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宮部みゆきのとくいわざ/『ICO―霧の城―』で学ぶ“謎”の作り方

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ICO-霧の城-(上) (講談社文庫)

ICO-霧の城-(上) (講談社文庫)



 ノベライズをしていることは知っていたし、原作ゲームも好きだ。なのに、なぜか今まで読んでいなかった一冊。文庫化されたのを期に読んでいる。んで、これがすんげー面白いのだ。



   ◆あらすじ◆

いつの時代の、どこの場所とも分からない物語――。
海に面した断崖絶壁のうえに、廃墟となった巨大な城がある。いにしえの魔力に囚われ、呪われた城だ。13歳の少年・イコは、生贄として、その城に一人とり残された。彼はその城で、謎の少女・ヨルダと出会う。そして彼女と共に城からの脱出をこころみる。彼女の手を引いて、誰もいない廃墟を探索していく。
「この人の手を放さない。僕の魂ごと、離してしまう気がするから・・・・・・」



     ◆



宮部みゆきの小説は、「すべてが終わったところから物語が始まる」と言われている。ほぼすべての作品に通じる共通点だ。宮部みゆきの得意技と言っていいだろう。『ICO―霧の城―』にも、この得意技が存分に活かされている。
『ICO―霧の城―』の場合、「舞台設定」と「イコの幻視」のそれぞれに、この法則があてはまる。
舞台となる城が呪われたのは、遥か昔だ。いまは生贄の儀式のみが残されている。呪われたいきさつはすでに「過去」の出来事だ。すべてが終わり、その残滓だけが残った――そういう世界観で物語は始まる。
またヨルダと手をつなぐと、ときどき彼女の記憶がイコの脳内に流れ込んでくる。過去の情景をイコは幻視するのだ。しかし、現れる記憶はどれも断片的で、真相はなかなか明かされない。分かるのは「ヨルダが悲しい過去を背負っているようだ」ということだけ。ヨルダの悲劇も、すでに終わったできごとなのだ。
いったいこの城で、過去になにが起こったのか。それが気になって、読者はページをめくってしまう。イコは探索を進めるうちに、その真相へと近づいていくのだが・・・・・・続きはぜひ本書を購入してお楽しみください。



    ◆



この作品に見られる構成は、大雑把にいえば下記のようになる。


「現在のシーン」→「過去のシーン」→「現在(2)」→「過去(2)」→「現在(3)」→・・・・・・


「現在」と「過去」との間に隔たりがあるほど、読者は「その間に何があったんだ?」と疑問に思う。つまり“謎”が生まれる。この“謎”に興味を引かれて、読者は先を読み進める。断絶された二つの時間軸を、繋ぎ合わせようとする。読者がページをめくるのは、その先に知りたい情報が書かれているからだ。逆にいえば、いま読んでいる場所に“謎”があるからこそ、読者はページをめくる。
もちろん、ただ漫然と「現在」「過去」を並べるだけではダメだ。大事なのは、「現在」にも「過去」にも、登場人物の切実な欲求・目的を示すことだ。


『ICO―霧の城―』の場合を見てみよう。
【現在】:こちらはイコを主人公とする物語だ。彼は少女ヨルダと共に、城から脱出するという明確な目的をもって行動している。
【過去】:こちらはヨルダが主人公となる物語だ。彼女は闇の勢力のたくらみを砕き、城の崩壊を止めるという目的を与えられている。


「現在」「過去」のどちらの物語においても、登場人物は切実な目的を持って行動している。目的を読者に明示すると、「その目的を達することができるのか?」という“謎”が生まれる。それだけでなく、読者が登場人物へと感情移入するきっかけにもなる。どんな物語であっても、“謎”と“感情移入”との両面から、「目的設定」は重要だ。「現在」「過去」の二つの物語のあいだに謎めいた断絶があったとしても、登場人物に共感できなければ、読者はその断絶に魅力を感じとることはできない。続きのページを読もうという気にならない。



