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デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

小説の「語り口」を分類する/言葉が作る読者との距離感(?)

創作
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某・小説投稿サイトにて「一人称・三人称」に関する考察を書き込んだ。すでに流れてしまい、その書き込みはもう閲覧できない。参加者の一人から、「もう一度おなじ内容を書いてくれ」との依頼をいただいた。コピペならば簡単だ。私はすべての書き込みを保存している。しかし自分自身の考えをまとめるため、ブログのエントリーに書きなおしてみる。




◆書き方の大まかな分類◆


小説の文体は、ざっくりと二つに分けられる。ご存じのとおり「一人称」と「三人称」との二つだ。これらはさらに細分化できる。一人称であれば、「僕」「私」を多用する文体と、あまり使わない文体とに分けられる。また三人称は、いわゆる「神の視点」と呼ばれるような客観的な文体と、登場人物の一人に寄り添うような“一人称的な”三人称の文体がある。
すなわち、以下の図の通りだ。



※この分類に収まらない文体も当然存在します。
※あくまでも素人が趣味で分析しているだけです。
※ああっ!ごめんなさい!石を投げないでッ!



◆【A】「僕・私」を多用する一人称◆
一人称といえば、普通はこの形式を思い浮べるはず。ライトノベルならば『涼宮ハルヒの憂鬱』『俺の妹がこんなに可愛いはずがない』などが該当する。かの夏目漱石先生も大好きな文体で、『こころ』『吾輩は猫である』など、たくさんの作品を残している。最近印象に残ったのは海外ファンタジーで、いきなり「おれはダレン・シャン……」と書いてあった。
この形式では「語り手の姿」が印象に残りやすい(ような気がする)。主人公が「俺が/僕が/私が」と語り始めることで、彼らと読者とが相対化されるのだ。読者は「俺」でも「僕」でも「私」でもない。主人公とは全然違う人間だ。だからこそ、この手の作品では「語り手」のキャラクターがひきたつ。キョンの姿や、「私」「先生」の姿が、明瞭にイメージできる。




◆【B】「僕・私」をあまり使わない文体◆
文章力がある人ならば、一人称であっても「僕・私」を使わずに表現できる。具体例を示そう。漱石先生に再登場ねがう。


「親ゆずりの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分、学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小づかいに負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。」


『坊ちゃん』のこの書き出しは、あまりにも有名だ。リズムもユーモアもパーフェクトで、今読んでも惚れ惚れするような名文だと思う。
そして注目すべきは「僕・私」のような一人称を、一切使っていないこと。使わずとも、自然な文章を書くことは可能なのだ。すぐに思い出せる例としては、宮部みゆき『ステップ・ファザー・ステップ』の第一話がこの文体を徹底していた。
先ほどの【A】と比較すれば、読者と語り手との相対性が弱くなるはずだ。ゲームでいえばTPSとFPSの関係に似ている。【B】の文体のほうが、読者と主人公との距離感は近しいはずだ。語り手自身のキャラを立てるよりも、語り手の目を通して見た他の登場人物たちを際立たせたい場合には、こちらの文体のほうが適している(かも知れない)




◆【C】神の視点の三人称◆
この文体については「ハードボイルド」というジャンルが成立しており、深く暗く難しいマニアックで泥沼のような議論がすでにある。ので、シロウトの私が踏み込もうとしても火傷をするだけだ。詳しくはggrk――。
と書いて終わりだと私自身の勉強にならないので、ざっくりとまとめておく。
特定の登場人物に偏ることなく、まんべんなく「状況」を描写していく文体と定義できるだろう。内面描写の有無もかなり重要だ。これは私見だが、心情の吐露は書かずに「目で見て分かる」ものだけを描写したほうが、この文体では成功する(自然に見える)。たとえばクリスティー『そして誰もいなくなった』ならば、誰かの心情をつきつめて書いてしまうとトリックがバレる。登場人物たちの行動を、できるだけ客観的に、淡々と描写しているからこそ、推理の楽しさが生まれる。物語外部のメタな視点から語られるという点で、戯曲に近いと言えるだろう。


