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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

掌編小説『野良猫の夕食』

二次創作
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『野良猫の夕食』Rootport著




 ネズミの死体を引き剥がしていたら、急に声をかけられた。
「沢平くん、ちょっと来てくれるかな」
 明日香は粘着式トラップを持った手を止めた。十畳ほどの狭い処理室で、明日香の他に二人の作業員が働いている。軍手をはめた手を休めず、ちらりと明日香を盗み見る。処理室のドアの向こうで社長が手招きをしていた。首を傾げながら、明日香は滅菌カーテンをくぐった。
「なんでしょうか」
 防塵マスクのせいで、くぐもった声になる。空調が行き届いてないため、小さなこのビルはまるで蒸し風呂だ。社長は灰色の作業着の裾を折り曲げ、毛深いすねを晒していた。
「いや、今はまだ作業中だろう。終わったら僕の部屋に顔を出してくれないか」
 小柄な社長は、禿頭をぼりぼりと掻きながらそう言った。なぜか明日香と目線を合わそうとしない。
「うん、大事な話なんだ」
 独り言のように呟くと、そそくさと立ち去った。しかたなく、明日香は仕事に戻る。
 処理室では相変わらずトラップにかかったネズミの処分が続いていた。『東京ヴァーミンバスターズ』というのが、この会社の名前である。総従業員十名に満たない小さな会社だ。ネズミの他、ゴキブリやイエダニなど、ありとあらゆる害獣駆除が職務内容である。主に新宿の雑居ビルが顧客となっており、夜中に仕掛けたトラップを早朝に回収するのが明日香の仕事だった。そして今は、捕らえられたネズミの死体を、処理業者に引き渡せるようトラップから外しているのだ。
 いわゆる3Kの仕事であり、明日香だって望んで働いているわけでは無い。まだ三十歳にもなっていない。猛烈な臭いを出すハツカネズミなど触りたくもない。肥えたクマネズミやドブネズミの死体を初めて見た時は、吐き気を催して仕事にならなかった。
 けれど、仕方ないのだ。生きるためには働くしかない。どうして子供を作ったのか、最近では後悔するようになった。自分の身一つであれば、どれだけ気が楽だったろう。こんな仕事をしなくても、生きていけるのに。
 同僚と言葉を交わすこともなく、明日香は黙々と手を動かし続ける。


     ◆


 社長はブラインドの隙間から、外を眺めていた。そこからは新宿の高層ビル群が見えるはずだ。処理室よりさらに狭い彼の部屋は、申し訳程度の応接セットが中央に据えられ、壁一面に顧客情報のファイルが並んでいる。社長のちんまりした背中を、明日香は眺める。
「それで、お話というのは」
 ううん、と唸るような声を彼は出した。
「沢平くんも知っているように、最近アメリカの防除業者が日本に進出してきたよね」
 はい、と明日香は答える。特殊な周波数の超音波でビルのネズミを一掃するというのが、その企業のうたい文句だった。
「顧客たちが、最近どんどんその企業と契約をしている。防除業務をうちの会社から乗り換えているんだ」
 超音波なんかでネズミを追い払えるはずがない、社長はぶつぶつとごちる。
「大体、欧米での鼠害というのは主にドブネズミによるものだ。それに対して日本ではクマネズミがメインとなっている。アメリカ人に何のノウハウがあるっていうんだ」
 独り言を並べる彼を、明日香はぼうっと眺めていた。防除技術の話など、明日香には興味が無い。この仕事を選んだのも、単に時給が高いからだ。
「しかし、いかがわしい最新機器に顧客たちは流れるんだよな。お陰でうちの会社は二期赤字だよ。このまま行くと、今期もまずい」
 彼は油っぽい目を明日香に向けた。ここまで来てようやく、明日香は背中が粟立つのを感じた。こめかみに冷や汗が浮かぶ。
「あの、社長――」
「申し訳ないけれど沢平くん、明日から仕事に出ないでほしい」
 そう言うと彼は取り繕うように、机の上の書類をいじり始めた。明日香は詰め寄った。
「ちょっと待ってください、あたしには小学生になったばかりの息子がいるんです」
 彼は眉間に皺を寄せながら、明日香を見上げる。卑屈っぽい上目遣いだ。
「うん、本当は僕だって何とかしてあげたいけれど、こればかりはどうにもならんよ。こんな小さな会社でも、慈善事業をしているわけじゃないからね」
 机の上からつまみ上げた書類をブリーフケースに挟んで、彼は立ち上がった。すがりつく明日香を払いのけ、外回りがあるからと出ていった。狭っ苦しい事務室に、明日香は呆然と取り残された。


