デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

アニメ『宝石の国』のちょっとキモい感想

 小学五年生のころ、『新世紀エヴァンゲリオン』がクラスで流行った。少なくとも第11使徒イロゥルと戦うあたりまでは、単純にロボットアニメとしてドキドキワクワクできる作品だった。私の教室では男子よりも、少しマセた女子のほうが『エヴァ』にハマっていたように記憶している。

 当時、本屋にいけば評論家を名乗る大人たちが、やたら「性的なもの」と結び付けた分析を書いていた。

 ああいう評論を、子供のころの私は心底キモいと思った。

 作品の世界はその作品内で完結するべきで、「性的なもの」のメタファーとして捉えるのは邪道もいいところだ、大人って最低――。子供だった私はそう思った。アニメにせよ、映画やマンガ、小説にせよ、物語を楽しむときには「物語世界」そのものを受け入れるのが正道だ。この考えは今でも変わっていない。

 しかし今では私も立派な大人。最低なやつらの仲間入りを果たしている。物語を性的なもののメタファーとして捉えなおすという邪道な楽しみ方を覚えてしまった。今回の記事の内容は、われながらキモいなと思いながら書く。

 アニメ『宝石の国』の話である。

 あらかじめ断っておけば、これはあくまでも個人の感想だ。「評論」なんて大それたものではないし、私のような浅学菲才の者に他人の作品を「評して論じる」などという不遜なことができるとは思えない。すべての文末に「お前がそう思うならそうなんだろ、お前の中ではな」と付け足して読んでいただきたい。また、あくまでもアニメ全12話の感想である点にもご注意を。恥ずかしながら原作マンガはまだ最新巻まで追い付いておらず、途中までしか読んでいない。

 ついでに言えば、もしも私とは違う感想を抱いた人がいたら、否定的なコメントを1つ残すのではなく、ブログ記事として文章に起こしていただければ欣快の至りである。自分の好きな作品を、他の人はどんな目で楽しんだのか――。誰か別の人の感想をぜひ知りたいと思うのは自然なことだろう。

 

 

宝石の国』の登場人物たちは、文字どおり宝石である。厳密にいえば鉱物結晶を集めて生きる微生物(※それこそ第11使徒イロゥルのような)の集合であり、群体ホヤやボルボックスのような生態を持つ生命体のようだが――。SF考証はここでは一旦、脇に置こう。

 宝石である彼女たちは、いったい何を象徴しているのだろう?

 世界観としては、彼女たちには〝性別〟がないことになっている。アニメ化の企画段階では、男性声優と女性声優のどちらを使うか議論されたそうだ。

 たしかに彼女たちの体つきは中性的である。尻の肉付きや腰のラインは少女のそれである一方、胸に乳房はない。ポイントは両性具有的な表現になっていないことだ。下半身が女性的であることに異論はないだろう。反面、もしも「上半身が男」だとしたら、肩や腕は、より男性的な、筋肉質なものとして描かれるべきだ。しかし実際には二次性徴前の、男女の区別があまりない時期の少年のように描かれている。

 したがって私は、宝石たちを「二次性徴直前の少女」の象徴と捉えた。見たまんまである。

 金剛先生が「優しい父親」のメタファーであることに異論は少ないだろう。彼は家庭――作中の言葉を使えば、宝石たちの暮らす「学校」――の秩序をつかさどる存在であり、いざというときは身を挺して宝石たちを守ってくれる頼もしい男だ。たとえば主人公のフォスフォフィライトを束縛して躾を押し付けるような、「厳格な父親」型のキャラクターではない。

 では、宝石たちの輝きに魅せられて、無言で彼女らに襲い掛かる「月人」はいったい何の象徴だろう?

 私は彼らを、世の中にはびこる「男たちの性欲」のメタファーだと捉えた。

 二次性徴前の少女にとって、大人の性欲は「よく分からないが怖いもの」の代表である。今の時代、女児は誰でも警報ストラップを渡されて、変質者に襲われたら鳴らすようにと教わる。プールや温泉では盗撮カメラに注意するように言いつけられる。早熟な子なら満員電車で痴漢被害の経験があるかもしれない。子供の目から見れば、大人の男が抱く「性欲」は理解不能な恐怖だ。

 そういう「よく分からない怖いもの」を、物語上の敵としてキャラクター化したものが月人である。少なくとも私の目にはそう映った。「男の性欲」という概念の人物化だ。月人の放つ無数の矢は精子のメタファーであり、月人の群れの中央にそそり立つひときわ巨大なそれは男根のメタファーである。

 アニメ放送回の終盤、「しろ」と呼ばれる異形の月人が現れる。厳密には月人とイコールではないようだが、アニメでの初登場時にそのことは明示されない。「月から来た怖いもの」という点で、ほかの月人とほぼ同じものを象徴していると考えていいだろう。しろは切断されると分裂し、やがて子犬のような小さく可愛らしい姿になる。