     ◆



現在の物語も、過去の物語も、「物語」であるという点で一致している。したがって、「物語A」「物語B」というように、もっと一般化できる。


「物語Aのシーン」→「物語Bのシーン」→「物語A(2)」→「物語B(2)」→「物語A(3)」→・・・・・・


勘の良い人なら、「これは群像劇の構成だ」と気づくだろう。登場人物Aの物語と、登場人物Bの物語とを併記していき、結末に向かって一つの物語へとまとめていく。これは「群像劇」と呼ばれる形式の基本形だ。あくまでも基本形であって、現代の商業作品ではさらに「登場人物Cの物語」「登場人物Dの物語」・・・・・・と、並列させる物語の数を増やしている。そのうえで、中心となる人物を一人選び、その人の物語を軸に展開するのが常套手段だ。


ご存じのとおり、宮部みゆきは群像劇の名手だ。むしろ群像劇的でない作品を探すほうが難しい。長編ならばほぼ毎回、複数の語り手によって物語をドライブする。『理由』『模倣犯』『スナーク狩り』『レベル7』・・・・・・枚挙にいとまがない。たとえ短編であっても、群像劇的な要素を持つものが多い。主人公と副主人公とのそれぞれに「まったく別の過去」を与え、それが一つにまとまる瞬間を切り取る――そういう構成の作品が、しばしば見受けられる。二つの物語が一つにまとまるのだから、前述の「群像劇の基本形」を踏襲していると言えるだろう。



     ◆




まとめ:
【1】現在と過去とを交互に描く構成の場合、その隔たりが大きいほど読者の興味を引く。
【2】この構成は群像劇に応用できる。
【3】それぞれの物語が、単独でも面白くなければならない。
(とくに創作活動を始めたばかりの人なら、いちばん重視すべきは【3】だろう。併記されることで面白さは倍増するが、ゼロには何をかけてもゼロのままだ。少なくとも目的の設定は必須だ)



褒めてばかりだが、『ICO―霧の城―』には瑕疵となりうる点もあった。
レバーを押したり、爆弾を仕掛けたり・・・・・・ゲーム中にプレイヤーが実際に操作した行動が克明に描写されていた。が、説明的な印象をぬぐうことができず、この部分は退屈だった。ゲームをプレイ済みの読者であれば「ああ、あの時のあの仕掛けね」と思い出すことができる。しかし未プレイの読者にとっては、冗長な説明文にしかならないだろう。
なぜなら主人公の感情の変化を伴わないからだ。情景描写をするときは「感情の動き」とセットでなければ、読者を飽きさせてしまう。宮部みゆきほどの筆力をもってしても、この点は同じだった。城の仕掛けを解こうと奮闘し、いらだち、焦る――そういう感情の起伏を描こうと作者は尽力していた。しかし原作ゲームの攻略法を歪めることはできないため、説明的な文章を脱することができなかったようだ。



     ◆



原作ゲーム『ICO』は、説明を極力排したシンプルな演出だ。登場人物たちの過去は、プレイヤーの想像にまかされていた。したがってプレイヤーの数だけ、『ICO』の物語はある。『ICO―霧の城―』は、あくまでも宮部みゆき個人が想像した物語にすぎない。この点を指して「おれの思っていたICOとは違う! こんなのICOじゃない!」と怒るファンもいたという。気持ちは判らないでもない。ご自分で二次創作の小説をお書きになればよろしかろう。
ゲームのノベライズは、あまり売れていない作家によってなされる場合が多い。宮部みゆきのような売れっ子が書くのは極めて異例のことだ。宮部みゆき本人は重度のゲーマーであり、『ICO』も大好きだったという。才能豊かな作家が本気モードで書けば、たとえ二次創作であっても読むに耐えるものになる。『ICO―霧の城―』は、それを教えてくれる。





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