デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

『けいおん!』の第二期がはじまる前に(5)

このエントリーをはてなブックマークに追加
Share on Tumblr


『白鳥たちは見えないところでバタ足をする』
Rootport著


第1回はこちら→http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20100325/1269487497
※全5回



     【5】

「インターネットで調べたら、たくさん見つかりました。日本中に、女性をDVから保護する団体があるんです。NPOとか弁護士会の窓口とか、形式はいろいろです。余計なお節介だと笑われるかも知れません。みお先輩ご自身は、マコトさんと別れたくないとおっしゃっていたんですから。
でも私は立ち止まることができませんでした。みお先輩の腫れあがった腕を思い出すと、怒りを抑えられませんでした。新宿での一件から、みお先輩はあまり学校に来なくなりました。もともと学年が違うので、お互いの時間割りなんかほとんど知らなかったんです。みお先輩の必修科目の授業を覗いたら、ちゃんと出席なさってました。けれど講義が終わると、足早に帰ってしまいました。もちろん呼びとめましたよ。「みお先輩!」って声をかけました。だけど人が多くて聞こえなかったのか、それとも無視されたのか、みお先輩は振り返りませんでした。メールを送っても、返信はありませんでした。
A大学のキャンパスから青山通りを挟んだ反対側に、国連大学のビルがあります。その裏手に、ウィメンズプラザっていう建物があるんです。東京都の運営している事務所で、そこでDVの相談も受け付けています。予約制ですが、ときどき弁護士の人も来て、きちんと相談を聞いてくれます。保護命令――みお先輩に近づくことを禁止する命令を、裁判所から出してもらうお手伝いもしてくれるそうです。東京都の福祉事業ですから、ほとんどの支援が無料です。
一晩、考えました。頭に血が上って暴走してしまうのは私の悪いクセだから。一度、冷静に考えました。私が勝手に動くと、みお先輩に迷惑がかかるんじゃないか。みお先輩は本当に助けを必要としているのか。夜が明けるころには、気持ちは固まっていました。
翌日、授業もそこそこに私は相談窓口に足を運びました。対応してくださったのは五十嵐さんという女性職員で、四十代後半ぐらいかな、なんでも知っている優しいおばさんという雰囲気の方でした。窓口の職員さんは弁護士ではありませんし、法的な争いに参加したり、命令を出したりすることは出来ないそうです。
「正直に申しますと、難しいです」と五十嵐さんはおっしゃいました。原則として本人の意思に基づかなければ、行政側が動くことはできないんです。もちろんデートDVは傷害罪になります。警察に通報すればマコトさんを逮捕してもらうことはできます。五十嵐さんも「お話を聞く限り、みおさんをなるべく早くマコトさんから引き離したほうがいいだろう」とおっしゃっていました。
けれど、傷害罪が重たい罪になるとは限りません。いったんは留置されても、嫌疑が軽ければすぐに解放される場合もあります。
「報復される場合もある」と五十嵐さんはおっしゃっていました。みお先輩が被害を取り下げてしまったら、元も子もないです。
「ぜひ、みおさんを説得してください」と五十嵐さんには言われました。「説得して、一緒にいらしてください。そして直接みおさんからお話を聞かせてください。いきなり『別れたほうがいい』とお伝えしても、ほとんどの場合、効果がありません。むしろその男のことを理解できるのは自分だけだと信じて、余計に心を閉ざしてしまうこともあります。自分なら彼を優しかった頃に戻せると、思い込んでしまうんです。ですから、みおさんはまず、相手の男からされたことを、誰かに伝えることが必要です。言葉にして誰かに伝えることで、自分の置かれた状況を客観的に考えることができます。客観的に考えて『別れたほうがいい』と、ご自身で納得していただかなければなりません。そのお手伝いを、私にさせてください」