◇話は脇道にそれるけれど、アガサ=クリスティーの前には当然、コナン=ドイルやエドガー・アラン=ポーがいる。ミステリーの創始者たちだ。彼らの創作の源流には、ヨーロッパのフェアリーテイルがあるという。いわゆる「奇譚」だね。魔術や呪いなどの渦巻く物語だ。そういうファンタジックな事件に、(それなりに)現実的な回答を与えたことが、ミステリーの始まりだと言えるらしい。
◇じゃあ彼らが活躍した時代はどんな時代だったかと言えば、産業革命の華やかなりしころだ。文系大学生の諸君、出番だ。みんな大好き「ぷろりん」こと『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、産業革命の背景には勤勉を良しとして貯蓄を奨励したプロテスタントの思想があるという。
◇で、プロテスタントでは呪術やまじないなどを「悪しきもの」と見なしていたらしい。だからこそ科学が興隆し大量生産の時代に入った……のだが、文学作品も無関係ではないだろう。ポーやドイルが「奇譚に現実的な回答を与える」というアプローチをできたのも、こうした時代背景があるからではなかろうか(だと私は妄想しているのだけど教えて!詳しい人!)ちなみに『クリスマス・キャロル』もこの時期の作品なんだよね。でも、こちらはオカルトの名作(と言ったら怒る人がいそう)。
◆話を少し戻そう。三人称小説といえばハードボイルド。で、ハードボイルドの元祖といえばダシール=ハメット『血の収穫』だ。こちらは1929年の作品。まるで書簡のような文体であり、行動やセリフの行間から登場人物の内面を読み取らねばならない作品だった。ストーリーは血で血を洗うようなサスペンス。「できるだけ客観的に書く」というハードボイルドの精神は、現代にも受け継がれている。
◆で、ハードボイルドの成立には、「映画の登場」が背景にあったと私は妄想しているんだよね。映画には、登場人物の心情は映らない。役者の演技やセリフだけで、観客はそれを判断しなければいけない。「目で見てわかる」ものから物語を楽しむことに、一般人が慣れていったのはこの時期だ。
◆ちゃんとストーリー性を持った初めての映画は、1902年の『月世界旅行』だ。それから20年以上、無声映画の時代が続く。トーキーが登場するのは1927年だ。『ジャズ・シンガー』を契機に、音声付の映画が急速に普及していく。映画が庶民の娯楽として浸透した時期は、ハードボイルドの登場前夜と言えそうだ。
◆1939年、映画『風と共に去りぬ』が公開され、空前の大ヒットとなる。フルカラー&音声付の作品だ。個人的にはオーパーツだと思っている。(さすがにシナリオが冗長なのは否めないが)現代の映画と遜色ない出来だからだ。戦前の作品とは思えない。で、この1939年はレイモンド=チャンドラーが『大いなる眠り』でデビューした年でもある。言わずと知れたハードボイルドの大家だ。「カッコいい探偵が渋いセリフを吐きながら事件を解決する」という形式は、この人が作った。
◆映画史との符合ばかりを挙げてきたけど、もちろんヘミングウェイを忘れちゃいけないよね。ハメットやチャンドラーの簡素な文体は、ヘミングウェイの影響だとされている。作品そのものは退屈で私はあまり好きじゃない。でもフローズンダイキリの美味しさはガチだ。夏の京都、川床で飲むのが最高。
○以上はすべて私が妄想で書いているので、間違いだらけの大ウソだと思った方がいいです。信じて痛い目にあっても知らないぜ、お嬢さん。
※ていうか詳しい人がいたらぜひ間違いを正してください。教えてください。




◆【D】一人称的な三人称◆
三人称の文体でありながら、登場人物の内面をかなり細かい部分まで書いてしまうタイプ。現代の娯楽小説は、多くがこの形式だと思う。違う人物の内面を次々に描くのは混乱を招くため、普通は登場人物の誰か一人(=主人公)に的を絞って、その内面を組み上げていく。
私が敬愛する宮部みゆき桐野夏生乃南アサは、この文体を得意としている。とくに乃南アサは「内面の吐露」と「客観的な描写」との境目がシームレスで、あまりこだわらずに書いているような気がする。
ライトノベルならば『イリヤの空、UFOの夏』がこの文体を採っていた。「浅羽(主人公の名前)は○○した。××した」という客観的な描写とあわせて、「△△と思った」という内面描写まで踏み込んでいる。が、ヒロインの内面は最後の最後まで描かれない。
ライトノベルの欠点として、しばしば「視点の混乱」があげられる。「内面が明らかになる人物」が複数人に渡っていると、読者の混乱を招く。初期のライトノベルはTRPGのリプレイと大差がなく、文章に難点のある作品も少なくなかったらしい。ただし、それは昔の話。最近のラノベでは滅多に見かけない。『イリヤ』の作者・秋山瑞人は「誰の内面を描くか」を徹底している。浅羽以外の人物の心情を描く場合には、きちんと章を分けて「その人物が主人公となる物語」として書いている。
この文体は【A】よりも主人公を客観視している。だが、【C】ほど付き放してはいない。ほどよく感情移入できる文体だと言えそうだ。




◆まとめ◆
小説に用いられる文体を、大雑把に四つに分けて考えてみた。書き方によって、読者との距離感に違いが生まれると分かった。具体的には「【B】→【A】→【D】→【C】」の順で、徐々に読者から“遠ざかって”いるように感じられる。
ただし最近では「文体そのものは感情移入にとってあまり大事じゃない」という考えを私は強くしている。というのも、上手い人が書くと、たとえ観察記録のような書き方【C】であっても、充分に登場人物へと感情移入させられてしまう。状況設定や仕草、セリフなどを活用すれば、読者との距離感は簡単に縮まる。逆に一人称であっても、読者には理解不能な思考回路で行動すれば、なんだか付き放されたような感覚に陥る。
したがって文体は、読者と登場人物との「距離感」に影響を与えるかも知れないが、絶対的なものではないと言える。




※以上の話は、ワナビなら誰でも一度は考えるはず。「どういう文体で物語るか」は、キーボードに向かったときにまず真っ先に決めなければいけない。だから、新しいコトは何一つ書いていないんだよなあ。ドヤ顔でこのエントリーをアップするのは、ちょっぴりハズい。