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駄作小説はいかにして作られるか/読者と作者との埋められない溝

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《駄作小説はいかにして作られるか/読者と作者との埋められない溝》2010/01/28



 書いても書いても、駄作しか生み出せない。友達に読んでもらっても「あ、うん、面白かったよ……ハハハ……」と愛想笑いを返される。作品のレベルを押し上げることができないのはなぜか。
 その根底にあるのは、作者と読者のすれ違いだ。両者では、創作物に対する着眼点が違う。この着眼点の差を理解することで、あなたの書いた小説はきっと今より面白くなる。


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 ここでいう「駄作小説」とは、本屋さんに売っている小説のことではない。ネット上を少し巡回すれば、膨大な数の素人小説が出てくる。そして、それらの作品のほとんどが酷い出来だ。もちろん、面白い作品だってごくまれに埋まっている。電撃文庫から刊行された『ソードアート・オンライン』は、もともとネット小説だったというが、順調に売り上げを伸ばしているようだ。けれど、そういった作品は例外中の例外で、素人の書いた小説はおしなべてつまらない。商業ラインにはとても載せられないような出来のものばかりだ。それらを指して、ここでは「駄作小説」と呼ぼう。

 で、駄作小説から脱するためによく言われるのが「読者の眼を意識しろ」という言葉。

「作者の自己満足に陥ってはいけない」
「まずは最後まで読了してもらえるように書け」

 少しでも創作活動をしたことのある人ならば、一度は耳にしたアドバイスだろう。けれど「読者の眼」とはずいぶん抽象的な概念だ。ハッキリ言って、よくわからない。読みやすい文章? 他の誰の文章よりも、自分の書いた文章がいちばん読みやすいに決まっている。そこに何が書いてあるのか知っているのだから、すらすらと読み進められる。
「それに対して、なんだ、あの西尾なんちゃらとかいうヤツの文体は! ダジャレを重ねたいだけじゃないか! しかもその作風を真似した埼玉の地名みたいな作家が、ヒット作を連発しているらしい! ああ、日本の読者のレベルも堕ちたものだ!」――と、少しでも創作活動をしたことのある人ならば、自作のつまらなさを読者へと責任転嫁してしまいがちだ。要するに、「読者の眼」というものが何を意味しているのか解っていない。

 この「読者の眼」という概念について、ちょっとしたヒントを手に入れた。なので、覚え書きを兼ねてエントリーにしてしまおう。正直、コロンブスの卵みたいな発想だと思った。言われてみれば「なるほど」と超・納得できるのだけど、言われるまで気づかない。そういう類のものだ。(で、気づかないからこそ俺はいつまでもワナビなのだ)




 新城カズマという作者さんがいる。知っているヒトには言わずと知れた作者なのだけれど、一般小説しか読まないヒトは初めて聞く名前かも知れない。最近では『15×24』という作品が「めちゃくちゃ面白い隠れた名作だ」と、ひそかに話題になっている。ストーリーテリングに優れた作者で、先の読めない、ぐいぐい引き込まれるような作品を書く。


 そして新城カズマ先生が自身のブログで、こう言っていた。

ストーリーテリングとドラマティックであることと、感情移入できることって、実は微妙に違う」
 http://d.hatena.ne.jp/sinjowkazma/20090905/1252143285


 あー、わかる! 超わかる!
 そうだよね、小説(に限らず映画や舞台など)の成分って、その三つに分類できるよね!
 ――と、この一言を読んだ瞬間、激しく同意してしまった。

 小説のような「物語性」を持つ芸術作品は、三つの階層に分けることができる。

・お話全体の流れを意味する「ストーリー」
・そしてストーリーを構成する「ドラマティックなシーン」
・さらに感情移入できる「キャラクター」

 で、この三つの階層に対する意識が、読者と作者とでは違うのだ。



 ちょっと好きな映画を思い出してほしい。
 俺の場合は迷わず『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と答えるし、大人になった今はC.イーストウッド監督の作品が大好物だ。もちろん『ぽにょ』でも『ヱヴァ(破)』でも構わないし、『恋空』(笑)でも構わない。
 真っ先に思い出すのは「印象的なシーン」ではないだろうか。そして、そのシーンに登場している人物を思い出す。だけど、そういった印象的なシーンたちが、どういう順番で並んでいたのか、案外すぐには思い出せない。
 好きな映画であるはずなのに、ストーリーは意外と覚えていない。