とにかく一度、みお先輩を連れてくること。それが要点でした。ウィメンズプラザに足を運ぶ前に、私自身、反省していたんです。どうして「別れるべきです」なんて偉そうに言ってしまったのだろう。みお先輩の目には自分とマコトさんの二人しか見えていなくて、私は第三者でしかありません。とやかく言われる筋合いはないと思われても、しかたのない立場なんです。きっとそれが解っていたから、ゆい先輩はあの時、私にアイスクリームを差し出したんです。場を丸く収めようとなさっていたんです。
みお先輩にメールを送りました。この前は出過ぎたことを言ってごめんなさい、もう一度お話がしたいです――。気持ちをぐっとこらえて、マコトさんについては書かないように気を付けました。
正直に言って、避けられていたと思います。メールは帰ってこないし、学校で見かけても逃げるように立ち去ってしまうし。みお先輩を追いかけて、私、空回りしてました。
十月の夜、みお先輩から着信がありました。バイト帰り、駅から家に向かって歩いているときです。その日の夕方まで雨が降っていたので、空気は湿っていて、水たまりに街灯が反射していました。誰かがスイッチを切り替えたみたいに残暑が終わり、急に冷え込んだ日でした。暗い鞄の底で、ケータイが震えていました。画面に表示されたみお先輩の名前を見て、足がすくみました。
「もしもし中野です――」
返事はありませんでした。駅から私のマンションまでは表通りが続いています。けれどその日は、クルマが一台も走っていませんでした。道沿いのお店も、すでにシャッターを下ろしていました。雨上がりの重たい静寂。電話の向こうから、くすん、くすんとすすり上げる声が聞こえました。
「どうしたんですか。みお先輩ですよね。大丈夫、ですか」
電話の向こうからは、すすり泣きの声が続いていました。意識を集中させなければ、ノイズと混ざって聞こえなくなりそうな音。けれど電話の向こうに、みお先輩がいる。返事なんて無くても、私は必死で話しかけました。
「私、みお先輩の電話を待っていたんです。電話もメールも通じなくて、ずっと心配してました」
お願いだから、電話を切らないで。話しかけながら、それだけを考えていました。
「この前は偉そうなことを言ってごめんなさい。私、反省したんです。みお先輩に言い過ぎてしまったって、ずっと気がかりだったんです。マコトさんとのことは、みお先輩ご自身が考えて、みお先輩が決めることでした。それに気づいて、ずっと、謝ろうと思っていました――。えっと、あの、みお先輩。私にできることは何かありませんか。私、みお先輩のお役に立ちたいんです。どんなことだって、します――」
言い終わる前に、嗚咽に遮られました。「あずさぁ……」と私の名前を呼びながら、みお先輩は大声で泣きました。ごめん、ごめんと繰り返すばかりで、言葉にならないようでした。鼻声だったし、語尾はずっと震えていて、みお先輩がなぜ電話をかけてきたのか理解するのに時間がかかりました。
「マコトがクスリを使っているらしい」という言葉に、私は足を止めました。深夜の街路を一台のトラックが近づいてきて、私のすぐ横を走り去りました。クスリという単語が知らない外国語のように聞こえました。薬という漢字と結びついて、文脈からその意味を飲み込むまで、たっぷり十秒はかかったと思います。
もう一年ぐらい前から、マコトさんがガラの悪い男たちと付き合っていることには気づいていたそうです。月に一度くらいのペースで、平日の夜、誰も客の入っていないはずのライブハウスにマコトさんは足を向けていました。いちど後をつけてみると、下北沢の駅前で音楽とは縁のなさそうな人たちと落ち合って、マコトさんはライブハウスに向かったそうです。中で何をしているのか気になりながらも、足を踏み入れられませんでした。みお先輩は要領のいい人ではないです。例えば「淋しくて、ついて来ちゃった」とか言ってごまかせるような人ではありません。一人で部屋に戻って、悶々と夜を過ごしたそうです。
