の面倒はしっかり自分が見なくちゃ。そう自負していた。
なのに――。
きっかけは、ほんの小さな意地悪だった。
一年前、親子三人でスーパーに買い物に出かけた時のことだ。まだ小学一年生だった鈴優は、お菓子売り場で駄々をこねた。アニメキャラクターとおそろいの髪留めがオマケについた、子供向けのお菓子。それが欲しいと泣きわめいて、梢を怒らせた。
だが怒りながらも、梢はそのお菓子を鈴優に買い与えた。
――妹だけずるい!
来華は手近な場所に陳列されていたチョコレートを取って、それをねだった。大して欲しくもなかったけれど、妹ばかり甘やかす母親が許せなかった。鈴優と同じように駄々をこねようとしたら、妹のぶんまで怒鳴られた。
――いいかげんにしなさい、お姉ちゃんなんだから!
お姉ちゃんなんだから。
母が口にする魔法の言葉だ。この一言があれば、どんな理屈も感情も無視して、来華に我慢を強いることができる。母はそう信じているみたいだった。
でも来華だって、なりたくて姉になったわけじゃない。理不尽だと思った。理解できなかった。だって、こんなに一生懸命、妹を可愛がってきたのに。お姉ちゃんとして、鈴優の面倒を見てきたのに。なのになんで、あたしばっかり――!
ちょっとした出来心だった。
軽いイタズラのつもりだった。
お菓子についてきた髪留めを、来華は食器棚のてっぺんに載せた。当時、二人は小学一年生と三年生で、身長差は大きかった。たとえ椅子を踏み台にしても、鈴優には手の届かない場所だ。わがままな妹をやっつけた。その満足感で、来華は目を離した。
鈴優が食器棚をよじ登るなんて思いもせずに。
気付いた時には、妹は棚板に足をかけて、てっぺんの髪留めに手を伸ばしていた。
――あぶない!
来華が叫んだ次の瞬間、食器棚のバランスが崩れた。妹にのしかかるようにして、ゆっくりと倒れた。割れた食器が雨のように、鈴優のカラダに降り注いだ。
結論から言えば、鈴優は無事だった。
運良く顔に傷はつかず、二の腕を三針縫うだけで済んだ。そしてこの時も、母親の梢が罪をかぶった。来華をかばうあまり、自分が怪我をさせたのだと担任教師に打ち明けた。そして児童相談所から要注意な家庭と見なされるようになった。
来華は、なかなか謝ることができなかった。
大変なことをしてしまったと思う。でも、どこまで自分が悪いのだろう。姉の気持ちなんて考えず、脳天気に甘えてばかりいる妹にも少しは責任があるんじゃないか――。絶対に口には出せないけれど、そんな自己中心的な想いが胸で渦巻いた。「ごめんなさい」という一言を、いつまでも切り出せなかった。
そうしているうちに、怪我を負った鈴優はブギーマンにさらわれた。
帰ってきたときには、会話が成立しなくなっていた。