「映画『タイタニック』の最初のシーンは?」という質問に、即答できるヒトは少ない。
「主人公とヒロインはどういうきっかけで出会った?」という質問も同様だ。
 だけど『タイタニック』という作品名を聞けば、多くの人は「船のへさきで両腕を広げるシーン」を思い浮べる。なぜならそのシーンが最もドラマティックだし、観客の心に長く残るものだからだ。 そして何より、「ディカプリオが主演した映画だ」ということを誰もが知っている。ケイト=ウィンスレットの赤いドレスがとても魅力的だったことも。

「映画『ダークナイト』で、ジム・ゴードンバットマンはどうやって知りあった?」という質問も、なかなかの難問だ。それに対して、ジョーカーが悪事を働くシーンの印象的なことと言ったら! そして何より「船のなかで起爆スイッチを受け渡す」シーンはドラマティックで、映画を見終わった後も長く心に残る。映画史に残る名シーンの一つだろう。
 そしてこの作品が、ジョーカー役のヒース=レジャーの遺作となったことを知らない人はいない。何度見ても、彼の怪演には背筋が凍る。



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 創作物の受け手(小説ならば読者、映画ならば観客)は、まず「主要な登場人物がどんな人だったか」という点を見ている。その人物たちに感情移入できなければ、作品を楽しむことが出来ないからだ。
 続いて、心に残るようなドラマティックなシーンを見ている。目の前に提示されるシーンが退屈なものだったら、続きを読もう/観ようという興味が削がれてしまう。
 そしてシーンや登場人物がやぶからぼうに提示されるのでは、読者は混乱してしまう。シーンやキャラクターを論理的に繋げて、整合性を保つために、ストーリーが必要となる。これが読者サイドの目線だ。


 いわば、三枚のガラス板に描かれた絵のようなものだ。
 ドラゴンクエストの戦闘シーンは、三枚のレイヤーによって描かれているらしい。別々の絵が描かれた三枚のガラス板を重ねて、一つの戦闘シーンを表現している。一枚目のガラス板には背景だけが描かれている。そして二枚目のガラス板にはモンスターだけが描かれる。そして三枚目にはステータスが描かれている。この三枚のガラス板を重ねると、あの戦闘画面ができあがる。
「ストーリー」「ドラマ」「キャラクター」の三層構造も、この三枚のレイヤーによく似ている。いちばん奥のガラス板には背景の代わりに「ストーリー」があり、その上に「ドラマ」が載っている。そしていちばん手前には、「キャラクター」が描かれている。プレイヤーにとって一番重要な情報はステータスだ。だからいちばん手前に書かれる。読者にとって一番大事な情報は登場人物だ。それはゲームにおけるステータスに近い。


 一方で、作者側はどのようにお話を組み立てるのだろうか。

 間違いなく、ストーリーから考え始める。作者にとって最も重要なのはストーリーだ。
 なかには「キャラクターを設定して、そのキャラクターを動かしてお話を作る」という作者もいるだろう。けれどキャラクターの設定表だけを読んでも、感情移入をするなんて不可能だ。そういう作者が最初に書きあげる「キャラクターの設定」は、ストーリーを作るための前準備にすぎない。ストーリーが出来上がり(つまりプロットが完成して)、ドラマティックなシーンを書いていくなかで、初めて感情移入できるキャラクターとして登場人物が活きてくる。
 あるいは東野圭吾は「書きたいシーンがいくつか頭に浮かんで、それを書くためにお話を作る」と言っている。やはりストーリーを無視してシーンを並べることはできない。魅力的なシーンから着想する作者は少なくないだろうけれど、ストーリーの呪縛からは逃れられない。