私に電話をかけてきた夜、食器棚の整理をしていたら、戸棚の奥から「枯れた葉っぱ」が出てきたそうです。丁寧にティッシュペーパーのようなもので挟まれて、平たいクッキーの缶に除湿剤と一緒に入っていたと言います。一目見て、みお先輩はそれが何であるか見当がつきました。マコトさんはバンドのメンバーと練習するために出かけていて、みお先輩は一人その「枯れた葉っぱ」と睨みあっていたそうです。
「あずさ、私どうしたらいいんだろう。どうすればいいんだろう」と何度も繰り返すみお先輩は、完全に取り乱していました。みお先輩をなだめながら、私は少しずつ話を聞きました。
「みお先輩、今どこにいるんですか。もし心細ければ、今から私の部屋に来ませんか。電車はもう無くなってしまったけれど、タクシーで迎えに行きます」そう言うと、みお先輩は「ありがと、でも大丈夫」と答えました。
「今は怖くなって――マコトの部屋にはいないの。私の、自分の部屋にいるから」同棲していることを地元の両親に気付かれないために、みお先輩は部屋を解約せずにいました。「だから、平気。クッキーの缶もきちんと元の場所に戻しておいたから、大丈夫、私が見つけたってこと、きっとマコトは気がつかない」
それを聞いて、とりあえずは安心したんです。一番まずいのは、缶の中身についてマコトさんを問い詰めてしまうことです。そんなことをしたら、みお先輩がマコトさんから何をされるか……。考えたくもありません。大麻を見つけたことは秘密にしておいたほうがいいと、私は言いました。
「大丈夫、そうする――」
「それと、このことは他の誰かに相談しました?」
もちろん返事は「ううん」でした。「できるわけない」
「……そう、ですよね。気安く話せるような内容じゃないですよね」
みお先輩が誰よりも最初に私に電話をくれたことを、あの時は誇らしいとすら感じました。頼りにされたことが嬉しかったんです。バカですよね。大事なのはそんなことじゃないのに。
「みお先輩、これからは何でも相談してください。一人で抱え込まないでください。その葉っぱのことみたいに、誰にでも話せるようなことばかりじゃないかも知れないです。だけど、秘密は守ります。私は――私たち軽音部の仲間は、絶対に裏切らないです」
また鼻声になりながら、みお先輩は「ありがとう」と答えました。
みお先輩はだいぶ落ち着きを取り戻していました。だから、私はウィメンズプラザについて話すことに決めました。五十嵐さんから聞いた話。それが単なる「別れさせ屋」ではないこと。そういうことを、一つずつ話しました。みお先輩は黙っていました。くちをきゅっと閉じた神妙な顔が、目に浮かぶようでした。
「だから、一度お話をしに行ってみませんか。みお先輩みたいな立場におかれた人が、どんな判断をしたのか、聞きに行きませんか」
長い沈黙があって、私は空を見上げました。東京の街明かりに照らされて、夜の雨雲は鉛色に光っていました。一度やんだ雨が、ぽつり、ぽつりと再び降り始めていました。折り畳み傘は、鞄のいちばん奥で、すぐには取り出せない場所でした。
「――行く」
みお先輩の返事を確認して、私は再び歩きはじめました。控えめな雨が降っていました。部屋につけばすぐに乾く程度だったので、傘はさしませんでした。日程と、時間を確認して、私は電話を切りました。本当は翌日にも行きたかったです。が、五十嵐さんのお休みの日だったんです。三日後の水曜日、午後一時の約束でした。
電話のあと、私は震えていました。けれど、寒さはまったく感じていませんでした。ほっぺたから耳にかけて、火がついたみたいに熱くなっていました。百メートルを全力疾走した後みたいに、心臓が高鳴っていました。きっとあの時、私は闘志に震えていたんだと思います。ときどき顔にぶつかる雨粒が、冷たくて気持ちがいいほどでした。
けれど三日後、みお先輩から連絡はありませんでした。
代わりに届いたのが、センパイからのメールです。
大麻を焚いている現場に、警察が踏み込んだそうですね。そしてその時なぜか、みお先輩も現場にいました。マコトさんたちと一緒に大麻を吸っていると疑われて、みお先輩も一緒に逮捕されました」