 世間にはびこる概念としての「大人の性欲」は恐怖でしかない。コントロール不可能で、意味もなく襲い掛かってくるからだ。しかし、小さく細分化されて少女自身の手でもコントロールできるようになった性欲は――たとえば大好きな彼氏のそれは――もはや怖くないし、ときには可愛らしいとさえ感じられる。好きな人から性的に求められるのは、大抵の人にとって、ふわふわした気持ちのいいものである。しろの毛並みと同様に。

 第11話の中盤には、宝石たちがしろのもふもふの体に抱かれて眠るシーンがある。彼女たちはまるで〝事後〟のような、穏やかな寝顔を浮かべていた。このテレビシリーズでいちばんエロいシーンだ。しかし主人公のフォスだけは、しろに身をゆだねることができない。なぜか?

 しろを手なずける金剛先生を見て、主人公のフォスは先生と月人との関係を疑うようになったからだ。誰しも子供のころは、自分の両親を性とは無縁な全知全能の存在だと感じるものだ。両親を1人の人間として――1人の男、1人の女として――見做せるようになるのは、人間が大人になる過程で必ず通る成長段階の1つである。

 大好きなお父さんにも、他の男と同じような「大人の性欲」があるかもしれない。成長過程で、人は必ずこのことに気付く。人によっては、この気付きが反抗期のきっかけになるかもしれない。フォスが金剛先生と月人との関係を疑うのは、こういう思春期の「気付き」のメタファーであろう。

 

 ウェントリコスス(※フォスを取り込んだカタツムリの女王)は「悪しき母」の象徴であり、広い意味では「聖娼婦」型のキャラクターだと見做せる。死や老化を恐れ、肉体を維持するために娘を食い物にしようとする。『ヘンゼルとグレーテル』やディズニー映画『塔の上のラプンツェル』の魔女、『シンデレラ』の継母などの遠い親戚である。

 ウェントリコススは宝石たちにはない大きな乳房を持ち、主人公のフォスからは「下品」だと評される。さらには下半身で摂食するという象徴的な行動を取る。この辺りは、マグダラのマリアのような「聖娼婦」型のキャラクターだとも見做せるかもしれない。

 私たちは禁欲を純粋に文化的なものだと考えがちだ。生物ならばたくさん繁殖しようとするはずで、理性が禁欲という文化を作ってどうにか本能を押さえているのだ、と。

 しかし忘れがちだが、私たちが安全にセックスを楽しめるようになったのは第二次大戦後、ゴム製のコンドームと抗生物質が普及したからである。それまでの長期にわたり、セックスは望まない妊娠はもちろん、性病による死や不妊のリスクも高かった。

 さらに、現代でも殺人の動機には痴情のもつれが上位にランクインする。何万年も昔、狩猟採集生活を営んでいた人類ならばなおさらだろう。ヒトは群れを作って生活する動物である。いきすぎた性的奔放さは人間関係の混乱を招き、群れの崩壊・消滅に繋がったかもしれない。

 要するに、禁欲――性的なものを忌避する傾向――は、純粋に文化的なものではなく、生得的な心理傾向の1つである可能性も否定できないと言いたいのだ。生まれながらに禁欲的な傾向があることで、性病や人間関係の混乱による死を遠ざけ、生存に有利になった可能性がある。禁欲はしばしば「キリスト教によって押し付けられたもの」と説明されるが、じつは進化の産物でもありうると私は思う。

 もしもそうだとすると、ヒトの心には矛盾が生じる。性的なものを忌避しようとする傾向がある一方で、もしも子供を産むのならば性的な楽しみを味わいたいという感情もある。望まない相手と一切の快感も味わわずに子供を作ることと、好きな相手と下半身の楽しみを充分に味わってから子供を作ることの、どちらがより幸せだろうか。ヒトの心には数え切れないほどの矛盾があるが、これもその1つだ。

 この矛盾を消化するために、物語には「聖娼婦」型のキャラクターがしばしば登場するのではないだろうか。

 

 両脚の切断は初潮や処女喪失のメタファーだ。下半身からの出血や足の痛みという形で象徴されることもある。どういうわけか、少女から大人の女性へのイニシエーションは、物語上では「足」にまつわるモチーフで描かれる。お馴染みのおとぎ話から例を引けば、『人魚姫』や『赤い靴』が代表的なものだろう。

宝石の国』の主人公フォスフォフィライトも、アニメ第4話で両脚を失う。彼女の足を奪うのは、宝石の仲間ではないし、偶発的な事故(※崖から転げ落ちるとか)でもない。あくまでも月人に襲われて失うという点がポイントだ。