 つまり作者と読者は、三枚のガラス板を挟んだ反対側にいるのではないか。
 図解すると下のような感じ。

読者と作者のズレ.jpg



 先に引用したエントリーのなかで新城カズマ先生も指摘しているが、「お決まりのパターン」を読者は喜ぶ。「江戸時代の歌舞伎で、観客のノリがどうも悪い時には、ストーリーに関係なく義経を登場させた」という話は興味深い。お話の流れなどブチ切って、とりあえず義経を出してしまう。すると観客は大喜びで拍手を送ったという。
 これは現代でも変わらない。ドラえもんの道具を賢く使いこなすのび太なんて見たくないし、かつおに叱られるサザエなんて想像できない。ドラえもんサザエさんの主要キャラクターが歳を取らない理由はこれだ。「お決まりの安心感」を求める人が、少なからず存在する。お決まりの安心感には需要がある。
 読者にとって一番身近なのは、登場人物だ。だから登場人物が「いつもどおり」であることは、作者が考える以上に読者にとっては重要なのだ。


 で、受け手のこういった視線を理解していたのが、ゼロ年代の終わりを飾った「ストーリーらしいストーリーを持たない作品群」なのではないか。
 すなわち、『らき☆すた』『けいおん!』『生徒会の一存
 これらの作品のヒットを見て、新城カズマ先生は「ストーリーって必要なのか?」と問いかける。小説家にせよ脚本家にせよ、芸術家であると同時に、製品を生みだす企画者だ。需要のないものを作っても、それは正当に評価されない。
 オススメしたいのは下記のエントリー。


 結局は自分の好きなことを貫き通したやつが負け
 http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20100114/1263451331


 挑戦的なタイトルだが、言っている内容はごく当たり前の「顧客ありきだよね」というもの。マイケル=ジャクソンは「いかにしてファンを喜ばせるか」を常に考えていたという。喜んでくれる人がいるからこそ、コンテンツを世に送り出す意味がある。

 もちろん「安心感だけを求める受け手」ばかりではない。胸の踊る急展開のお話や、度肝を抜かれるどんでん返しのあるお話、そういったストーリー重視の作品にも、確実に需要は存在している。友人に「小説にストーリーって要らないんじゃね?」という話を振ったら、「それって愛がなくてもセックスはできる、みたいな話だよね」と言われた。彼にとってストーリーとは愛なのだそうだ。
 問題となるのは「いま書いているこの作品は、どういう人が読むのか」という視点だ。ストーリー、ドラマ、キャラクターの三層構造に分けたとして、どの階層に注視する人を読者として想定しているのか。それを考えなければいけない。

 自分はどういう読者なのか、という側面から考えるのも有効だろう。ワナビの多くは「自分が読みたいモノ」を書いているはずだ。したがって、もしもあなたの作品を「面白い!」と言ってくれる人がいるならば、間違いなくその人の嗜好はあなたのそれと似ている。


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 とはいえ、ネットにはびこる駄作小説たちを、この「ストーリー不要論」の俎上に載せることはできない。なぜならレベルが違いすぎるからだ、下の方向に。

 ただし、作品の質を向上させるうえで、この「ストーリー」「ドラマ」「キャラクター」という三つの軸を使った分析は役立つだろう。おそらくこれら三つの軸には、どれも最低限超えるべき合格点のようなものが存在する。その一つでも欠けていたら、作品は読むにたえない駄作となる。また、この三つの軸のバランスも大切だ。びっくりするようなどんでん返し「だけ」が書かれていても、それは小説とは呼びがたい。

 作品を書き、それを誰かに批評してもらう時、この三つの軸を頭に入れたうえで話を聞くと、解決すべき問題点が見えてくるかも知れない。
 読者と作者とでは、コンテンツに対する着眼点が違う。そしてこのエントリーで指摘した「ストーリー/キャラクターに対する態度」の他にも、数え切れないほどの差異があるだろう。読者の眼を意識した作品を書くには、まずは「どういった違いがあるのか」を探っていくことが必要だ。たぶん近道はなくて、地道に調べていくしかない。

「読者とは何者か?」
 この問題の答えを探すことが、きっとあなたの作品の質を高める。