     【6】


「あ、時間です。もうすぐお店を出たほうがいいです。ここからだと東京駅まで二十分ぐらいかかります。たしか、こっちに来るときは夜行バスを使ったとおっしゃってましたけど――そっか、やっぱりあまり眠れないものなんですね。私、使ったことがないんです。
ハタチを過ぎても、知らないことばっかりです。法律上はオトナでも、ぜんぜん実感がありません。周りからは子供っぽいって言われるし、自分自身、高校のころから少しも成長していないような気がします。もう三年も前なんですね、センパイたちと一緒に軽音部で過ごしたのは。三年、あっという間だったな。中学、高校の頃の三年間はあんなに長かったのに。時間の流れを速く感じるようになったことだけは、ハタチを過ぎて変わったことかも知れないです。成長というより老化って感じですけどね。
あ、気を遣わないでください。ワリカンで構わないです。センパイに気を遣わせてしまうなんて、私のほうが心苦しくなります。
駅までお見送りしますね。
――センパイ、三年間って充分な長さだと思うんです。
人間関係を壊すのに、三年って充分な長さなんです。
互いに何を考えているのか判らなくなって、全然知らない相手のように感じてしまう。関係が壊れるって、そういうことです。センパイは、初めてみお先輩と出会った時のことを覚えてらっしゃいますか。初めてゆい先輩と出会った時のことでもいいし、むぎ先輩や、私でもいい。互いに何も知らないまっさらな状態で顔を合わせた時のこと、覚えていますか。軽音部のメンバーが初めて音楽室のドアを開けた時、どんな言葉を交わしたか、その時お互いにどんな表情を浮かべていたか、覚えていますか。
私たちは何も知らない状態で出会います。そして時間をかけて、手探りで、互いのことを理解していきます。けれど会わない時間が長くなれば、また判らないことが増えていくんです。顔つきは変わらなくても、どんなことを考えているか、どんなことに笑って、泣くのか、人の内面は絶えず変わります。湖のかたちは変わらなくても中の水は絶えず循環しているように、きっと今のセンパイは、私の知っている三年前のセンパイじゃないと思うんです。
時間をかけて、私たちは戻っていくんです。何も知らない、赤の他人同士へ。
私、結局、みお先輩が何を考えていたのか解りませんでした。解ったふりをしているだけでした。どんなに殴られてもマコトさんと別れなかった理由とか、大麻を焚いている現場に居合わせた理由とか――。検査の結果、みお先輩は大麻を使っていなかったそうですが。……解らなかったです。今でも解りません。
ただ一つだけ、教えてください。
センパイに訊きたいんです。
あの日、センパイはたまたま東京に遊びに来ていたそうですね。たまたま他の友達のところに遊びに来ていたのだけれど、時間があれば会うつもりで、みお先輩と連絡を取り合っていたそうですね。だから誰よりも早く、みお先輩が逮捕されたことを知った。だから、みお先輩のご両親が到着するまで、警察署でみお先輩を待っていた。そう聞いています。
本当に「たまたま」だったんですか。東京にいたのは偶然だったんですか。
あの日、警察に通報したのは、センパイじゃないですか?
大麻を発見した夜、みお先輩は、センパイにも電話をしたんじゃないですか。私はあの時、「一人で抱え込まないでください」って言いました。もし、みお先輩がこの言葉を受け止めてくださっていたら、みお先輩の頭には誰が思い浮かんだでしょう。軽々しく口には出来ない話です。絶対に秘密を守ってくれそうな、信頼のおける人物――幼馴染のセンパイを、思い浮べたんじゃありませんか。他の誰にも話せなくても、中学も高校も一緒だったセンパイになら話せる。そう考えたとしても無理はありません。そして、自分の境遇やマコトさんのクスリのことを、涙ながらに語ったんじゃありませんか。そして、それを聞いて……あなたは――!
ごめんなさい……。泣かないって、決めたのに……。
みお先輩が引きこもったのは、マコトさんが大麻を使っていたからでも、刑事さんから心無い言葉を浴びせられたからでもないと思います。彼氏が麻薬を使っているだなんて、簡単に相談できることではないです。逡巡に逡巡を重ねて、体を引き裂かれるような気持ちで、私たちに電話をくださったはずです。誰になら相談できるか、誰なら秘密を守ってくれるか。みお先輩の声が震えていたのは、涙のせいだけじゃないと思うんです。
それなのに、もしも信頼していた相手が警察に通報したとしたら。
責めるつもりはありません。いずれ私も、同じことをしていたと思うから。私にとって大事なのは、みお先輩です。みお先輩がマコトさんをどう思っていようが、私には関係ありません。みお先輩を傷つけるような人間なら、どんな方法を使ってでも引き離したいと思っていました。手段を選べないほど深刻な状況になったら、私もきっと警察に通報していたと思います。
でも、だけど、どうしてもう一日だけ待ってくれなかったんですか。センパイはいつもそうです。ドラムと一緒です。センパイは――いつも、走り気味なんです。
……。
…………。
……もうすぐ駅ですね。
………………。
今はヒマな時期だ、と言ったの覚えていますか。私じつは今、みお先輩の学部の授業に出席しています。大学では、一度留年してしまうと、あっという間に人のつながりが無くなります。試験の過去問もゼミの情報も、急に手に入りづらくなります。だから私、みお先輩の授業に出ているんです。ノートと過去問を、みお先輩にお渡しするつもりです。いつか、みお先輩が復学なさったときのために。
センパイ、私には夢があります。
いつか全部が終わったら、またセンパイたちと音楽がしたいんです。
地元から離れて、みんなバラバラになって、どんなに互いのことを解らなくても、きっと変わらない部分があると信じているから。心のいちばん奥は繋がっていると信じているから。だから、またバンド組みましょう。いつか、全部が終わったら。
音楽があれば私たち、きっと元に戻れます。
あんなに軽音が好きだったのだから」



     【了】



◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆


お読みいただきありがとうございました。
感想など残していただければ幸いです。



※参考



けいおん!!公式ホームページ

http://www.tbs.co.jp/anime/k-on/



.