     ◆


 オフィスビルを出た時には、外はすでに真夏の暑さとなっていた。深夜からの仕事なので生活のリズムは完全に逆転してしまう。ビルの入り口に三回ツバを吐きかけて、古くさいガラスドアに蹴りを入れてから、明日香はそこを後にした。長い茶髪に短いスカート。私だってまだ女だ。こんな仕事、こっちから願い下げだ。
 頭に血が昇ったら、腹が減ってしまった。帰り際にコンビニに寄って甘そうな菓子パンを買った。レジで百二十円を払っているうちに、ふと昼飯を作らなければいけないことを思い出した。今は夏休みの最中である。家で信明が腹を空かしているはずだ。
 やはり子供は面倒くさい。そう思いながらコンビニを出て、煙草に火を点けた。
 帰りの電車の中で、学習塾に向かう小学生を見かけた。坊ちゃん刈りで、黒縁の眼鏡はよく見るとKENZOの刻印があった。全体的に高級そうな洋服を身にまとい、女の子のように白い肌をしている。今は八月、ガキは外で遊んでろって言うんだ。何となく睨みつけていたら、彼は隣の車両へと席を移した。
 明日香の自宅は高円寺の安アパートだ。全体的に古くさい雰囲気の街だが、中でもとびっきり年期の入った建物である。二階建ての外階段は、一歩登るごとにぎしぎしと悲鳴を上げる。
 ドアを開けると、六畳一間の部屋の真ん中で、信明が膝を抱えて待っていた。
「あんた何やってんの?」
 玄関に立ったまま、明日香は思わず口を開いた。信明は何故か、下半身に何も身につけていなかった。非難がましい目で明日香を見つめ返す。
「換えのパンツが無かったんだ」
 玄関からは風呂場と、そこに据えられた洗濯機が見える。洗濯機の脇に汚れた衣類がうず高く積まれていた。明日香は小さく舌打ちをした。玄関に荷物を放ると、汚れ物の山の中に手を突っ込んで、ゴムの伸びかけたブリーフを引っ張り出す。
「洗濯ぐらい、自分でやりなさいよ」
 小さな台所の流し台で、明日香はじゃぶじゃぶとそれを洗った。食器だけでも片づけておいてよかった。しかし乾燥籠には皿や茶碗が並んだままだ。食器棚には空席が多い。
「あのね、こうちゃん達と約束があるの。お昼ご飯食べ終わったら、みんなで遊ぼうって」
 ちらりと時計を見たら、午前十一時を指していた。たぶん約束の時間は午後一時くらい。パンツを固く絞ると、日当たりのよい窓際にそれを吊した。
「今日は暑いから、約束の時間までには乾くわよ」
 洗濯ばさみで止めて振り返ると、信明は小指の爪を囓っていた。
「ああ、もう爪を噛むなって!」
 何度言ったら分かるの、思わず荒っぽい声になる。彼は慌てて小指を離したが、明日香をきっと睨みつけた。
「お母さん、お腹へった!」
 頭の血管が切れるかと思った。信明の物言いに、昼飯を作る気力が消え去っていく。
「じゃあ、これでも食ってなさい」
 さっきコンビニで買った菓子パンを押しつける。鞄の中に押し込んでいたので、潰れて中のチョコレートが飛び出していた。冷蔵庫を覗くと、賞味期限ぎりぎりの牛乳がある。どぶどぶとマグカップに注ぎ、テーブルに並べた。置いた拍子に牛乳のしずくが二つ、カップの外に飛び出した。
 信明は下半身裸のまま椅子に腰掛けると、もさもさと菓子パンを食べ始めた。こっちだって疲れているんだ。明日香も椅子にどっかと腰を下ろす。吸い殻が山盛りになった灰皿を引き寄せ、昼飯代わりの煙草に火を点けた。
「このパン、美味しい」
 さっきまでの憎たらしい表情はどこへ行ったのか。信明はにっこりと笑った。明日香もつられて笑ってしまう。そんな自分に苦笑しつつ、鼻で溜め息をついた。煙が二つに分かれて、顔の両脇を昇っていく。
 その時、ぐうっと変な音がした。
 間違いなく、明日香の腹から出た音である。信明が首を傾げる。
「あれ、お母さんも――」
 お腹減ってるの、信明がそう言いきる前に、明日香は鼻歌を口ずさんだ。子供にまで虚勢を張っているようで恥ずかしく、頬が少し熱くなる。