 ところがフォスは新たな両脚を手に入れて、誰よりも速く走れるようになる。これはじつに現代的な描写だと感じた。『人魚姫』も『赤い靴』も、ヒロインはあまり幸福とは言えない最期を迎える。これは禁欲主義が強かった時代を反映しているのだろう。一方、フォスは今までにない自由を手に入れて、周りの仲間からも一目置かれるようになる。処女喪失の扱いがなんと大きく変わったことだろう。

 ちなみにフォスに新たな足を与えるのはアクレアツス。ウェントリコススの弟だ。そう、ひたすら中性的な世界観の本作のなかで、アクレアツスは「弟」、すなわち男性だと明言されているのだ。なかなか示唆的な設定である。

 

 両脚の切断は、初潮や処女喪失など「少女時代の終わり」を象徴するエピソードだ。

 では、両腕の切断はどうだろう?

 じつはそのものずばり、「手なし娘」というタイトルの童話がある。グリム童話に収録されているものが有名だが、日本や南アフリカにもほぼ同じプロットの民話が存在している。おそらくは共通祖先となる物語があり、どういう経路を辿ったのかは分からないが、それぞれの土地にあわせたマイナーチェンジを加えられて現在まで語り継がれてきたのだろう。

「手なし娘」の典型的なプロットはこうだ。

(1)愚かな父親のせいで、ヒロインは両腕を切り落とされる。
(2)彼女は心優しい王子と出会う。王子は彼女を哀れみ、妻として迎える。
(3)ヒロインはやがて王子の赤ん坊を産む。
(4)王子は何かしらの事情で城を離れることになる。
(5)王子の不在中、すれ違いからヒロインは城を追い出されることに。
(6)放浪のすえ、悪者によって赤ん坊を川に投げ込まれる。
(7)ヒロインは赤ん坊を助けようと川に飛び込む。奇跡が起こり、彼女の両腕が復活する。

 ヒロインが両腕を切断する理由が悪魔だったり意地悪な継母だったり、細かなバリエーションは無数にある。しかし、赤ん坊を産み、家を追い出され、赤ん坊を助けようとして両腕が再生する……という一連の流れは共通だ。いったい、この童話は何を象徴しているのだろう?

 私が思うに、両腕の切断は「早すぎる結婚」のメタファーである。

 家父長制の色濃く残る時代、女たちはごく若いうちに結婚を余儀なくされた。童謡『赤とんぼ』に唄われるように、十五でねえやが嫁に行くのが当たり前の時代があった。せいぜい100年ほど前の、ほんのちょっと昔の話だ。

 まだ遊びたい盛りだし、本当は自由を謳歌したい年齢のはずだ。夫は優しいかもしれないが、それでも他人の家である。幼い妻たちは、きっと両腕を失うような不自由さを感じたことだろう。

 しかし赤ん坊が生まれると、事態は一変する。大切な孫を産んだことで、妻は一家の一員として認められるようになるだろう。今まで意地悪だった親戚からの態度も和らぐだろう。少なくとも嫁いできたばかりのころに比べれば、息苦しさは薄くなるはずだ。見ず知らずの他人の家だった夫の実家を、自分の家だと感じられるようになるかもしれない。

 そんな女性の人生のワンシーンを寓話化したものが、「手なし娘」の物語だと思うのだ。両腕の切断は、自由の喪失である。赤ん坊を産み育てることで両腕は再生し、自由が回復される。

 言い換えれば、「手なし娘」は少女の自立の物語でもある。一昔前まで、女性は赤ん坊を産まなければ周りの大人たちから1人の人間として認められなかった。自立できず、自由を回復できなかった。両腕のない少女は周囲の助けがなければ生きていけない存在だ。しかし赤ん坊を自分の手で助けようと決意したことで、ようやく両腕を取り戻し、自分で自分の身の回りのことができる自由な存在へと進歩するのだ。

 で、『宝石の国』だ。

 フォスフォフィライトは両腕を失うが、これは何を暗喩しているのだろう? 自由な恋愛が当たり前になった現代において、「早すぎる結婚」に相当するものはなんだろう? 高齢出産が当たり前になり、生涯未婚も珍しくない時代。私たちの「自立」の尺度となるものは何だろう?