病室は白々とした蛍光灯に照らされている。
来華はしゃくり上げながら語り、ベッドにつっぷして泣いた。
「――だから、あ、あ□しは、ごめんって言い□くて――。鈴優と一緒にいれば、一緒にしていれば、いつか言葉も分かると思って――」
二人のすれ違いを思うと胸が痛む。行動を真似するだけではブギーマンにはなれない。遺言詞を授けられ、コトモノにならければいけない。だけど、まだ小学生の子供に、そんなことが分かるはずない。
だから来華はブギーマンのふりをした。
家族の暮らしは楽ではなく、母親の梢は仕事に忙殺されていた。だから娘二人を専門医に診せる機会もなかった。来華の演技はバレなかった。
「だから、だからぁ――」
ロゴは膝をついたまま、来華の様子を見ている。梢は目を見張って、娘の独白を聞いている。となりの婦警さんも痛ましげな表情を浮かべている。福地警部だけが、つまらなそうに貧乏揺すりをしていた。キツネはやっぱりこの男が嫌いだ。
由沙美が口を開いた。
「とんだ茶番ね」
キツネは、ぞわりと背筋が冷たくなる。
「ほんとバカらしい。救いようがないわ」
顔は由沙美のままだけど、表情が一変していた。
彼女の中に眠る、もう一つの人格。由沙美であって由沙美でない、彼女のコトモノとしての部分――。ムジカが目覚めていた。
「大事な妹がコトモノになっ□。だから妹と一緒になり□くて、彼女の行動を見よう見まねで模倣した。笑っちゃうわ、幼稚な演技にいい大人がみんな振り回されて――。学芸会じゃないんだから」
「ちょっとムジカ――」
キツネに構わず彼女は続ける。
「必死で演技を続けているのに、いつになってもブギーマンと会話ができない。だから、我慢の限界がきて殴ってしまっ□のでしょう。大事な妹のはずなのに」
ムジカは鼻で笑う。
「好きで、好きすぎて、だからこそ傷つけてしまう。ほんと、人間ってよく分からない」
「ねえ、そんな言い方しなくても――」
「あな□は黙ってて」
ぴしゃりと言い返された。なにか狙いがあるのだろうか、ロゴはムジカの言葉に耳を澄ませている。彼女はベッドに歩み寄った。そして丸椅子の前に立ちはだかる。
来華は泣き腫らした目でムジカを見上げた。
ブギーマンになる方法なら、あるわ」
ムジカの能力は、他のコトモノの遺言詞を読み取り、歌として詠唱すること――。
「私の歌を聴けば、あな□もブギーマンの遺言詞を知ることができる。それを理解することができれば、あな□もブギーマンになれる」
 ――どうするの? 挑発するようにムジカは首をかしげる。
「ずっと、なり□かっ□んでしょう。ブギーマンに」
彼女のセリフに、梢が腰を浮かせる。ロゴが片手を上げて、あわれな母親を制した。彼の視線は来華に注がれている。少女の選択を、固唾を飲んで見守っている。
「あ□しは――」来華の真っ赤な瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。「こわい」
いつも同じ表情を浮かべ、人間の言葉を忘れてしまう。それがブギーマンになるということ。コトモノになるということは、人間をやめるということだ。
妹みたいになりたかったのに。だけど、妹みたいになることが。
来華は鼻をすすりあげる。
「こわいよぅ……こわいんだよぅ……!」
髪の毛がほっぺたに貼りつき、鼻水も垂れている。来華の顔はぐしゃぐしゃだった。拭こうともせず、彼女は手放しで泣いている。
見ていられなくなって、キツネは顔をそむけた。
ムジカは残酷だ。人間とコトモノの間には絶対に越えられない壁がある。どんなに近づこうとしても、踏み越えることのできない線で断絶されている。こんな幼い子供にそれを見せつけるなんて。
来華の泣き声がぴたりと止まる。
「――鈴優」
コトモノとなった妹が、来華の頭を撫でていた。
泣き止まない彼女を「守るべき対象」として認識しただけかも知れない。ブギーマンとしての反応が、そうさせたのかも知れない。だけど充分だった。
「鈴優……」その手に来華はすがりつく。「ごめんね、痛かったよね」
 ――ごめん、ごめんね。
来華は何度も繰り返した。まだ青あざの消えない妹の腕を、いたわるように撫でる。もう大声で泣き叫んだりしない。何かを取り戻すかのような、噛みしめるような口調。
そして「もう、いいの」と力なく笑った。来華はムジカを見上げる。涙がもう一粒ほっぺたを転がる。静かな涙だった。
「もういいの。なれなくても」
ムジカは深々と息を吐く。
「その返事を聞けて、嬉しいわ」
彼女は微笑むと、まぶたを閉じた。そして次の瞬間、瞳にあどけない光が戻っていた。
由沙美がふり返る。
「ロゴにい、これでいい?」
バンダナ男が深々とうなずく。そしてキツネに目を向けて、小さく笑った。
ブギーマンの少女だけが、ぼんやりと窓を眺めている。
青白い、ベガの輝き。