 ――どうしてお腹が減るのかな?
   喧嘩をすると減るのかな?
   いくら食べても減るもんなーぁ

    
 信明は目を丸くした。次の一口を食べようとした菓子パンが、ぽかんと開いた口の手前で止まる。そして、
「何、その歌!」
 腹を抱えて笑い出した。明日香は構わず続けた。


 ――かあさん、かあさん、
   お腹と背中が……、くっつくぞ!


 「くっつくぞ」の歌詞で、明日香はおどけて両手を腹に押し当てる。信明はさらに大声で笑った。同じ歌をもう一度繰り返して歌う。歌っている間に、信明への鬱陶しい気持ちが隠れてしまう。
 二度目の「くっつくぞ」では、信明も一緒に腹を押さえた。
 煙草を揉み消して、明日香は立ち上がった。さっきまでの重苦しい気分は消えていた。
「それじゃ、お母さんちょっと眠るから。パンツが乾いたら自分で穿いて行きなさい」
 はぁい、と信明がのどかな返事をする。お腹がふくれて、機嫌が良くなったのだろう。
 明日からは仕事を探さなくてはいけない。アルバイトだから失業手当も無い。あれには手を付けたくなかったけれど、背に腹は代えられない。こうなった以上、しばらくの間はあれを使うしかない。部屋の隅っこに布団を敷きながら、明日香は苦い気持ちを噛みしめる。
 横になると、スイッチが切れたように眠りに落ちた。