 おそらく、それは「就職」だと思う。

 世間の人事担当者が「就職活動は結婚相手を探すようなもの」と言う通りである。

 就職したら、もう学生時代のような自由はない。新人のうちはやりたいことができるわけでもなく、文字通り、両腕を失ったような不自由さを感じるはずだ。フォスフォフィライトが両腕を失うのは、いつだったか? それは彼女が初めてまともな仕事を与えられて、初めて自分一人でやってみろと迫られたときだ。

 就職したばかりの現代人は、誰でも不自由さを感じるものだ。

 では、「自由を取り戻した」と感じるのはいつだろう? 言うまでもなく、報酬を受け取ったときだ。学生時代とはケタ違いの金額を手にしたときである。お金とは、何でも買えるし何でもできる新しい力だ。だからこそフォスの両腕は金で出来ているのだ。

 現代において、女がまともな収入を得るには〝男並み〟に働かなければならない。少なくとも上場企業の総合職なら、そうだ。新しい両腕を得て仕事をこなせるようになったフォスが以前よりもボーイッシュな外見になるのは、そういう現実社会を反映しているのかもしれない。

 なお、私はダメな大人なので、フォスの両腕が金になった瞬間、「うわエロい! エロすぎる! だって水銀って金を溶かすじゃん! シンシャと溶け合って宝石ックスできるじゃん!!」とか思ったけれど、よく考えたら原作を途中までしか読んでないのでシンシャの毒が水銀なのか分からないしフォスの腕には白金も混ざっていた。

 

 


アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』PV第4弾

 

 両腕の切断といえば、Netflix等で配信中の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』だ。こちらの作品の主人公ヴァイオレットも、フォスフォフィライトと同様に両腕を失っている。ヴァイオレットは思うように動かない義手を身に着けて、代筆業に挑戦する。こちらの作品でも、やはり両腕の切断と「就職」が強く結びついている。

(※そして例によって、こちらも原作は未読である。ごめんなさい…)

宝石の国』との比較でいえば、金剛先生が「優しい父親」のメタファーであるのに対して、『ヴァイオレット』のギルベルト少佐は「厳格な父親」のメタファーだと考えていいだろう。軍隊は「厳しい規律」の象徴である。軍隊の少佐というキャラクターは(少なくとも少女が主人公の物語では)家庭内のルールを強制的に守らせるような厳しい父の像と結びつけることができる。

 これは血縁関係にある父親でなくてもいい。厳しい先生とか部活の怖い先輩とか、「父親的存在」であれば何でもいい。重要な点は「少女を監督する立場にあるかどうか」であり、血縁関係かどうかはあまり問わない。「○○な父親」型のキャラクターが、主人公との恋愛関係に突入するのは珍しいことではない。

 女性が結婚相手に求める条件の1つに、「将来、父親となって自分の子育てを援助できるかどうか」というものがある。そして自分の父親は、少なくとも自分を育てることには成功した実績がある。一部の女性が、恋愛対象として自分の父親と似た人を選んでしまう背景には、そういう仕掛けがあるのだろう。将来の良き父親は、現在の良き彼氏になる(場合もある)。

 

宝石の国』と『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、主人公の比較も面白い。

 フォスフォフィライトは、あまり縛られることなく天真爛漫に育った問題児である。やりたいことをやっていいよと言われて、甘やかされて育った少女が、やがて大人としての自覚と責任に目覚めていく物語として見ることができる。

 一方、ヴァイオレットは正反対だ。現実の日本で喩えるなら、軍隊のように規律の厳しい環境で育ち、戦争のような受験勉強をくぐり抜けてきた少女だ。自分のやりたいことなどさせてもらえず、自分が何をやりたいのかさえ分からない。そんな女性である。言うなれば、真面目一貫で名門大学を卒業した女性が、初めて手にした自由に戸惑いながら、やがて「自分らしい人生」を掴んでいく物語として見ることができる。

 

 どちらの物語も、舞台設定は現代日本とはかけ離れている。『宝石の国』は鉱石生物が進化するほど遠い未来の物語だし、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はおそらく第一次世界大戦後のドイツ~オランダあたりをモデルにしている。

 しかし、登場人物たちの抱く想いは現代日本の私たちにも馴染み深いものだ。わけの分からない「大人の性欲」に対する恐怖心。いつまでも子供のまま、仕事もせずに遊んでいるままではいられないという焦り。心を言葉で表現する難しさ。「愛してる」の意味を知りたいという気持ち――。

 いずれも、私たちが深く共感できるものだ。

 だからこそ舞台がどんなに突飛でも、主人公を見て「彼女は私だ」と感じられるし、見終えた後も長く記憶に残る。ファンタジーやSFを描くうえで重要なポイントはこの辺りにあるんだろうな……と思う。

 私もウワサに聞く程度だが、一昔前のラノベ業界では「高校生がとくに目的のない部活を作りダベるお話」の企画しか通らない時期があったらしい。今なら「冴えない男が主人公の異世界転生で…」みたいな感じだろうか? そういう外形的な世界観設定はあくまでもマーケティング上のもので(※消費者は「自分のよく知る商品に似ている別の何か」を求めるものだ!)読者の感情移入にはあまり重要ではないのだろう。

 

 

世界を創る女神の物語 ─神話、伝説、アーキタイプに学ぶヒロインの旅

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神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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