     十一


旅客機が大気を切り裂き、群青色の空に消えていく。
成田空港、出発ロビーの大型スクリーンには、繰り返し同じ映像が流れていた。
「なあ」と樋口奏が苦笑する。「そんな顔をするなよ。まるで今生の別れって雰囲気だ」
キツネは両手をほっぺたに当てた。(笑顔で送り出さなくちゃ)そう思っているはずなのに、気持ちがにじみ出してしまったようだ。そのまま首を横に振る。
「してないよ、そんな顔」
強がって言い返す。奏は肩をすくめるだけだった。
彼女は夢を叶えるため、これからベルリンへ旅立つ。向こうの学校で、みっちりと音楽を勉強してくる。友達として彼女を応援したかった。
「今の時代、ボイスチャットもSNSもあるんだ。どんなに離れても、簡単に言葉を交わすことができる。そんな寂しそうな顔をしないでくれよ」
奏の言うとおりだ。キツネはうなずく。
「わかってる。わかってるよ」でも――。
最後まで言えない。ごまかすために無理やり話題を戻した。
「ワシには、よくわからないの」
奏はのんびりと答える。
「なにが」
こちらを安心させようとしている。
「来華ちゃんの気持ちが。――どうしてムジカの誘いを、断っぁんだろう」
鈴優はコトモノ専門の施設に引き取られ、梢と来華は二人で暮らすことになった。来華は頻繁に施設へと足を運び、妹の世話を焼いているらしい。
彼女はずっとブギーマンになりたかった。親を騙し、大人たちを欺き、ひたすら妹の真似をしていた。並大抵の努力ではない。想像を絶するような覚悟がなければ、できなかったはずだ。
ムジカの存在は、そんな来華の夢を叶えてくれる魔法だった。
「なるほど。それで、あんな質問をし□んだね」
もしも奏の才能を他の誰かにコピーできる魔法があったとしたら。知識や才能、そして絶対音感をキツネに授けることができたなら。
上目遣いになったキツネに、奏はいたずらっぽい笑顔を返した。
「ぜってーに、かけてやらない。そんな魔法があるとしても、あ□しの力は誰にも分けてやらない」
「えぇ、ひどい!」
キツネの顔が、あまりにも悲壮だったのだろう。奏は大声で笑った。
「ごめん、ちょっとからかいすぎ□ね」
だけど――。奏は目を伏せる。
「あ□しには分かるよ。来華ちゃんがなんでムジカに頼らなかったのか」
首からさげたイヤホンのコードを掲げて見せる。
「キツネには教えてないよね。こいつの秘密を」
奏はコードをたぐり寄せ、カバンから本体を引っ張り出す。タバコの箱ぐらいの、黒い装置だった。音楽プレイヤーにしてはちょっと大きい。
「これ、ノイズキャンセラーなんだ」
環境音を測定して、逆位相の音波を発生させる器機だ。イヤホンから出る音に打ち消されて、周囲の音が消える。
「あ□しはどんな音を聞いても音階が分かる。グラスのイメージを思い浮かべてしまう。それって、すごく疲れるんだ。学校も、街中も、この世界は音で満ちている。ずっと聴いてると頭が痛えんだよね。――だから、こんなものを使っている」
「じゃあ、あの時」下駄箱で「ワシに気がついぃのは――」
奏は苦笑する。
「偶然だよ。もしも視界に入ってなかっ□ら、あのまま帰ってい□と思う。……キツネに、こんな思いはさせられないよ。だから魔法も、かけてあげない」
キツネには聞こえない音がある。奏は、音が聞こえすぎてしまう。現実の認識方法が他の人とちょっと違うだけなのに、いらない苦労をしている。
キツネも肩をすくめた。
「うちら、よく似ているね」
いつか奏に言われたセリフ。諭すような口調で彼女は答える。
「それに絶対音感なんて無くても、キツネはあ□しの友達じゃんか。だから必要ないんだよ――」
来華がムジカの力を必要としなかったように。
現実の認識方法が少しぐらい違っても、人はきっと解りあえる。
「そろそろ時間だ」
奏はキャリーケースの取っ手をつかみ、立ち上がった。家族連れや、若いカップル。スーツ姿のビジネスマン。そういった人々が、慌ただしくロビーを行き交う。キツネも立ち上がり、奏と向き合った。別れの挨拶をしようとした。
即席ステージのクインテットが、最後の曲の演奏を始める。
「これって――」
弦楽器がゆったりとしたメロディを歌い上げる。イントロだけで分かった。忘れようもない「美しく青きドナウ」――。室内楽にアレンジされた、穏やかな音。
懐かしいね、と言おうとした。キツネが口を開くよりも先に、奏が眉をひそめる。
「あんまり、上手くないな」
苦笑を浮かべる。
だけどキツネの耳には、綺麗な音にしか聞こえない。別れの場にふさわしい曲だと感じてしまう。けれど奏には、きっと違う音が聞こえている。夢も生き方も見ている世界も、最初から何一つ同じではなかった。
音楽に魅せられて奏は旅立つ。美しく青きブギーマンが、奏をさらっていく。
急に視界がぼやけた。
キツネは顔を伏せる。笑顔で見送らなくちゃと、胸に誓っていたから。こんな顔は見せられない。
 ――ワシと、かなでは、ぜんぜん違う現実を生きている。
二人に友情が芽生えたのは奇跡に近い。意思疎通ができたのは、表情や口調、仕草を総動員していたからだ。それが無くなれば、きっと心まで離れてしまう。
(今の時代、簡単に言葉を交わすことができる)
だけど言葉だけじゃ、ぜんぜんダメ。ぜんぜん不十分――。
「いつか――」
奏の声も、どこか堅さをはらんでいた。
「いつか、あ□しがオーケストラを指揮する時には、ぜってー聴きに来いよな」
キツネはうなずく。
「ぜってーだぞ。約束だからな」
首が痛くなるぐらい強く、キツネはうなずく。
認識が違う。生きている世界が違う。そんなことにも気付かずに、親友だなんて思っていた。二人の間には越えようのない壁があって、それがあまりにも悔しい。奏が憎い。なのにキツネは、奏の成功を祈らずにはいられない。
白い床は、灰色の足跡で汚れている。
キャリーケースに引き延ばされ、二人の間にも何本もの線が描かれている。キツネのつま先に、ぽたぽたと雫が落ちる。
「ごめん……泣かないって、決めてぇのに……」
奏のつま先が動いた。いくつもの線を踏み越えて、キツネに一歩、近づく。
言葉だけじゃ、伝わらないから。
二人の周りから音が消える。人々のざわめき。発着時刻を告げるアナウンス。踏み鳴らされる足音――。ぜんぶ消えていった。
ただ、柔らかな旋律に包まれる。





     〈了〉






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※原作は手に汗握る能力バトルものです。こんな湿っぽくない。
お読みいただきありがとうございました。「読めた!」の一言でもご感想をいただければ、小躍りして喜びます。ご批判、ご指摘等も大歓迎です。





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