     ◆


 遠くのチャイムに目が覚めた。五時半を知らせる「ゆうやけこやけ」のメロディー。
 目をしばたたかせながら、体を起こす。テーブルの上には信明の使ったマグカップが残されていた。彼はまだ帰ってきていないようだ。
 煙草を一服する間もなく、明日香は猛然と動き始めた。山積みの汚れ物を洗濯機に押し込み、牛乳が乾いてこびりついたマグカップをごしごしと洗い、米をといで炊飯器のスイッチを入れた。
 冷蔵庫の中を見ると、昨日買ったママカリが残っていた。イワシを酢で締めて数の子と和えたものだ。スーパーの総菜コーナーでいつも売れ残っているこのおかずは、信明の大好物だった。ご飯とママカリ、後は味噌汁でも作れば夕食の完成だ。
 味噌汁に入れる玉葱を切っていたら、信明が帰ってきた。
「ただいま」
 声がいつもより沈んでいる。ほっぺたに擦り傷を作っていた。
「ちょっとどうしたの」
 Tシャツやズボンにも、泥がべっとりとついている。信明は小さく鼻を鳴らした。
「かずくんと喧嘩したんだ。みんなで木登りしてたんだけど、てっぺんの枝を独り占めしてたんだよ、かずくん」
 かずくんとは、信明と同じ学校に通う宮田一樹のことだ。明日香は信明の遊び友達を完全には把握していないが、「こうちゃん」こと木下浩太郎をリーダー格としたグループの仲間である。
 ぐずりそうになる信明を、男の子でしょと窘めて風呂に追い立てた。背後で味噌汁のダシを取っていた鍋が噴きこぼれる。信明はまだ何か言いたそうだったが、しぶしぶと服を脱ぎ始めた。
 食事の支度が整ったのとほとんど同時に、信明は風呂から出てきた。
「うわぁ、ママカリだ!」
 さっきまでのふてくされた顔は、泥と一緒に流れてしまったらしい。食事に飛びつこうとする信明を抑えて、ほっぺたに消毒をしてやった。
 食卓につくと、信明はおもむろに魚の酢締めを頬ばった。
「美味しいなぁ。やっぱ母さんのご飯が一番だ」
 これは嫌味だろうか。明日香は味噌汁を啜って聞かないふりをする。
「そういえば最近、アランが来ないね」
 口に米粒を入れたまま、信明は言った。
「ちゃんとご飯食べてるかなぁ」
 食べ物を飲み込んでから喋りなさい、世の母親は口うるさいものである。そうなりたくないと思っていても、もはや本能に近い。
「大丈夫よ、アランだってもう大人なんだから、自分の餌ぐらい獲れるはずよ。どうしてもお腹が空いたら、また来るんじゃない」
 アランとは、しばしばこの家のベランダにやってくる黒猫である。この部屋は二階だ。どうやって登ってきたのか、最初にやってきた時は子猫だった。下に降りられなくなったその猫を、信明は餌付けてしまった。それからというもの、ぶらりと現れては信明に食べ物をねだり、満足するとまたどこかへ消えるようになった。
「ねえ、母さん」
 信明が箸を止める。 
「なによ、神妙な顔しちゃって」
 汚れた頬を引き締めて、彼はまっすぐに明日香を見つめた。
「お仕事で、何かあったの?」
 味噌汁を吹き出しそうになった。信明はときどき、恐ろしいほど冴える。母親の明日香とは裏腹に、物事を順序立てて考えることだって得意だ。
「だってお母さん、いつもは家に帰ってくると、真っ先に手を洗うじゃない? ネズミは汚いからって」
 会社を出る前にも洗っているのだが、やはり気持ち悪い。
「だけど今日は違ったから、なんか変だなって……」
 信明の尻すぼみな声に、自分の表情がこわばっていると気付いた。慌てて笑顔を作ってみせる。
「お母さん、あの仕事やめたの」
 ごめんね、信明。心の中で呟く。
 息子は少し黙ってから、にこりと笑った。
「そっか」
 すぐに言葉を選びだす機転は、明日香には無い。
「ネズミとりのお仕事は、アランに任せなくちゃね」
 信明はそう言って、再びママカリに飛びかかった。米の上にのせて、一気に掻き込む。擦り傷の目立つ頬に、米粒一つがついている。至って上機嫌で、鼻歌のひとつでも歌い出しそうな表情だ。
 息子の顔に、あの男の面影を見るたびに、明日香は複雑な気持ちになる。
 高校生だった明日香に夢を見させて、子供が出来たと知るやいなや尻尾を巻いて逃げ出した、あの男。手切れ金代わりに、たったの百万。明日香の手元に残ったのはそれだけだった。悔しくて、情けなくて、その金には絶対手を付けないと決めていた。
 だけど目の前の少年を見ると、あの夜のむなしさが嘘だと思える。
 いつの間にか姿を見せなくなった黒猫は、きっと今、ネズミを食べている。
 ママカリをほおばる顔は、明日香のたからもの。彼がいなければ、きっと自分は死んでいた。だから――。
 もの思いにふけっていると、信明が鼻歌を歌っていた。


 ――どうしてお腹がへるのかな?


 それはたぶん、幸せのため。
 思わず明日香は口をとがらせる。
「食べながら歌うんじゃありません!」



     〈了〉



槇原敬之『武士は食わねど高楊枝』にインスパイアされて書いた掌編。というわけで二次創作カテゴリで投稿します。